菅野家住宅
Kanno



 
国指定重要文化財 (昭和40年5月29日指定)
旧所在地・岩手県北上市口内字長洞129
建築年代/享保13年(1728)
用途区分/農家(大肝入)
指定範囲/主屋・表門

菅野家住宅は北上市の東郊を流れる北上川の東岸沿いに長々と続く桜並木が美しい展勝地公園内に設置された民家園「みちのく民俗村」に所在する上層農家建築である。東北一と喧伝される「みちのく民俗村」の開村は平成4年10月のことであるが、そもそもの発端は昭和48年の北上市立博物館開設にまで遡り、当住宅がその際に現在地に移築復原されたことに始まったとされる。当住宅は民俗村の数ある民家建築の中で唯一国の重要文化財に指定されているばかりでなく、普請帳により享保13年(1728)の建築であると年代が明確に判明していること、また大肝入という最上層農家の大規模な建前であることなどと併せ、村内で最も貴重な存在とされているが、何よりも当住宅の風情には民家としての格の違いを大いに感じさせるところがあり、多くの人々を魅了し、民家という存在を後世に残すべき地域の宝だと感化させ得たからこそ、岩手県南部に地域を限定して蒐集するというコンセプトを明確に打ち出し、それを地域の多様性を包括的に知らしめる民家園という形に構想化させ、実現できた話だったのではなかろうか。
私は東北地方を旅する際には、この民家園に必ず立ち寄ってしまう。幾度も訪れているのだが、一向に飽きない。その理由を自分なりに考えてみると、やはり、この民家園が所在する北上市という自治体の不自然さが、良い意味で影響しているように感じる。つまりこの北上市は不思議なことに旧伊達藩領と旧南部藩領の両方に跨って市域を有する稀有な自治体であることである。総じて小藩が乱立する地域ではいざ知らず、伊達藩62万石、南部藩20万石の大藩が隣接するような地域には珍しい現象で、それ故に当民家園では北上市内から蒐集した民家といえど、両藩の全く異なる地域文化性を体現する住宅建築を比較しながら観察できるのである。例えば、判り易い例を挙げると、直屋と曲屋の違いは端的な例である。旧伊達藩領では直屋、旧南部藩領では曲屋を建前の基本とするのである。大きな山や川が立ち塞がり両者を隔てている訳では決してなく、少し小さな沢や小山がある程度の土地に人為的な境界が引かれているだけのことであるにも関わらず、民家の世界においてその様子は両者で相当に異なるのである。みちのく民俗村は、その辺りの違いをきちんと区分けするとともに、生業によって異なる建前もきちんと示してくれている。とても良い民家園だと心底思う。
さて前置きが長くなり過ぎた。菅野家住宅のことである。当住宅の移築前の所在地は、北上市の東郊に所在した旧下口内村である。現在地である民家園からは東へ10km程の中山間地である。口内は藩境の集落で、今やその痕跡は殆ど留めてはいないが、上口内には伊達藩の出城的性格を持つ口内要害が置かれ、知行高252貫文(石高2500石程度)の中嶋氏を舘主に仰ぎ、その配下の武士が侍屋敷80軒、足軽屋敷100軒から構成される要害集落を形成していた土地柄である。要は藩領を北辺の敵から守ることを常に意識していた土地柄なのである。ちなみに当家と同様に民家園内に移築保存されている大泉家住宅は、口内要害に住した最上位の武家住宅で、中嶋家中の身分階層は御一家・御五家・御着座・御小姓・御徒組に分かれる中、大泉家は石高5貫文(約50石程度)で御五家筆頭の家柄であった。大泉家住宅の建築年代は江戸中期(文化14年(1817)以前)と曖昧に推定されるため、享保13年(1728)の建築が明確である菅野家住宅とは時代が異なる可能性が高いが、大泉家の主屋の桁行16.2m、梁間9.9mに対し、菅野家住宅は桁行21.3m、梁間10.8mと主屋の規模では支配層の建前を相当に上回っていることになる。もちろん武家と農家を比較することは余り意味の無いことかもしれないが、少なくとも菅野家住宅の主屋の規模は、時代性を考えたときに、相当な家柄を誇っていたのではないかと想像されることは確かである。と、ここまで書いて置きながら勘の良い方ならば、「相当な家柄と想像される」とは如何なることなのかと、訝しく思われるかもしれない。実は菅野家が大肝入を務めたと冒頭に書いておきながら、その確証は得られていないのである。もちろん民俗村発行図書の解説には「大肝入を務めたとされる」としっかり書かれているのだが、当家が大肝入であったとされるのは、屋敷の規模や表門の存在、家の普請に隣村から相当手伝いがあったことが記述されていることなどから想像されているだけのことに過ぎないのである。要は当家の身分を裏付ける古文書が残されていないのである。

江戸中期の当住宅が所在した北上市口内は岩手県南部に位置しながらも旧仙台藩領に属し、隣接する遠野地方に数多く分布する曲屋ではなく、直屋を基本とする地域であることが知られており、多分に漏れず当住宅は桁行11間、梁間5間半の寄棟茅葺屋根の大規模な直屋建物である。当家は郡内を支配する代官の下に僅か2名のみ配置される大肝煎職を務めたこともあり、屋敷は中村屋敷と呼ばれていたとのことである。屋敷内には天和2年(1682)の棟札を持つ鎮守社もあることから、古い歴史を刻む旧家であったと推察される。

江刺市に残る県内最古の民家後藤家住宅との類似性は驚くほどである。古い時代の建前の共通性が感じられる。




 

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