大名墓


九州地方

福岡藩  黒田家    福岡藩 473100石  (外様)
東長寺(福岡県福岡市博多区御供所町)
崇福寺(福岡県福岡市博多区千代)


 
秋月藩  黒田家    秋月藩(黒田福岡藩支藩) 50000石 (外様)
古心寺(福岡県甘木市秋月)



 
小倉藩  小笠原家    小倉藩 150000石 (譜代)
福聚寺(福岡県北九州市小倉北区寿山町)



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柳川藩  立花家  柳川藩 109600石 (外様)
福厳寺(福岡県柳川市)
霊明寺(福岡県山川町九折)


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久留米藩 有馬家  久留米藩 210000石 (外様)
梅林寺(福岡県久留米市京町)



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三池藩  立花家    三池藩 10000石 (外様)
紹運寺(福岡県大牟田市今山)
法輪寺(福岡県大牟田市今山)





 
佐賀藩  鍋島家    佐賀藩 357036石 (外様)
高伝寺(佐賀県佐賀市)




 
小城藩  鍋島家  小城藩(佐賀藩支藩) 73250石 (外様)
星厳寺(佐賀県小城郡小城町鷺原)
玉毫寺(佐賀県小城郡三日月町)




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蓮池藩  鍋島家  蓮池藩(佐賀藩支藩) 52625石 (外様)
宗眼寺(佐賀県佐賀市蓮池町)



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鹿島藩  鍋島家    鹿島藩 20000石 (外様)
普明寺(佐賀県鹿島市古枝町久保山)




 
唐津藩  寺沢家    唐津藩 123000石 (外様)
鏡神社(佐賀県唐津市鏡)
近松寺(佐賀県唐津市西寺町)




 
唐津藩  土井家   



 
唐津藩  大久保家   


 
平戸藩  松浦家    平戸藩 61700石 (外様)
最教寺(長崎県平戸市岩の上町)・正宗寺(長崎県平戸市鏡川町)
雄香寺(長崎県平戸市大久保町)・普門寺(長崎県平戸市)


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大村藩  大村家  大村藩 27973石 (外様)
本経寺(長崎県大村市古町)





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島原藩  深溝松平家    島原藩 65900石 (親藩)
本光寺(長崎県島原市本光寺町)


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府中藩  宗家    府中藩(対馬藩) 100000石 (外様)
万松院(長崎県厳原町厳原)



 
中津藩  小笠原家    中津藩 80000石 (譜代)
天仲寺(福岡県築上郡吉富町広津)



 
中津藩  奥平家    中津藩 100000石 (譜代)
自性寺(大分県中津市新魚町)



 
杵築藩  能見松平家   杵築藩 32000石 (譜代)
養徳寺(大分県杵築市南杵築)



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日出藩  木下家    日出藩 25000石 (外様)
松屋寺(大分県速見郡日出町)



 
岡藩  中川家  岡藩 70440石 (外様)
碧雲寺(大分県竹田市城北町)
入山廟(大分県直入郡久住町岳麓寺)
小富士山墓所(大分県竹田市)



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臼杵藩  稲葉家    臼杵藩 50065石 (外様)
月桂寺(大分県臼杵市二王坐)



 
佐伯藩  毛利家  佐伯藩
養賢寺(大分県佐伯市)





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森藩  久留島家    森藩 12500石 (外様)
安楽寺(大分県玖珠郡玖珠町)




 
熊本藩  細川家    熊本藩 541169石 (外様)
妙解寺跡(熊本県熊本市横手2丁目)
泰勝寺跡(熊本県熊本市黒髪6丁目)


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宇土藩  細川家    宇土藩 30000石 (外様)
泰雲寺跡(熊本県宇土市轟)



 
八代城代  松井家    八代城番(熊本細川家筆頭家老) 28000石
春光寺(熊本県八代市古麓)



 
人吉藩  相良家    人吉藩 22165石 (外様)
願成寺(熊本県人吉市願成寺町)


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延岡藩  内藤家    延岡藩 70000石 (譜代)
延岡城大手門脇内藤家墓地(宮崎県延岡市)
台雲寺(宮崎県延岡市)


 
佐土原藩  島津家    佐土原藩 30000石 (外様)
高月院(宮崎県宮崎郡佐土原町)


 
高鍋藩  秋月家    高鍋藩 30000石 (譜代)
龍雲寺・大龍寺・安養寺(宮崎県児湯郡高鍋町)


 
飫肥藩  伊東家  飫肥藩 51080石 (外様)
報恩寺(五百禩神社)宮崎県日南市楠原





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薩摩藩  島津家    薩摩藩 728700石 (外様)
福昌寺(鹿児島県鹿児島市池之上町)


 










福岡県

黒田家 福岡藩 473100石  (外様)
東長寺(福岡県福岡市博多区御供所町)
崇福寺(福岡県福岡市博多区千代)
2代・3代・8代藩主は東長寺に、初代・4代・6代・7代・9代藩主は崇福寺にそれぞれ葬られている。
どちらの菩提寺も博多の町中に所在するが、より中心部に近い東長寺は近代的な建築に建て替えられ、厳かな雰囲気とは縁遠い。
しかし境内奥の墓標はさすがに立派なもので威容を止めている。
崇福寺は福岡城から移築された門を山門として転用するなど、黒田家との関わりの深さを感じさせてくれる。こちらの方は往古の風情を止めているが本堂裏手の墓所は塀で囲まれ立ち入り禁止である。
写真解説 ①東長寺六角堂・天保13年(1842)の建築。
       ②東長寺墓所。3代黒田光之公(江竜院殿)墓塔
       ③東長寺墓所。歴代の基本的な墓塔の形は五輪塔である。
       ④崇福寺唐門。黒田家が福岡入部の際、福岡城を築城する前に居城とした名島城の遺構。
       ⑤崇福寺
       ⑥崇福寺墓所。昭和25年に改葬・整理され大幅な縮小を余儀なくされたらしい。しかし墓塔の巨大さは
        数ある大名家の中でもトップクラスの大きさである。 

秋月黒田家
(黒田分家)
秋月藩(黒田福岡藩支藩) 50000石 (外様)
古心寺(福岡県甘木市秋月)
秋月は小藩の城下町としての風情を今に残す街として、近年観光客を集めてはいるが、個人的な感想では興味を湧き立たせてくれる程では無い。
菩提寺は、明治維新後旧藩主の庇護がなくなり、往時の面影は失われたということだ。
主要な建物は別の寺に売り払われ、確かに50000石の藩主の菩提寺とは思えぬほどである。
しかし境内最奥の練塀に囲まれた墓所は、過去の風情をそのまま残し、整然と墓塔が建ち並ぶ。
墓塔も奇をてらったものはなく清楚である。
余談であるが、私のカメラはこの墓所を訪れるたびに調子が悪くなる。ひえー。
写真解説   ①墓所表門。練塀に囲まれた墓所の南面に建つ薬医門形式の小規模なもの。
         ②墓所全景。大きなもので2.5mほどの墓塔が南向きに建つ。
         ③10代黒田長元公夫妻の墓塔。夫婦で一つの墓塔に祀られている。

