大名墓

飫肥藩伊東家

 


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飫肥藩 51080石 (外様)
報恩寺(五百禩神社)宮崎県日南市楠原

江戸時代において宮崎県日南地方を領有した飫肥藩伊東家の城下町・飫肥は小規模ながら格調高い美しい町である。
旧飫肥城の大手門前に広がる武家屋敷町には藩校・振徳堂や藩主一族の邸宅・豫章館に代表される上級家臣の屋敷等が往時のまま残り、その風情は九州で最初に国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されるなど折り紙付きである。
さて鎌倉幕府の御家人・工藤祐経を祖とする藩主・伊東家は鎌倉時代に地頭として当地に赴任・土着したものの、戦国時代には薩摩の守護大名・島津氏との間で当地方の領有に関して激しい戦いを繰り広げ、終には故国を棄てざるを得ない状況にまで陥ったこともあった。その後、のちに藩祖となる伊東祐兵は豊臣秀吉に仕え、山崎合戦により河内国丹南郡で500石ほどの封地を与えられるなど武勲を重ね、最終的には秀吉の島津征伐の案内役を勤めた功により飫肥、曽井、清武の旧領を再び取り戻すという変遷を重ねたのであった。この祐兵公の不屈の精神力は敬服に値するものである。
ところで伊東家の菩提寺である報恩寺は1867年から始まった廃仏棄釈により廃寺となっており(報恩寺の廃寺は1872年)、現在は伊東家の霊を祀る五百禩神社(イオシと読む)となっている。旧飫肥城より西南方角の郊外、酒谷川を渡る本町橋の袂に所在しており、恬淡とした雰囲気のよい神社である。そもそもは寺院だったゆえに、神社であるにも関わらず境内南方の崖下には庭園が築造されていたり、墓地入口には石造の仁王像が立っているなど、廃仏の経緯を知らないと少々違和感を覚えるに違いない。伊東家の墓所は神社本殿裏手の盛土して石垣を廻らせた高台に設けられており、多宝塔形式の墓塔群が林立している。
当墓所を入ると右手にには5代祐実公、7代・祐之公、12代・祐丕公の3基の本墓があり、いずれも暗灰色の重厚な造りである。また江戸の東禅寺に葬られたその他の歴代藩主たちについても僑墓が建てられている。ちなみに僑墓というのは本墓が遠隔地にあって参拝が難しい場合に設けられる拝み墓の一種のことである。他の地域では余り見かけることもないが、伊東家の場合は清武町にも藩主の僑墓が残されており、領民の藩主に対する尊崇の念がよほど強かったのではないかと想像される。実際、歴代藩主は民衆に対して温情的な政策をとったらしく、飫肥杉に代表される殖産政策や飢饉に際しての救済策、学問所の創設など先駆的な事業と相まって、その善政は高く評価されているようだ。  (07.4.18記)

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