菅原家住宅
Sugawara



 
北上市指定文化財 (平成18年10月2日指定)
旧所在地・岩手県一関市川崎町薄衣字塞の神267
建築年代/江戸中期(18世紀中頃)
用途区分/山村農家
移築建物/主屋・中門馬屋
岩手県最南端の中核都市である一関から気仙沼方面に向かう途中の山間部に所在していた上層農家である。平成3年に当民家園に移築された当住宅は、そもそもは旧川崎町の中心部となる薄衣宿の東方に聳える標高306mの烏森山北麓に屋敷を構え、嘗て「嵯峨根屋敷」あるいは「猿ヶ峰屋敷」と呼ばれていた。嘗ての屋敷構えでは主屋の南方に中門馬屋を配置し、特別な家格を有していたものと推測される。というのも藩政期における当地方は仙台藩領に属していたが、藩の家作制限により、中門馬屋は近世初頭に土着した旧武士階級の後裔か、あるいは近世を通じて肝入等の村役を務めた有力農民層に限り許されるものだったからである。また主屋の北方には金烏神社が祀られていたが、この神社は屋敷南方の烏森山の頂上にある烏森神社の里宮で、藩政期には「下の病」にご利益があると喧伝され、遠方からも参拝者を集めたと伝えられている。こうした背景が示すように当家が農家のみを生業とするのではなく、神官としての性格を有していたことも判明している。ちなみに当家については直接に由緒を示す文書等は残されていないものの、安永年間に仙台藩によって製作された「風土記御用書出」の記述から、江戸初期には「三浦姓」を名乗り、当地で土着、帰農した中世武士の末裔であったことが推察されている。
住宅は寄棟造、平入の建物で、桁行9間、梁間5間、建坪約45坪ほどの直屋建てとなっている。内部は喰い違いの5間取りであるが、座敷の前室として「騎馬の間」という控えの間を設けることが一般的な当地方の上層階級の家作において、当住宅の座敷には該当する前室が無い。(後世の改築時に付加されてはいたが、移築時の調査により当初には無かったことが判明している) このことについては、実は別棟で座敷棟が建てられていた故のことと考えられており、往時の当住宅は更に整った屋敷構えであったことが想像される。また主屋の建築的特徴として土間がやや狭いことが挙げられるが、これは建築年代が下ると考えるよりも、神官的な性格を併せ持った故に農家的な色彩が後退したものと考えられている。当民家園への移築建物は主屋と中門馬屋のみとなっており、建物の配置も旧屋敷地の様子を踏襲していないため、往時の風情は望むべくもないが、旧仙台藩領北辺の上層農家の中でも古い遺構であり、その由緒や変遷を辿ることで、より一層興味が湧いてくる民家である。


 

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