小笠原家 小倉藩 150000石 (譜代)
福聚寺(福岡県北九州市小倉北区寿山町)
江戸時代初頭に小倉藩30万石の領主として豊前一国および、豊後国の国東郡、速見郡を治めた細川家が肥後熊本藩54万石の大々名として転封となった後に、新たに小倉藩主として入部したのが播磨国明石藩主であった小笠原家である。
そもそも小倉藩領は九州と本州を結ぶ交通の要衝ともいうべき位置にあり、徳川幕府としても外様大藩が数多く存在する九州地方において譜代の家臣を配することによって目付的な役割を期待しての措置であった。
しかし30万石もの譜代大藩を作ることは政治的に無理があった為であろうか、苦肉の策として旧細川藩領を四分割し、小倉藩15万石、中津藩8万石、龍王藩3万7000石、杵築藩4万石の各藩を創設し、それぞれに小笠原一族四家を配するという離れ業をやってのけたのであった。さて豊前国企救郡、田川郡、京都郡、仲津郡、築城郡を支配することとなった(新)小倉藩主・小笠原忠真公は、1665年に黄檗宗の開祖・隠元の高弟である即非を開山とする福聚寺を創建、菩提寺とした。足立山を背後に広大な敷地に、ゆったりとした伽藍配置の境内は黄檗寺院らしからぬ風情であるが、但し寺の中心的な建物である仏殿は1717年の再建ではあるものの黄檗様式による独特な建築である。全体としては落ち着いた風情の大寺で、特に山門から不二門に至る参道の雰囲気などはとても素晴らしいものである。
ところで藩主墓所は寺の境内から南方の少し外れた森の中に所在している。現在は周囲の山林を含めて公園化されており、墓域の真ん中を車道が通るなど往時の風情が多少損なわれてはいるものの、緑あふれる中に墓塔群が点在する様は気品さえ感じられる。
墓所には初代・忠真公と室・永貞院、2代・忠雄公、8代・忠嘉公、9代・忠幹公が祀られており、いずれも笠塔婆様式の墓塔である。特に初代・忠真公の墓塔は墓所最奥の高台にあり、非常にモダンな形の笠を持ち、全面にその治績が刻まれた非常に美しいものである。歴代の墓塔の中で唯一、宝形屋根の覆屋が架けられており藩祖として特別な位置付けであったことが判る。
小倉藩小笠原家は幕末、尊攘を唱える長州藩による侵略を受け、藩庁を田川郡香春、仲津郡豊津への移転を余儀なくされるなど数奇な運命をたどることとなるが、この藩主墓所だけは永遠の時を刻んでいるかのようである。       (07.4.19記)

立花家 柳川藩 109600石 (外様)
福厳寺(福岡県柳川市)
霊明寺(福岡県山川町九折)
立花家の別邸は「御花」の名前で開放されており観光客も沢山訪れる場所ではあるが、東へ少し外れた菩提所は至って静かで良い。
藩主墓所は本堂の裏手に練塀に囲まれて所在するが、他では見られない雰囲気の墓所である。
正面の唐門を潜ると正面と左右に計3棟の建物が凹形に並んでいる。何代かの墓石が一列に並び、それらをまとめて共同の覆屋を架けて一つの廟にして祀られている。
まるで中国の四合院民家のような風情の不思議な墓所である。
また、雪峰山墓地は3代鑑虎・4代鑑任の2人が葬られているが、柳川城下から遠く離れた山川町の寂しい山里に所在する。何故かくも遠く離れた地にわざわざ墓所を設けたのか定かでない。
菩提寺霊明寺はすでに無く、栗林の中に墓地だけがひっそりと残っている。
写真解説  ①本堂正面・この裏手に立花家墓所はある。
        ②墓所内の共同廟。このような例はあまり見かけない。
        ③墓所内。廟より墓所入口に建つ表門を臨む。立派な唐門形式の門である。
        ④雪峰山墓地入口の石段。菩提寺霊明寺は現存していない。
        ⑤雪峰山墓地には3代立花鑑虎公と4代立花鑑任公の墓塔のみが在る。
        ⑥3代・鑑虎公(雪峰院殿)の墓塔

有馬家 久留米藩 210000石 (外様)
梅林寺(福岡県久留米市京町)
福岡市と北九州市の2大都市の陰に隠れて少々地味な存在になりがちではあるが、福岡県南部の中心都市・久留米は、江戸時代においては筑後国の3分の2を領有した大藩、有馬家21万石の城下町であった。
1620年丹波国福知山8万石の領主から大幅な加増によって久留米の地に転封となった有馬家は、そもそもは室町幕府の守護職を務めた赤松氏の庶流で、摂津国有馬郡の地頭に任命された頃から有馬姓を名乗ったようである。関西の奥座敷として有馬温泉で名高い「有馬」である。藩祖・有馬豊氏公は当初は豊臣秀吉に仕えたものの関が原の合戦以後、東軍方として大阪冬・夏の陣の活躍により徳川氏に対する信任を得ることに成功、大幅な加増を勝ち取ったのである。
さて有馬家の菩提寺・梅林寺は居城・篠山城の南西1kmほどのところに所在している。ちょうどJR久留米駅の裏手である。
臨済宗妙心寺派の禅寺で山門を潜ると独特のピンと張り詰めたような雰囲気に満ちている。市の中心部の往来の激しい場所にありながら境内は静寂に包まれ別世界である。梅林寺の名の由来は藩祖・豊氏公の父・則頼公の法号「梅林院」に因んだもので、そもそもは久留米入部に際して故地・福知山の瑞巌寺を移したものだそうである。
山門を潜り右折すると正面に妻壁が美しい庫裏、左手に本堂の大屋根が見える。禅寺特有の清々しい建築群である。また本堂の南正面には扉や柱の細部に至るまで羅漢彫刻で埋め尽くされた平唐門が異彩を放っている。大藩の菩提寺とはいえ、これほど風格のある寺はなかなか目にかかれるものではない。個人的な感想を云わせてもらえば、九州に所在する寺院の中で随一の雰囲気を持つ寺だと思う。
ところで藩主の墓所は本堂の西脇から通じる裏山にある。上下2段に造成された墓所内には霊廟5棟をはじめ藩主、一族の墓塔が林立している。参道正面の下段にある入母屋造の霊廟は家祖・則頼公とその夫人たちを、その東にある宝形造の霊廟は藩祖・豊氏公と2代・忠頼公、5代頼旨公を祀っている。上段には3棟の霊廟があるが、藩祖夫妻と2代・忠頼公の位牌廟で下段の建物と比較して少し簡素なものである。また歴代藩主の墓塔は三層塔形式を基本とし、玉垣でこれを囲む。3代・頼利公、4代・頼元公、6代・則維公、7代・頼憧公、8代・頼貴公、9代・頼徳公、10代・頼永公の7基の墓塔が様々な方角を向いて並んでいる。ただ近頃、上段の藩主墓域に一般墓地が浸蝕しつつあり、この名寺らしからぬ仕業が残念でならない。
藩政時代における有馬氏の治世については、筑紫次郎の異名を持つ大河・筑後川の氾濫により必ずしも穏やかな日々ばかりであったわけではないようである。しかし歴代の藩主たちが眠る裏山から眺める筑後川は今や穏やかな姿に変わり、全てを流し去ってくれるようである。                                                   (07.4.21記)  
写真解説  ①梅林寺本堂と唐門・唐門は扉に精緻な彫刻を施した素晴らしいもの。
        ②墓所内御廟・歴代のうち5棟が残る
        ③有馬家歴代の中でもっとも一般的な形の墓塔。

立花家 三池藩 10000石 (外様)
紹運寺(福岡県大牟田市今山)
法輪寺(福岡県大牟田市今山)
福岡県の南端、熊本県に隣接する大牟田市は石炭の町として有名である。1889年から採掘事業を担った三井三池鉱業が最後の石炭坑道を閉めた1997年までの間、この地域の繁栄は石炭とともにあったといっても過言ではない。しかし旧産炭地と称せられる町のいずれもが閉山後の産業構造の転換に失敗し、今に至るまで過疎化の進展を食い止められずにいるが、大牟田市も例外ではなく、現在においても塗炭の苦しみに喘いでいる状況にある。
さて江戸時代において、この大牟田市を中心とする筑後国三池郡を支配した三池藩はわずか1万石ほどの小藩である。藩主・立花家は隣藩・柳川藩主と同姓で縁戚関係にはあるものの、支藩などではなく、れっきとした独立藩である。
そもそも初代藩主・種次公の父・立花直次公は戦国武将として著名な高橋紹運の実子で柳川藩初代・立花宗茂公の弟にあたる。兄・宗茂公は当時、高橋家の主家であった戸次道雪の養子となり、弟・直次公が高橋家を継ぐこととなったが、その後、幕府の命により両名とも立花姓に改名している。
三池藩の歴史としては、1621年に初代藩主・立花種次公が5000石の旗本より1万石に加増され立藩、しかし1806年には6代藩主・種周公が外様ながら幕府の要職・若年寄にまで昇進したにも関わらず、松平定信との路線対立により失脚、7代・種善公は陸奥国下手渡5000石の旗本に左遷させられ、旧三池領は幕府に収公されるという事態に陥っている。
ところで藩主の菩提寺は紹運寺と法輪寺の2ヶ所に分かれるが、三池陣屋の南東、三池山の麓に道を挟んで所在する。
紹運寺は初代種次公の祖父・高橋紹運の名に由来し、現在においても現役の寺として営まれているが、法輪寺については残念ながら廃寺となっており、竹林に囲まれた墓所のみが残されているに過ぎない。
紹運寺には初代・種次公および6代・種周公の嫡子・種徳公(非藩主)の笠塔婆形式の墓塔が並立している。どちらも相応の大きさではあるが、特に種次公の墓塔は定型化されていない朴訥な雰囲気が漂う。この2基の藩主墓の周囲には一族のものと思しき墓塔も残されているが、若干荒れ気味である。また法輪寺墓所には、2代・種長公、3代・種明公、4代・貫長公、5代・長熈公の墓塔がある。いずれも笠塔婆形式のもので、一列に並んだ各墓前には多くの石燈籠が林立し壮観である。こちらも数基の石燈籠は倒れたままになっており、少々荒れ気味である。小藩の割には規模は大きく、立派なものである。  (07.4.23記)
写真解説  ①紹運寺・2代立花種継公墓塔(右側)。隣の左側の墓塔は8代種徳公のものであるが、
         事情があって正確には藩主ではない。
        ②法輪寺・こちらの墓地には3代・4代・5代・6代藩主の墓塔、4基が一列に並ぶ
        ③法輪寺・木々に囲まれた高台に所在する。立派な燈籠が墓前に並ぶが倒れたものもある。

