小野寺家住宅
Onodera



北上市指定文化財 (平成18年10月2日指定)
旧所在地・岩手県八幡平市荒木田
建築年代/明治34年(1901)
用途区分/農家
指定範囲/主屋
県都・盛岡から西の方角を望めば、そこには常に秀麗、且つ雄大な岩手山が鎮座している。その北側一帯は山岳リゾート地として開発され、スキー愛好家を中心に八幡平の名で全国的に知られる土地柄であるが、同じ市内とはいえ、当家が所在する旧西根町域の谷地中集落は、そうした煌びやかな世界とは無縁の、その名が示すとおり丘陵地の間に湿地が拡がる稲作と酪農を主とする純農村地帯である。屋敷は丘陵裾の平坦地に在り、主屋は桁行12間半、梁間4間半の東西に細長い直屋建築となる。この地域は曲屋も混在する地域ではあるが、当住宅の場合は、土間の下手に建築的に独立する馬屋をそっくり取り込むような形を採ったため、一直線上に棟の長い外観となったようである。

当住宅は明治後期の比較的新しい建築ながら上手の座敷回りに不可解な造作が見られ、特に上手表側の下座敷においては顕著である。当住宅の復原修理報告書によれば、下座敷は、その呼称とは異にして、寝間として用いられていたのではないかとの見解が示されている。確かに上座敷と常居との接続部を板戸とする以外の他の壁面は土壁とする、至極閉鎖的な空間となっている。これでは決して接客空間であったとは云い難い。また当住宅の場合は、この下座敷部分にのみ根太天井を張り、中二階を設けている。中二階は農家建築においては女中部屋、下男部屋、子供部屋などの用途で設えられることが多く、通常は土間廻りなど下手側に配置されることが多い。これに対し、雇い人を含めた家人の往来が少ない上手側の位置に中二階が配置される由縁は、外来の者が容易に立ち入ることの出来ぬ空間として金品や大事なモノを仕舞っておくための部屋と位置付けることが妥当だと思われる。そうだとすれば、この中二階にアクセスする部屋が下座敷として用いられることなど到底有り得ない話である。これらの事実から、報告書に記載されるように下座敷は名ばかりで、実際は寝間として用いられたと考える方が正しいように思われる。しかし、不可解な事実は続く。それでは下座敷の奥手に配置される上座敷は、間取りとして妥当な配置なのだろうか、という点である。通常の来客時の導線としては下座敷を介して上座敷へと案内されるのが普通である。下座敷が事実上の寝間であったとすれば、寝間を経由して上座敷に賓客を迎えるという作法が許されるものなのだろうか。普通であれば、有り得ない。江戸時代の封建制度下においては、農家が武家階級を迎える場合、庭から座敷縁に上がらせ、上座敷に通すという作法が最も正式な接客作法であったが、明治期に入り、封建制が崩れた時代に、そうした最上級のもてなしをしなければならない相手を一般農家が想定して家作することなど到底考えられない。 


また、中二階の採光の為に茅屋根の軒を、その部分のみ切り上げる様子も余り普通ではない。これが近世民家には無い「家の個性」という奴なのだろうか。


【参考文献】北上市立博物館調査報告書第7集「旧小野寺家復原修理報告書」

一覧のページに戻る