寺坂御番所
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北上市指定文化財 (平成15年5月1日指定)
旧所在地・岩手県北上市稲瀬町内門岡
建築年代/江戸中期(元禄3年頃と推定)
用途区分/藩境御番所
指定範囲/主屋
みちのく民俗村から東方に佇む国見山を隔てた北上市稲瀬町内門岡集落に所在していた旧仙台藩領の旧境目番所建築である。境目番所とは藩境を越える人馬や物資の往来を監視するための公的な施設であるが、その重要性に応じて役人の職階や人数など様々な形態が存したようである。ちなみに、中山間部に在るため往来が少なく、余り重要視されなかった当番所には取締役人の詰所として江刺郡岩谷堂の邑主・岩城氏御預けの足軽が交替で勤務したとのことである。ところで、そもそも県内の事情に疎い余所者には、何故に旧仙台藩の番所が岩手県内に設けられていたのか訝しく思うところであるが、嘗て仙台藩の領域は岩手県南部地方にまで及んでおり、現在の地名で云うところの奥州市と北上市の境が南部藩領との境界であった。(注記参照) 現在の県境は江戸期の藩境とは全く異なる線引きだったのである。ちなみに、みちのく民俗村内にも苑内の最奥部に南部領伊達領境塚(間沢挟塚)が国の史跡に指定され残されている。当住宅の民俗村への移築に際してこの境塚付近が選ばれたことには、もちろん意味があったのである。さて旧仙台藩領における他藩領との境界に置かれた境目番所は、宝暦11年(1761)に書かれた「奥州仙台領遠見記」によれば領内に29ヶ所の番所名が挙げられている。隣接藩は戦国時代には領土争いを繰り返した間柄で、その数に仙台藩の強い警戒心を窺うことができるが、残念ながら時代の経過と共に大半は失われ、現存する番所は昭和中期の段階で国史跡に指定されている旧仙台藩仙北花山の寒湯番所が唯一の遺構と見られていた。そうした中、当住宅が番所建築を移築したものではないかとの報がもたらされ、それが事実であるとすれば、無二の文化遺産と成り得る可能性に大いに期待が寄せられたことは云うまでもない。先述の「奥州仙台藩遠見記」を解説・論及した三原良吉著「仙台藩の南北封境」によれば、寺坂番所について以下の様に解説されている。「江刺郡下門岡村の内、寺坂、南部領御境御番所あり。南部領は北上川際より東、立花村と云う由。寺坂御番所より御境の峠へ拾三丁余あり。双方印杭はなし。」 一方、寺坂番所は地元に残る「下門岡村御境諸事候覚」という古文書により元禄3年(1690)9月に設置されたことが明らかとなっている。当住宅の所在地から、建築が番所建物とさえ確認できれば、旧寺坂番所の遺構であった可能性が高いと考えることに何ら不思議はなかったのである。
さて、ここまで当住宅を寺坂御番所として紹介し、また実際、民俗村内でも寺坂御番所の名称で案内はされているのだが、愕然たる事実をお伝えしなければならない。実は当住宅が番所建物であったという確たる証拠が見つかっていないのである。移築前には地元農家の新田家が住居として使用していたが、その本家の伝承として、「明治2年に分家を出す際、仙台藩から所有が移っていた江刺県に旧番所建物の払下げを願い出て許され、北西100m程の土地に移築、活用した」との話が残されていたことが全ての発端であった。昭和48年に当家が取り壊しを計画するに当たり、そうした伝承を頼りに調査が行われ、かなり古い建物であることだけは確認されたが、実はそれ以上の事は判らなかったのである。その後の当住宅は予定通り同年に解体、部材保管となり、民俗村への移築は10年後の昭和58年にようやく叶ったことであるが、解体の際の調査でも建築に関わる棟札、墨書き等の痕跡は一切発見されなかった。番所建物であると確証に至る手掛りが全く発見されず、また旧仙台藩領における番所建物の遺存例が他に殆ど無い状況では、番所特有の建築様式が如何なるものなのか比較する術が無く、決め手に事欠いたのである。ただ一方で当住宅が番所建物で無かったかというと、これも完全には否定できない。明らかに一般の農家建築とは異なる建築的要素が多分に有ることは事実なのである。
主屋は桁行8.間半、梁間3間の細長く、小振りな建物である。上手に「上座」、続いて「下座」の畳敷の2室を続けて配置し、その下手に床敷、土間庭から成る「台所」を、更に「台所」の下手に「馬屋」を配置する。全ての部屋が一直線上に並列する間取りとなっている。並列型の間取りは四国の祖谷地方や九州の椎葉村など西日本では相当な山間部の狭隘な敷地しか確保できない地域に見られる間取りであるが、旧所在地は比較的拓けた土地柄であり、周辺地域の農家建築の遺存例に同様の間取りを採る例は見受けられない。全体的にかなり素朴な建前ではあるが、同規模の下層農家の建物とは異なり、畳敷の部屋を2室も持ち、且つ「上座」には床の間を備える点などは明らかに武家屋敷の体裁に近い。また建築材として杉材を多用する点も、一般農家が栗や欅などの雑木を主材とする点と比較して、庶民の住居とは明らかに異なる扱いを受けた証左と見る向きもある。但し、式台などの格式を演出する表構えは無く、むしろ座敷廻りには土壁が多用されるとともに、座敷に天井も張られることなく化粧屋根裏となっている点などは、むしろ農家建築に近い要素である。また建築技法の観点からは、梁間が小さいこと、部材が手斧削りであること、間口部が少なく閉鎖的で、片引き戸形式の間仕切りが多用されていることなどから、相当な古式を保つ建築と考えられている。報告書では、ひょっとすると番所が設置された頃の元禄3年(1690)の建築がそのまま残っている可能性もあるとさえ言及している。「江戸初期の古式を残す番所建築」という結論は魅力的である。しかし冷静に考えると、番所建築とは如何なる建物なのか、江戸初期にまで遡る武家屋敷がどのような建物であったか、という点について、残念なことに東北地方においては比較できる残存例が無いのである。唯一の番所建築として残る先掲の花山村寒湯番所は江戸末期となる安政2年(1855)の建築で桁行12間強、梁間6間半にも及ぶ巨大建築ゆえに全く比較の対象とならない。状況証拠から番所建築であることに間違いないとの結論は、私には番所建築であって欲しいという願いが先行したが故のものに思えてならない。
当住宅が寺坂御番所の建築であったか否か、これは恐らく永遠の謎のままであろう。ただ、御番所だと断じられないからこそ面白い、と私は思う。民家の世界は多様で、奥深い。常に例外が存在する。永遠の謎解きが自らを民家世界への深みへと導くのである。(2023.5.22記述)

(注記)稲瀬町は昭和30年の町村合併時に奥州市江刺区と北上市に帰属が分かれた。すなわち藩政期においては番所が所在した稲瀬町内門岡は仙台藩領であったが、昭和30年に旧南部藩領である北上市に属した経緯がある。

【参考文献】北上市立博物館調査報告書第5集 旧仙台藩寺坂番所(旧新田家主屋)復原修理報告書
 

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