佐賀県

鍋島家 佐賀藩 357036石 (外様)
高伝寺(佐賀県佐賀市)
佐賀市南郊に広い寺域を現在も保ち、厳かな雰囲気を今に湛えている。
墓所は江戸時代に市内各所に散在していた一族の墓塔を集めてきたということだ。そのため墓域も広く、整然としている。
墓石そのものの規模は大藩の割りに簡素である。歴代藩公のものは五輪塔が主流である。
墓地には鍋島家一族の他、主家筋にあたる龍造寺家の墓塔も集められているが、印象的なのは龍造寺家に対して大変配慮していることだ。
「佐賀の化け猫騒動」として知られる鍋島家による御家乗っ取り劇は脚色化されながら、面白おかしく一般に流布したため、こうした配慮が必要だったのかも知れない。
また御位牌堂の見学も可能なので拝観すると良い。
写真解説  ①高伝寺の本堂。寺の規模はかなり大きい。境内には土蔵造りの位牌堂もある。
        ②墓所入り口。鳥居は神様の印。
        ③墓域は整然としているが、墓石自体は目を引くほどの大きさではない。

小城鍋島家 小城藩(佐賀藩支藩) 73250石 (外様)
星厳寺(佐賀県小城郡小城町鷺原)
玉毫寺(佐賀県小城郡三日月町)
小城藩の菩提寺は上記2箇所に分かれているが、どちらも往時の面影は失われている。
大寺であったらしい境内の広さだけが空虚である。
星厳寺の山門は、龍宮門形式の比較的規模の大きなもので、格式の高い菩提寺にあって珍しい建物ではないかと思う。本堂こそ残ってはいないが、姿の良い御位牌堂が境内地奥にあり、更にその奥に塀に囲まれた藩主墓所が広がっている。
4代元延公の墓塔には真っ赤な覆堂が残っており、異彩を放っている。
写真解説  ①星厳寺の山門。県の指定文化財となっており、本堂等の諸堂が失われた今、際立つ。
        ②星厳寺墓地。左手の赤い廟が4代元延公のもの。
        ③星厳寺墓地。藩主の墓塔は三重塔のような形。

蓮池鍋島家 蓮池藩(佐賀藩支藩) 52625石 (外様)
宗眼寺(佐賀県佐賀市蓮池町)
蓮池藩は佐賀藩の3支藩の1つで、藩政初期の1639年に佐賀藩主初代・勝茂公が鍋島家の権力基盤強化を目的として3男・直澄公を分家独立させたことに歴史は始まる。当時、佐賀藩では諫早家・多久家・武雄家といった旧竜造寺家系の家臣団が藩政の枢要を占めており、鍋島家にとっては竜造寺本家から政権を禅譲された立場にあるとはいえ、これらの存在はあまりに大きく、かつ疎ましいものであった。そこで勝茂公は、これら家臣団に領地を割譲させ、支藩を創設して自らの子息達を独立させることで鍋島家の安泰を図ろうとしたのである。しかし皮肉なことに、時代が推移すると各支藩は独立大名としての待遇を志向するようになり、一方の佐賀本藩側は内分支藩としてあくまでも家臣扱いに終始したため、感情的に捻じれた複雑な関係へと変化していくこととなる。全く愚かな話である。
さて蓮池藩の支配地は家臣団から取り上げた領地をそのまま分け与えられたこともあり、神埼郡、佐賀郡、杵島郡、藤津郡、松浦郡の5郡に分散している。ゆえに藩庁のあった蓮池は城下町として発展することもなく現在に至り、藩政時代の名残といえば、わずか陣屋跡と藩主菩提寺ぐらいのものである。あまりにも寂しい顛末である。
その菩提寺・宗眼寺は蓮池陣屋跡から北西方向に500mほどの田園の真っ只中にある。参道の左脇に古い墓塔群が林立しているが、これは家臣達の墓所で、藩主墓所は本堂の裏手の東北隅にある。9代に亘る歴代藩主のうち、最後の藩主・直紀公のみは東京に葬られているが、その他の方々はこの墓地に眠られている。
歴代の墓塔の形・規模は統一されており、五輪塔を主体とし玉垣で周りを囲っている。正室を迎えられた藩主については夫婦の墓塔が2つ並んで対を成している。
また墓所内に唯一残る木造の霊廟は初代・直澄公のもので、規模こそ大きくはないが唐破風の向拝を備えた優美な姿の建築物である。この霊廟の正面向拝に架かる虹梁の束には河童の彫像が屋根を支えるような姿で坐しており、この部分のみが町の文化財に指定されている。霊廟という厳かな建物に可笑しな彫刻を据えていることもであるが、この部分だけを文化財に指定する町も変わっていると私は思う。ともあれ規模こそ大きくは無いが感じ良い墓所である。           (07.4.17記)
写真解説  ①宗眼寺本堂。本当に田園の真っ只中に在る。
        ②初代鍋島直澄公(正献院殿)の霊廟。他の藩主には墓塔に覆屋は無い。
        ③6代鍋島直寛公夫妻の墓塔。すべて他の藩主もこのスタイル。

鹿島鍋島家 鹿島藩 20000石 (外様)
普明寺(佐賀県鹿島市古枝町久保山)
鹿島藩は佐賀藩の内分支藩として藩政初期の段階で他の支藩(小城藩、蓮池藩)と同様、鍋島家の権力基盤確立を目的として設立された小藩である。
そもそも鹿島領は佐賀本藩の初代藩主・鍋島勝茂の兄であった忠茂公とその嫡子・正茂公が2代に亘り支配した土地であったが、1642年に勝茂公は正茂公から鹿島領を没収すると、自分の9男・直朝公に与えた。ここに鹿島藩は正式に成立することとなったわけであるが、この横暴とも思える措置は、戦国の乱世を生き抜いた勝茂公の身内といえども妥協を許さぬ権力闘争の顕れと解することができる事柄である。
さてこうして成立した鹿島藩は3支藩のうちでは最小石高の2万石と財政基盤は非常に脆弱なものであった。しかし幕府からは独立した小大名並の扱いを受けたため、参勤交代による支出のみならず、江戸時代を通じて江戸城諸門の守衛や勅使饗応役を命じられることが度重なり、早い段階から財政的な援助を本藩に頼る始末であった。幕末に至っては本藩が3支藩の廃止を企てるほどお荷物的な存在に陥っていた。
さて鹿島鍋島家の菩提寺・普明寺は鹿島市南郊の久保山の麓、鬱蒼とした森の中に所在する。境内入口付近は実に簡素な佇まいながら、参道を進むに従って諸堂が端正な伽藍配置の下に建ち並ぶ様は黄檗寺院特有のものである。寺の説明書によれば、黄檗宗の総本山・万福寺に倣い、境内全体を龍に見立てた建物配置としているそうである。
歴代藩主の墓所は境内奥に鎮座する大雄宝殿の背後から山道を登った裏山の中腹にある。鬱蒼とした緑に包まれて歴代の墓塔が一列に並んでいる様は実に壮観である。単層塔形式の墓塔を基本とし、左から4代・直郷公夫妻、12代・直■公夫妻、11代・直彬公夫妻、8代・直永公夫妻、7代・直彜公夫妻、2代・直條公夫妻、9代・直晴公夫妻、6代・直宜公夫妻、10代・直賢公、3代・直堅公の順に祀られている。5代・直熈公については佐賀本藩宗家を継いだため、宗家墓地のある高伝寺に葬られている。また初代・直朝公夫妻については、これら後代の藩主たちの墓所とは離れた参道最奥の一画に墓域を別に設けて祀られている。やはり藩祖として特別な存在であったのであろう。
鹿島藩は江戸時代を通じて財政窮乏に苦しみ続けたとはいえ、藩主の菩提寺については整った堂宇が残り、格式高い墓所の幽玄な風情を今に伝える点で鍋島3支藩のうちで最も素晴らしい内容となっている。                (07.4.22記)
 
