大泉家住宅
Ooizumi



 
北上市指定文化財 (平成9年8月28日指定)
旧所在地・岩手県北上市口内町荒町
建築年代/文化14年(1817)以前(18世紀中頃と推定)
用途区分/在郷武家(口内要害城代家老)
指定範囲/主屋

岩手県内でも南方の旧仙台藩領を逍遥していると各所で「要害」という地名に出会す。他所では余り聞き慣れない言葉で、字面からして砦のような土地柄をイメージしてしまうが、仙台藩領の統治制度について詳しく調べてみると少しニュアンスが異なるようだ。要害とは領内の郷村に点在する城郭に準ずる陣屋或いは代官所の様なもので、仙台藩は家臣団の中でも一門、一家、一族、着座といった藩主家に近い門閥で家禄の高い譜代上級家臣に対して藩内の戦略的に重要な土地、例えば主要街道沿いの藩境付近の土地を給地として与えるという独自の制度を採っていた。彼らには地頭領主として自らの家臣団を要害に配備させ、一定の行政権、裁判権の行使を認めたため、その帰結として陪臣身分の武家屋敷街が要害屋敷を中心に形成され、それに当て込む商人たちが周辺に集住することで、小規模な城下町の様相を呈することとなったのである。他藩でも歴史のある外様大藩では同様の例があり、一般に云うところの地方知行制と称されるものであるが、実際に家臣団を配して他藩領との警戒警護に当たらせたという点においては、類を見ない特異な例であったとも云える。
さて、そもそも移築前の当住宅は北上市街から東に8km程の位置にある口内町に所在していた旧武家屋敷であったが、口内もまた南部藩領との藩境の町として要害が築かれた場所であった。口内邑主として配された中島氏は伊達一族に列する禄高1700石の譜代の家臣で、当住宅はその中島氏の筆頭家老職を務めた大泉家の住居である。口内には幕末、安政2年(1855)の時点で中島氏の家中屋敷として約55軒の侍屋敷と19軒の足軽屋敷が在ったと記録されているが、大泉氏の禄高50石は、5石~20石取の武家が大半を占める中島家臣団の中にあっては突出した知行取であったようである。また中島氏家中の格式は、上位より一家、五家、着座、御小姓組、御徒組に区分されるが、大泉家は五家の筆頭に挙げられる家格を有し、禄高、家格共に最上級層の武家であったことに間違いない。主屋は茅葺寄棟造で、妻側に式台玄関を設け、道路側に面して下座敷、上座敷を配する。小禄ながら要害内における最上級職を務める武士としての体面は辛うじて保たれた造作である。



 

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