大名墓

大村藩大村家




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大村藩 27973石 (外様)
本経寺(長崎県大村市古町)

九州地方の大名家に限っては決して珍しいことでもないが、藩主・大村家は鎌倉時代の地頭より発展した古い由緒を持つ家柄である。江戸時代においては、わずか東彼杵郡、西彼杵郡を領有しただけの小藩ではあるが、藩政初頭における近世大名としての転換期にあたっては、庶家一門を追放するなど中世領主としての盟主的な立場から絶対権力者としての藩主支配体制を確立する過程で相当な荒業を成し遂げている。
また大村家は日本で最初のキリシタン大名としても有名であるが、その背景には長崎港における外国貿易を独占的に支配する実利的な側面があったことは云うまでもない。しかし幕藩体制に移行する過程で長崎の地は収公され経済的な打撃を被ることとなったばかりでなく、キリシタン禁制令により藩の思想的基盤を自らにより根底から否定せざるを得ないなど、相当の苦難を強いられた歴史を持つ。
さて大村家の菩提寺・本経寺は居城・玖島城の北方2kmの平地に所在している。広大な敷地に白壁の練塀を廻らす堂々たる構えである。当寺はキリスト教を棄て日蓮宗に改宗した初代藩主・喜前公が1608年に建立し菩提寺としたことに始まるが、本堂・玄関・庫裏など主要な建物が現在でも当初のまま残り、歴史を感じる非常に雰囲気のよい寺院である。
また大村家の墓所は境内の約西半分を占める広大な墓地の中央部の一画にあり、凄まじい数の墓碑が所狭しと並んでいる。藩主の墓塔13基を筆頭に正側室16基、一族39基など合計78基という数の多さだけでなく、五輪塔や宝塔、笠塔婆など様々な形の墓塔が無秩序に林立している様は実に壮観である。まさに墓塔の博物館のようである。
さらに7代・純冨公の高さ6.95mの五輪塔や4代・純長公の6.5mの笠塔婆などに代表される巨大な墓塔は、28000石弱の小藩ではありえない規模である。近年、小藩の大名墓地としては他に類を見ない特異なものとして国の史跡に指定されることとなった。もっともなことである。(07.4.16記)


 

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