写真解説  ①大雄宝殿。楼門を潜ると正面に屹立する。
        ②墓所。左手が墓塔で正面の棹石は2代鍋島直條公の碑文
        ③墓所全景。全ての墓塔が南面して一直線に並ぶ。

寺沢家 唐津藩 123000石 (外様)
鏡神社(佐賀県唐津市鏡)
近松寺(佐賀県唐津市西寺町)
肥前国松浦郡を領土とする唐津藩は歴代藩主の入れ替わりが激しかったところで、外様の寺沢家に始まり、譜代の大久保家、大給松平家、土井家、水野家、小笠原家と続いた。九州地方において大名家がこれほどまでに変わった藩は他にはない。
さて唐津を最初に領した寺沢家は代々織田家に仕えた家柄で、初代藩主・広高公は本能寺の変の後、豊臣秀吉の側近として活躍した人物である。1593年に唐津の旧領主であった波多氏が秀吉により所領を没収された後、豊臣家の蔵入地となったこの地に当初、広高公は代官として赴任、1597年にはそのまま藩主の地位を確保することとなった。
その後関ヶ原合戦で東軍に属した功により肥後国天草を所領に加えた広高公は、唐津城下の建設とともに松浦川の治水や虹の松原に代表される防風植林事業により現在の唐津の基礎を築いたのであった。
しかし世の中、何が起こるか判らないものである。2代・堅高公の治世には、キリシタン一揆として名高い天草・島原の乱が勃発する。天草領主としての責任を問われることとなった堅広公には天草領4万石没収・蟄居を申し渡されることとなったのである。
乱の発端は島原藩主・松倉重次の悪政によるところが大きく、とばっちりもよいところであったが、堅広公は減封の責任から自ら命を絶ち、寺沢家は無嗣断絶となってしまったのである。
ところで寺沢家2代の墓所は虹の松原を見下ろす鏡山の麓に所在する鏡神社の境内、および唐津市内の寺町にある近松寺に分かれている。初代・広高公が鏡山神社、2代・堅広公は近松寺にそれぞれ葬られている。しかし家が断絶したため止むを得ないことかもしれないが、両者が祀られる墓所の様子は、同じ唐津藩主のものとは思えないほどに著しい落差がある。
初代・広高公の墓所は約400坪ほどの敷地を持ち、桜並木の最奥に高さ7.05m、幅1.4mの巨大な墓塔が屹立している。「前志州太守休甫宗可居士」と刻まれた笠塔婆形式で九州の大名の中で最大規模の墓塔である。123000石の大名として寺沢家が一番輝いていた時代を象徴するような墓所である。
一方、2代・堅広公の墓所は近松寺の本堂西脇にひっそりと残されている。高さ2.6mほどの花崗岩の自然石を墓塔としたもので前面に「孤峰院殿白室宗不居士」と刻まれる。法号にまで無念が溢れているようで落涙を禁じ得ない。    (07.4.21記)

土井家 唐津藩 70000石 (譜代)



大久保家 唐津藩 83000石 (譜代)






長崎県

松浦家 平戸藩 61700石 (外様)
最教寺(長崎県平戸市岩の上町)・正宗寺(長崎県平戸市鏡川町)
雄香寺(長崎県平戸市大久保町)・普門寺(長崎県平戸市)
九州の北東隅に所在している平戸の町には独特の雰囲気がある。最初の内こそ、それが何であるのか判らなかったが、対馬や壱岐の諸島部を訪れた際に同じような雰囲気を感じてハタと気が付いた。「平戸は島だったのだ」と。「何を当たり前のことを」と云う方もおられるかも知れないが、橋が架かり陸続きのような感覚で車で簡単に往来ができてしまう現在の平戸島に対して、私のような余所者はどうしても島を訪れたという感覚になれないでいたのである。
さて前置きが長くなったが、肥前国北松浦郡と壱岐国を領有した平戸藩の歴史は、中世より当地方を支配した松浦党の系譜を引く平戸松浦家が豊臣秀吉の九州征伐の後に旧領を安堵され近世大名家としての地位を確立したことに始まる。
平戸藩主としての松浦家は初代・鎮信公に始まり、12代・詮公に至るまでの約280年間一度の国替え等に遭うこともなく、この地に安堵され続け、明治維新を迎えた。しかし藩政初期の段階においては、日本国における海外貿易の中心地として平戸に置かれていたオランダ商館、イギリス商館が廃止され、長崎に移転されたことや、古い歴史を持つ家柄ゆえに抱える中世的な支配機構からの脱却など幾多の困難に直面することも少なくなかったようである。
ところで藩主・松浦家の墓所・菩提寺は領内各所に分散して所在している。どのような理由により異なる寺に葬られることとなったのかは不明であるが、藩政初期の初代・鎮信公、2代・久信公は最教寺、3代・隆信公は正宗寺、中期以降の5代・棟公、6代・篤信公、7代・有信公、8代・誠信公、11代・曜公は雄香寺、10代・熈公は普門寺にそれぞれ祀られている。また、その他の藩主については江戸の菩提寺に葬られているらしい。
最教寺については境内の主要な建造物は建て変えられおり往時の雰囲気を留めていない。しかし山門に至る参道はなかなか良い雰囲気が保たれている。墓所は境内裏手の林の中に点在しているが、適当な空き地に自然石の基壇を築き、その上に墓塔を立てたという感じである。台石の上に鏡のような形状の丸石を置いた余り類を見ない墓塔である。
雄香寺は城下より北方にあり、参道の石段が見事な非常に風情の良い寺である。山門を潜り右へ折れると朱色の艶やかな開山堂が緑の中に在る。寺名にもなっている5代松浦棟(雄香院殿)の廟である。国の重文にも指定されている均整のとれた美しい建物である。この開山堂の裏手に土塀に囲まれた一画がその他の藩主墓所となっている。
最後に普門寺については、ここに葬られている熈公が中世期の当主・義公を偲び造立した寺院で自然石の墓塔が境内最奥に
ひっそりと立っている。手前の景粛堂は恐らく廟所だったのではないかと思われるが非常に美しい建物である。 (07.4.28記)
写真解説  ①雄香寺開山堂。国指定文化財で内部に5代松浦棟の墓塔などが納まっている。
        ②雄香寺墓所
        ③雄香寺墓所
        ④最教寺参道。奥に在る山門までの間が厳かな雰囲気を保っている。
        ⑤最教寺墓所。松浦鎮信公(慈源院殿)墓地。自然石を方形に積み上げたもの。
        ⑥正宗寺墓所
        ⑦普門寺(旧龍瑞寺)景粛堂。簡素なものではあるが非常に優美な建築。地方大名のものとしては白眉である。
        ⑧普門寺(旧龍瑞寺)墓所全景。中央に在るのが第10代松浦熈公(龍瑞院殿)の墓石
        ⑨普門寺(旧龍瑞寺)墓所。第10代松浦熈公(龍瑞院殿)墓石。隣接して夫人の墓塔が建つ。

大村家 大村藩 27973石 (外様)
本経寺(長崎県大村市古町)
九州地方の大名家に限っては決して珍しいことでもないが、藩主・大村家は鎌倉時代の地頭より発展した古い由緒を持つ家柄である。江戸時代においては、わずか東彼杵郡、西彼杵郡を領有しただけの小藩ではあるが、藩政初頭における近世大名としての転換期にあたっては、庶家一門を追放するなど中世領主としての盟主的な立場から絶対権力者としての藩主支配体制を確立する過程で相当な荒業を成し遂げている。
また大村家は日本で最初のキリシタン大名としても有名であるが、その背景には長崎港における外国貿易を独占的に支配する実利的な側面があったことは云うまでもない。しかし幕藩体制に移行する過程で長崎の地は収公され経済的な打撃を被ることとなったばかりでなく、キリシタン禁制令により藩の思想的基盤を自らにより根底から否定せざるを得ないなど、相当の苦難を強いられた歴史を持つ。
さて大村家の菩提寺・本経寺は居城・玖島城の北方2kmの平地に所在している。広大な敷地に白壁の練塀を廻らす堂々たる構えである。当寺はキリスト教を棄て日蓮宗に改宗した初代藩主・喜前公が1608年に建立し菩提寺としたことに始まるが、本堂・玄関・庫裏など主要な建物が現在でも当初のまま残り、歴史を感じる非常に雰囲気のよい寺院である。
また大村家の墓所は境内の約西半分を占める広大な墓地の中央部の一画にあり、凄まじい数の墓碑が所狭しと並んでいる。藩主の墓塔13基を筆頭に正側室16基、一族39基など合計78基という数の多さだけでなく、五輪塔や宝塔、笠塔婆など様々な形の墓塔が無秩序に林立している様は実に壮観である。まさに墓塔の博物館のようである。
さらに7代・純冨公の高さ6.95mの五輪塔や4代・純長公の6.5mの笠塔婆などに代表される巨大な墓塔は、28000石弱の小藩ではありえない規模である。近年、小藩の大名墓地としては他に類を見ない特異なものとして国の史跡に指定されることとなった。もっともなことである。                                                     (07.4.16記)
写真解説  ①本経寺本堂。唐破風の玄関は本堂の正面から少しずれている。
        ②初代藩主喜前公の霊屋。他藩主は石塔のみであるが、初代は霊屋を構える。
        ③7代藩純富公墓塔・五輪塔形式の規模の大きなモノ。
        ④墓所全景。様々な形の墓塔が林立する様は壮観。当家墓所の特徴でもある。
        ⑤墓所全景
        ⑥8代藩純保公墓塔。石造覆屋の中に位牌型の小型の墓碑が収まっている。

深溝松平家 島原藩 65900石 (親藩)
本光寺(長崎県島原市本光寺町)
江戸時代における最大の事件「島原の乱」で名高い島原の地は、当時の藩主・松倉氏が乱の責任を取らされて改易となったのち幕府にとって様々な意味において最重要の地となり、次の藩主として譜代大名の中でもその統治能力において評価の高かった高力忠房公が1638年遠江国浜松より転封された。しかし名君は2代続くことはなく、嫡子・隆長公の代において失政を咎められ再び改易の憂き目に遭うこととなる。
次に島原藩主として高力氏の後釜を担ったのが、丹波国福知山から移封となった深溝松平氏であり、その姓名からも判るとおり徳川家(松平家)の縁戚筋で古くから徳川宗家に臣従した親藩大名である。
深溝松平家は1669年の就封より明治維新までの203年間を13代に亘って当地を治めることとなったが、一時的に5代・忠祗公のとき幼少を理由に下野国宇都宮へ国替させられており、6代・忠恕公が再び当地に戻されるまでの26年間については、宇都宮藩主であった戸田氏が島原の地を支配している。ゆえに深溝松平氏は前期・後期と区分することができる。
ところで近年においても島原の地は雲仙普賢岳の噴火により大きな被害を受けたことは記憶に新しいが、藩政期の1792年にも雲仙眉山が大噴火を起こしており、壊滅的な打撃を受けたと記録されている。俗に言う「島原大変」である。
その時代に生きた人々にとっては難渋な出来事ばかりであったとは思うが、江戸時代を通じて島原藩は最も様々な歴史的大事件に遭遇した藩ではないだろうか。
さて深溝松平家は福知山、宇都宮に封地されていた時代があったとはいえ、長く島原の地と関係を結んでいたにも関わらず、その藩主墓所は三河国深溝(現・愛知県幸田町)の本光寺にあった。歴代藩主の墓塔の殆どがここにあり、参勤交代の折には藩主は必ず立ち寄ることとなっていたらしい。国替の多かった譜代大名は本願の地に菩提寺・墓所をそのまま置いておく例が少なからずあるようだ。ただ島原にも同名の本光寺があり、菩提寺としての機能はこちらに移されており、三河本光寺は島原本光寺の末寺扱いとなっている。
島原本光寺には例外的に2代藩主・忠雄公の墓塔と一族(初代・忠房公の生母など)の墓塔が残されている。笠塔婆を玉垣で囲んだ立派なものである。(ちなみに三河本光寺にも忠雄公の墓塔は残されている。どちらかが僑墓なのであろう。)
島原本光寺の位置については、島原城の東1.5kmほどのところにあり、赤門が目印である。         (07.4.27記)
写真解説   ①本光寺庫裏。島原城より明治維新後、移築されたもの
         ②墓所全景
         ③墓碑の前面には石の扉が付属しており、普段は閉じるものなのだろうか。

宗家 府中藩(対馬藩) 100000石 (外様)
万松院(長崎県厳原町厳原)
対馬は九州と朝鮮半島のちょうど真ん中に位置する大きな島で、江戸時代を通じて対朝鮮外交の最前線として特異な存在の藩であった。
すなわち参勤交代も3年に一度と他藩と比べると緩く、また朝鮮国王からも僅かではあるが扶持を支給されていたこと、などである。
しかし日本よりも朝鮮が近い地理的条件のわりに、建物等に朝鮮の影響は殆ど見られない。
墓所は日本三大墓所として名高いと謳われているが、確かに素晴らしいものである。
規模としては大きくはないが、大きな木々に囲まれた風情が素晴らしい。
一直線に伸びる石段の脇に一族の墓所があり、石段を上り詰めると天を衝くかのような大きな杉の木が2本立つ広場がある。さらにその上段に藩主墓所がある。
墓塔は五輪塔が主体で、玉垣に囲まれた壇上に建つ。
本堂は明治時代の建物であるが、山門は江戸時代初期の建築である。
写真解説  ①万松院山門。左右に仁王像が立つ江戸時代初期の建築である。
        ②本堂。式台玄関を入った正面に藩主歴代の御位牌が並び、右側に徳川将軍家の
          御位牌が並ぶ。これは江戸から距離が遠く、特別に許されたものらしい。
        ③墓所へと続く石段。中程の右脇に一族墓所がある。

大分県

小笠原家 中津藩 80000石 (譜代)
天仲寺(福岡県築上郡吉富町広津)



奥平家 中津藩 100000石 (譜代)
自性寺(大分県中津市新魚町)
中津城下の旧武家屋敷街の一画に所在。寺は池大雅の障壁画を多数所有することで有名。
墓域は本堂の側面部の狭い一角に練塀で囲まれている。
大半が江戸で葬られ、ここには7代潜龍院の墓塔と子女のものだけがある。
写真解説  ①自性寺本堂・市街にあるためか少し手狭な感じ。
        ②墓域全景・最奥が7代藩主・潜龍院の墓塔。両端に子女の墓塔が並ぶ
        ③7代潜龍院墓塔。さすがに規模は大きい。

能見松平家 杵築藩 32000石 (譜代)
養徳寺(大分県杵築市南杵築)
国東半島の南側、大分空港の近くに所在する杵築の町は東西の谷筋に沿って町家が並び、これに対峙する南北の小高い丘陵上に武家屋敷を配するという独特の風情を持つ城下町として著名である。町の一画には家老級の武家屋敷や老舗の味噌屋が残り、今でも藩政時代の名残を留めた良い町である。
杵築藩主・能見松平家は徳川将軍家が松平氏を称していた頃に分家した親類筋の家柄である。松平宗家3代の信光公の8男・光親公が三河国能見城に入ったことから能見松平氏を名乗り、代々宗家に仕えて三河武士団の一角を形成した。
家康公(松平宗家9代目に該当)が幕府を開くに至った頃には当主・重勝公は家康の6男・忠輝公の家老にも抜擢されたが、忠輝公失脚後の能見松平家は、下総国関宿藩、武蔵国横須賀藩、摂津国三田藩、豊後国竜王藩、豊後国高田藩と各地を転々とし、1645年に豊後国杵築藩に封地されてようやく明治維新まで国替えもなく落ち着くこととなった。
ところで能見松平家の菩提寺・養徳寺は、杵築城下の町筋より南側の丘(南台という)の寺町に所在する。広大な境内を有しており大寺の雰囲気を今に伝えてはいるものの、残念ながらかなり荒廃が進んでいる。本堂・庫裏など主要な建造物はかろうじて残ってはいるが位牌堂は半壊状態である。いずれもがセンスの良い素晴らしい建築だけに文化財として後世に残す必要があるのではないかと思う。町中に残る武家屋敷は行政の手により修復・公開されているが、菩提寺は観光化とは無縁を貫き、じっと時の経過とともに朽ち果てるのをただ待っているかのようだ。実にもったいない話である。
ちなみに養徳寺に隣接する長昌寺には藩主の正室方の菩提寺となっている。何故に菩提寺を分けたのかは定かでないが、こちらの寺の方が観光地としての整備は進んでいるようだ。
さて養徳寺の境内には参道を突き当たると正面に妻入りの庫裏が建ち、その南側に藩主専用の唐破風屋根の式台玄関を持つ本堂がある。さらに本堂前の南側の一画に白壁の練塀で囲まれた藩主墓所がひっそりと設けられている。
墓所には歴代藩主のうち6代・親貞公と7代・親賢公の2名のみが祀られており、その他の藩主は江戸や京都に葬られている。
高く積まれた台石の上に笠塔婆が東を向いて2基並んいるが、なかなか規模の大きな立派な墓塔である。個人的には変に観光地化するよりも多少荒廃が進んでいたとしても往時の風情がそのまま残されていた方が好ましく思える。その意味では当寺は私好みといえよう。                                                      (07.4.24記)
写真解説  ①本堂。左手に唐破風の藩主専用の玄関がある。墓域はこの玄関脇にある。
        ②庫裏。非常に姿のよい建築である。すこし傷みが激しくなっている様子。
        ③6代松平親貞公の墓塔。見上げるような高さである。

木下家 日出藩 25000石 (外様)
松屋寺(大分県速見郡日出町)
日本一の湧出量を誇る出湯の街・別府の北、国東半島の喉下に日出の町は所在している。さほど大きな町ではないが、この町を全国的に喧伝しているのが「城下カレイ」の存在だ。旧藩の象徴、日出城址の石垣下から湧出する真水で生育するらしく、グルメの間で殊更、珍重されている。江戸時代には将軍家に献上されたほどである。 (但し、庶民には高嶺の花である。)
ところで豊後国速見郡を領した日出藩主・木下家は豊臣秀吉の正室・高台院の縁戚となる家柄で、初代藩主・延俊公の父・家定公は高台院の兄に当たる。小藩とはいえ豊臣家に所縁のある当家が所領没収などの憂き目に遭うことなく明治維新まで存続した理由は、やはり関ヶ原合戦前後において豊臣恩顧の大名たちが徳川方へ味方することを黙認した高台院の存在によるものであろうか。ちなみに備中国賀陽郡、上房郡25000石を領した足守藩主・木下家は延俊公の兄・利房公を祖とする本家筋に当たり、日出藩とは兄弟藩の関係となるが、江戸時代を通じて両藩の仲はあまり良くなかったようである。何故だろうか?
さて日出藩主・木下家の菩提寺・松屋寺は日出城址から北西方向へ少しばかりの郊外に所在している。山門は小振りで簡素な四脚門ながら一歩足を踏み入れた境内は広大である。唐破風屋根の玄関を持つ本堂の前には日本一の大蘇鉄があることでも知られている。国の天然記念物にも指定されており実に見事な大きさでのものはあるが、その姿は実にグロテスクでじっと眺めていると少し気持ちが悪くなるほどである。
藩主墓所は本堂西脇の山林に差し掛かる辺りを切り開いて設けられている。自然石を敷き詰めた敷地に夥しい数の五輪塔が林立する様は圧巻である。藩主や夫人、子女の墓塔がおおよそ50数基もあるだろうか。過密度は九州大名家の中では一番ではないかと思う。家祖・家定公より15代・俊程公までの歴代の墓塔が揃っているが、藩主の中には江戸の菩提寺・泉岳寺に葬られた方もいたはずなので、後代になって改葬したのか、あるいは遺髪塔なのかもしれない。(少なくとも泉岳寺墓所側は改葬済である。) また歴代藩主の中で15代・俊程公の墓塔のみは箱型形式のもので表に「木下飛騨守豊臣俊程墓」と刻まれている。慶応3年に亡くなられているので幕末とはいえ徳川政権下においてこのような墓碑銘を刻んだとは驚きである。徳川家に対する畏れが失われ、積年の我慢が顕れた証左であろうか。                             (07.4.25記)
写真解説  ①本堂。手前の茂みが日本一の大蘇鉄。大きい。
        ②藩主も奥方もほぼ同規模の五輪塔が建てられ、敷石を引き森に囲まれた中にある。
        ③おおよそ、どの藩主もこのような形の五輪塔。

中川家 岡藩 70440石 (外様)
碧雲寺(大分県竹田市城北町)
入山廟(大分県直入郡久住町岳麓寺)
小富士山墓所(大分県竹田市)
四周を山に囲まれた竹田の町はいつ訪れてもひっそりとしている。地理的条件ゆえに近代化の波に大きく曝されることもなく今日に至り、文化の香り高い雰囲気が漂い、落ち着いた風情を醸す良い町である。しかしながら、「豊後国誌」の編纂で名高い田能村竹田や名曲「荒城の月」の作曲家・滝廉太郎といった文化人の陰に隠れて、その下地を形成した最大の立役者であるはずの藩主・中川家の存在感が今ひとつ薄い。後世における文化人と政治家の評価に何となくアンバランスなものを感じるのは私だけであろうか。
さて中川家は豊臣秀吉の腹臣であった中川清秀を祖とし、戦国時代末に豊後国の覇者・大友氏が除封された後、播州三木から転封された外様大名で、おおよそ豊後国の西半分となる直入郡、大野郡の一部を領有した。
その中川家の菩提寺である碧雲寺は竹田城跡の北側を流れる稲葉川の対岸に所在している。墓所は境内東手の広大な敷地にゆったりと設けられており、現在は「おたまや公園」として行政の手によって整備されている。
当墓所には歴代藩主のうち、初代・2代・4代・5代・6代・9代11代の墓塔があり、敷地北側の崖下に沿って築かれた石垣上に白漆喰の練塀を廻し、玉垣に囲まれた宝塔形式の五輪塔が並んでいる。墓域の手前には池泉(龍吟池)が設けられ、池に架かる石橋を渡って参拝するという洒落た形式をとっている。
そもそも墓石には覆屋があったようであるが現在は全く残されておらず、唯一、碧雲寺の東隣にある高流寺に金神堂として2代・久盛公の覆屋のみが移築・残存している。向唐破風の付いたバランスのよい霊廟建築である。
また歴代藩主のうち、3代・久清公の墓所は城下北方の大船山の中腹にあり、8代・久貞公の墓所は城下東方の小富士山にある。残る7代・10代藩主は江戸で葬られたとのことである。                                (07.4.15記)
写真解説    ①墓域への入口となっている龍吟池に架かる石橋。墓所に相応しい枯淡とした味わいのある橋だ。
          ②9代藩主・久持公の墓塔。白練塀の内に玉垣を巡らせ、宝塔形式の五輪塔が立つ。
          ③隣接する高流寺に移築されている2代藩主・久盛公の覆屋。美しい建物である。

          ④初代藩主秀成公墓塔。宝塔形式の五輪塔。寺名は公の戒名碧雲寺殿円翁宗鑑大居士に由来。
          ⑤2代藩主久盛公墓塔。完全な五輪塔形式。およそ歴代藩主の墓塔形は2通りである。
          ⑥6代藩主久忠公墓塔。正面に戒名が陰刻されており、通玄院殿雲外了山大居士とある。

稲葉家 臼杵藩 50065石 (外様)
月桂寺(大分県臼杵市二王坐)
藩主菩提寺として臼杵城と対峙するかのように小高い丘上に大きな屋根を聳えさせている。
本堂は御成玄関の美しい非常に立派な建築。墓所域にも藩主と夫人方の位牌堂が建っているが、各墓塔は整理されたのか見当たらない。
写真解説  ①本堂。右手が藩主用の御成玄関。手前は本堂に付属する書院。
        ②藩主位牌堂。石段上に建つ唐破風の向拝が付いた白漆喰壁の小堂である。
        ③婦人用の位牌堂。墓所には殆ど藩主の墓塔がない。

久留島家 森藩 12500石 (外様)
安楽寺(大分県玖珠郡玖珠町)
大分県下の玖珠郡、日田郡、速見郡の一部を領有した豊後森藩の城下はひっそりとした山中にある。
小藩であり、かつ廃藩後の城下も大きく発展することがなかったゆえか、現在ではすっかり忘れられたような存在であるが、町の中心部には重厚な町家が数軒残り、かつて陣屋があった場所には当時の茶室の遺構である栖鳳楼や庭園、三嶋神社が往時の風情そのままに残されており、とても素敵な町である。
そもそも藩主・久留島家は伊予国来島の領主であったが、関が原の合戦において西軍に与していたため改易されることとなった。しかし当時の当主・長親公の夫人が広島の大大名・福島政則の養女であった縁から、かろうじて豊後国森の地において立藩を許され、以後幕末まで続くこととなった。
藩主菩提寺である安楽寺は町の中心部にひっそりとある。小藩ゆえに菩提寺といえども決して大寺ではなく、また小さな町ではあるけれどもやはり中心市街地にあるため周囲が宅地として浸蝕され、若干風情には欠けるようだ。
南面する山門を潜ると正面に唐破風屋根の玄関を構えた本堂がある。本堂の西脇から裏手に回ると、玉垣で全体を囲った藩主墓所がある。広さは200坪程度もあろうか、玉垣に沿って歴代藩主の墓塔が四周に立ち並んでいるが、大名の墓所らしからぬ実にささやかなものである。
墓所には12代を数えた藩主のうち第4代・通政公、第12代・通靖公を除く歴代の当主、夫人、子息等の墓塔が祀られている。
墓塔自体も藩主のものと言えども規模は小さく、箱型墓塔が主体の石高に相応しい質素なものである。
実に分相応な墓所ともいえるが大名墓としては少しばかり寂しい気もする。                      (07.4.14記)
写真解説  ①本堂。
        ②墓所入口。
        ③墓所全景。墓所全体を玉垣で囲み、その中に歴代墓が林立する。

        ②墓所北側の一画。
        ②10代藩主通明公墓塔。墓型は柱石型で統一されている。
        ②3代通清公墓塔。規模は決して大きくはない。

熊本県

細川家 熊本藩 541169石 (外様)
妙解寺跡(熊本県熊本市横手2丁目)
泰勝寺跡(熊本県熊本市黒髪6丁目)
肥後の太守・細川家の墓所は市内2箇所に分かれている。熊本城の西方に妙解寺、東方には泰勝寺という菩提寺があった。共に明治初期の神仏分離令により寺は廃止され、その跡は細川家の別邸となっていたが、昭和の中頃に熊本市が譲り受けたり、借り受ける等により、それぞれ北岡自然公園、立田自然公園として整備、開放されている。
妙解寺跡には実質的に肥後の初代藩主となった細川忠利公の廟所をはじめ、2代・光尚公、3代綱利公、4代・宣紀公、5代・宗孝公、6代・重賢公、7代・治年公、10代・斉護公の墓塔がある。
初代・忠利公とその室・千代姫、2代・光尚公の墓塔は覆屋が残されており、江戸時代初期の大名家の霊廟建築として非常に貴重なものとされている。

写真解説   ①妙解寺跡・3代藩主細川忠利公の覆屋。装飾的ではないが、規模はかなり大きい。
         ②妙解寺跡・7代細川宗孝公の墓所。歴代の中では、オーソドックスな墓石である。
         ③妙解寺跡・8代細川重賢公の墓所。かなり酒脱な形で藩公のものとは思えないほど。
         ④妙解寺跡・3代細川忠利公廟所
         ⑤妙解寺跡・3代藩主細川忠利公廟内墓塔
         ⑥妙解寺跡・3代藩主細川忠利公室千代姫廟所
         ⑦妙解寺跡・5代細川綱利公墓塔
         ⑧妙解寺跡・9代細川治年公墓塔
         ⑨妙解寺跡・12代細川斉護公墓塔

    
宇土細川家 宇土藩 30000石 (外様)
泰雲寺跡(熊本県宇土市轟)
肥後熊本・細川家の分家筋に当たる。宇土といえば、むしろ豊臣秀吉の有力武将であった小西行長を思い浮かべる方も多いとは思うが、関が原の合戦以後は肥後熊本藩の領土となり、江戸時代初期に熊本藩主初代忠利公の弟立孝公の遺児により熊本藩の支藩として立藩されて以来、一貫して細川分家が治めた。
宇土は立藩当初、水質不良に悩まされたらしく大変苦労したようであるが、宇土郊外の轟水源池より、水道管を敷設するという大工事を行い、現在に至るまで郷土の誇りとなっている。
この轟水源池の傍らに菩提寺・泰雲寺は広大な伽藍を誇っていたらしいが、現在堂宇は完全に残されていない。旧境内地の際にある小高い山の中に藩主墓所は所在するが、山の緑に浸蝕されつつあるような印象である。
立藩当初の藩祖・立孝公及び初代藩主・行孝公の墓塔は立派な五輪塔で堂々としたものであるが以後の歴代藩主の墓塔はむしろ質素である。確かにどこの藩でも藩祖や初代藩主を崇め奉る風はあるものであるが、当藩はむしろ江戸中期以降の財政窮乏によるところのものではないかと思われる。
写真解説   ①廃寺となった泰雲寺の参道石段。実に立派なものであったことが窺える。
         ②藩祖・細川立孝公墓塔。立孝公は熊本藩初代忠利公の弟で八代を治めた。公の遺子・細川行孝公が
          宇土へ移封となり、初代宇土藩主となる。
         ③左側が初代行孝公の墓塔。墓地内で最大の墓塔である。

松井家 八代城番(熊本細川家筆頭家老) 28000石
春光寺(熊本県八代市古麓)
八代城は、一国一城令の例外として破却を免れた経緯が在る。関が原の戦いで徳川家に対して反抗的な姿勢を見せた島津家の抑えとしての位置づけからと推定されている。なので肥後熊本藩は2つの城を持つ特異な藩であったということである。
この八代には細川家の筆頭家老である松井家が代々城番として居住した。
家老といっても28000石の知行を持つ小大名並みの存在であった。そのため、菩提寺内の墓所は廟形式の実に立派なものである。
はっきり云って、支藩の宇土藩細川家よりも立派である。
写真解説   ①春光寺山門。
         ②春光寺・松井家墓地の最上段にある新廟。古廟も含めて3棟の共同の覆屋がある。
         ③春光寺・新廟内部。城主夫妻の巨大な五輪塔が一列に並ぶ。

相良家 人吉藩 22165石 (外様)
願成寺(熊本県人吉市願成寺町)
人吉は熊本県南部の鹿児島との県境に近い四周を山に囲まれた盆地で球磨川の流域にできた秘境のような土地である。
相良家は鎌倉時代より当地を治めてきた由緒ある家柄で、小藩とはいえ、全国の大名家の中でも古い家柄の名家である。
墓所にも藩政時代以前の古い墓塔が建ち並んでおり、歴史ある家柄を如実に感じさせてくれる。
菩提寺の願成寺は人吉城下の北東の郊外に所在しており境内の建物は古を偲ぶ風情をなくしているが、境内奥の当家の墓所は広大でかつ中世からの墓塔が林立する様は他には見られないものである。
墓所は、中世の墓塔群、藩政時代初期の墓塔群、藩政時代中期以降の墓塔群、藩主夫人の墓塔群、一族の墓塔群と各エリアに分かれており整然としたものである。
当家は古い家柄だけに、一族・家臣の中にも強い勢力を保った連中が居たらしく藩政時代を通じてお家騒動が多かったことは皮肉なことである。
この人吉という土地の持つ雰囲気を含めて中世的なモノを断ち切り得なかった様を現代において歴史のロマンとして感じるには絶好の場所である。
写真解説  ①7代頼峰公墓塔。雨の日の墓所は少し怖い。
        ②14代頼之公墓塔。
        ③10代頼完公墓塔背面。
        ④初代
        ⑤11代福将公墓塔・基本的には歴代の墓塔は五輪塔である。
        ⑥藩政時代初期の五輪塔群。右から3番目は2代頼寛公の墓塔。

宮崎県
内藤家 延岡藩 70000石 (譜代)
延岡城大手門脇内藤家墓地(宮崎県延岡市)
台雲寺(宮崎県延岡市)
石垣の美しい延岡城の北端に大手門が復元されているが、この門脇にブロック塀で囲まれた一画がある。ここが旧藩主・内藤家の墓所で、元来は市内の菩提寺・三福寺の境内にあったものを境内裏手を流れる五ヶ瀬川の堤防改修工事のため移転を余儀なくされたものである。
旧墓所内にあった主要な墓塔以外の一族墓などは、改修された堤防にそのまま埋め立てられたものもあったようである。五ヶ瀬川を挟んだ北側に城影寺という大きな寺があるが、この境内参道に大きな五輪塔が移築されている。風化が進み戒名は読み取れないが、藩主一族の墓塔であったらしい。
大手門脇の墓所は鍵がかかっており、内に立ち入ることはできないが、延岡城の石垣上から中を覗けるので遠目に確認は可能である。墓所内の中心に納骨堂が建てられているが、真っ白なコンクリート製の建物で一際風情を欠いている。
また最後の藩主であった8代内藤政擧公の墓所だけは市内北郊の台雲寺にあり、本堂に至る参道脇にレンガ積みの塀に囲まれて所在する。こちらの方は、あまり面白みのない角石柱の墓塔である。
写真解説  ①大手門脇の墓地全景。白い納骨堂が風情を欠く。
        ②大手門脇墓所・歴代藩主の墓塔群。かなり立派な宝筐印塔である。
        ③台雲寺墓所・8代藩主の墓塔。現代墓とあまり変わらない。

島津家 佐土原藩 30000石 (外様)
高月院(宮崎県宮崎郡佐土原町)
佐土原の島津家は薩摩島津家の分家ではあるが、幕藩体制初期からの藩であり、支藩ではなく、れっきとした独立藩である。
陣屋があった場所には、最近になって御殿風の歴史民俗資料館が建っているが、ここから北に少しいったところに高月院は所在する。
鹿児島の島津家一門の菩提寺の大半は、明治の廃仏毀釈によって墓所だけが残り、建物等は完全に破却され消失しているが、この寺は災難から免れて残された稀有な例である。
本堂の裏手の高台に墓所は所在し、おおよそ3つのエリアに区切られている。
初代以久公・2代忠興公・3代久雄公・4代忠高公・8代忠持公などの墓塔が並ぶ真ん中の墓域と7代久柄公夫妻の墓塔が所在する北側の墓域及び9代忠徹公、10代忠寛公・11代忠亮公などの幕末に近い藩主たちの南側の墓域である。
歴代藩主の墓塔は、方形に土盛りした上に五輪塔を戴く形態を基本としている。
木立に囲まれ、苔むした方墳に立つ五輪塔の幽遠な雰囲気が素晴らしい。
写真解説  ①高月院本堂・宮崎県下においては廃仏毀釈を逃れた稀有な建物。
        ②墓所全景・苔むした方墳上に五輪塔が建つ。
        ③10代忠寛公墓塔。五輪塔でもすらりと背が高い様子は幕末らしい姿。

秋月家 高鍋藩 30000石 (譜代)
龍雲寺・大龍寺・安養寺(宮崎県児湯郡高鍋町)
秋月家の菩提寺は小藩ながら三箇所に分かれている。とはいえ全ての菩提寺が、明治期の廃仏毀釈により廃寺となっているため、建物は一切残っておらず、境内地の裏手の山際にあったと思われる墓地だけが残されている。
また三ヶ寺とも恐らく隣接していたのであろう、墓地も秋月山を取り囲むように近接して所在している。
最も北側に所在する龍雲寺跡墓地には、初代種長公・3代種信公・6代種美公、7代種茂公などの墓塔が一直線上に並ぶ。
真ん中に所在する安養寺跡には、藩主の墓塔は無いが2代種春公の父母の墓塔などがある。
ここの墓所は災害により倒壊したものが、近年復旧された様子である。
最南の大龍寺跡墓地には、2代種春公・4代種政公・5代種弘公・8代種徳公、9代種任公・10代種毀公・11代種樹公・12代種繁公などの歴代の様々な形の墓塔が、やはり一列に並ぶ。
墓塔の並び方から、当初の形態通りではなく整理された様子が窺えるが、寺のなくなった今日でも、きちんと管理された様子が、藩公の威徳を偲ばせてくれる。
写真解説  ①龍雲寺跡墓地・墓所に至る参道石段
        ②龍雲寺跡墓地・4人の藩主の墓塔が一列に並ぶ
        ③龍雲寺跡墓地・7代秋月種茂公の墓塔
        ④大龍寺跡墓地・山を背に一列に藩公の墓塔が並ぶ
        ⑤大龍寺跡墓地・笠塔婆・角石・五輪塔など様々な形をしている様子がわかる
        ⑥安養寺跡墓地・2代種春公の父・種貞公の墓塔

伊東家 飫肥藩 51080石 (外様)
報恩寺(五百禩神社)宮崎県日南市楠原
江戸時代において宮崎県日南地方を領有した飫肥藩伊東家の城下町・飫肥は小規模ながら格調高い美しい町である。
旧飫肥城の大手門前に広がる武家屋敷町には藩校・振徳堂や藩主一族の邸宅・豫章館に代表される上級家臣の屋敷等が往時のまま残り、その風情は九州で最初に国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されるなど折り紙付きである。
さて鎌倉幕府の御家人・工藤祐経を祖とする藩主・伊東家は鎌倉時代に地頭として当地に赴任・土着したものの、戦国時代には薩摩の守護大名・島津氏との間で当地方の領有に関して激しい戦いを繰り広げ、終には故国を棄てざるを得ない状況にまで陥ったこともあった。その後、のちに藩祖となる伊東祐兵は豊臣秀吉に仕え、山崎合戦により河内国丹南郡で500石ほどの封地を与えられるなど武勲を重ね、最終的には秀吉の島津征伐の案内役を勤めた功により飫肥、曽井、清武の旧領を再び取り戻すという変遷を重ねたのであった。この祐兵公の不屈の精神力は敬服に値するものである。
ところで伊東家の菩提寺である報恩寺は1867年から始まった廃仏棄釈により廃寺となっており(報恩寺の廃寺は1872年)、現在は伊東家の霊を祀る五百禩神社(イオシと読む)となっている。旧飫肥城より西南方角の郊外、酒谷川を渡る本町橋の袂に所在しており、恬淡とした雰囲気のよい神社である。そもそもは寺院だったゆえに、神社であるにも関わらず境内南方の崖下には庭園が築造されていたり、墓地入口には石造の仁王像が立っているなど、廃仏の経緯を知らないと少々違和感を覚えるに違いない。
伊東家の墓所は神社本殿裏手の盛土して石垣を廻らせた高台に設けられており、多宝塔形式の墓塔群が林立している。
当墓所を入ると右手にには5代祐実公、7代・祐之公、12代・祐丕公の3基の本墓があり、いずれも暗灰色の重厚な造りである。また江戸の東禅寺に葬られたその他の歴代藩主たちについても僑墓が建てられている。ちなみに僑墓というのは本墓が遠隔地にあって参拝が難しい場合に設けられる拝み墓の一種のことである。他の地域では余り見かけることもないが、伊東家の場合は清武町にも藩主の僑墓が残されており、領民の藩主に対する尊崇の念がよほど強かったのではないかと想像される。
実際、歴代藩主は民衆に対して温情的な政策をとったらしく、飫肥杉に代表される殖産政策や飢饉に際しての救済策、学問所の創設など先駆的な事業と相まって、その善政は高く評価されているようだ。                  (07.4.18記)


鹿児島県

島津家 薩摩藩 728700石 (外様)
福昌寺(鹿児島県鹿児島市池之上町)
゛薩摩という国は恐ろしい」とそう感じたのには理由がある。明治初期に全国的に流行り病の如く湧き起こった廃仏毀釈の嵐の中で、領内の殆どの寺が跡形も無く姿を消していることだ。
島津本家の菩提寺である当寺は、相当の伽藍規模を誇ったらしいのであるが、今に残るのは、この島津家の墓所だけである。領内の他の私領主たちの菩提寺についても同様である。
南国の特有の性格のなせる業なのか、モノに執着する気風がないように感じられる。
ところで関が原の合戦で西軍に味方しながらも旧領を安堵され、江戸時代を通じて大藩として遇された特殊な存在は、墓所の雰囲気にも現れている。
地形の起伏を石垣で固め大規模で荘厳な墓域にありながら、墓塔は小さい。
基本的に石垣等は黒褐色の溶岩性の石を使用しているが、墓塔だけは質の異なる淡い赤褐色の粘土質の石からできている。

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