大名墓

佐伯藩毛利家




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佐伯藩 20000石 (外様)
養賢寺(大分県佐伯市城下東町)

海部郡の南半分を領有した佐伯藩の成立は、1601年に同じ豊後国の日田郡隈より初代・高政公が移封されたことに始まる。
藩主・毛利家は中国地方の覇者・毛利家と同姓ではあるが全く縁戚関係はなく、そもそも豊臣秀吉の家臣として1593年に日田郡一帯の太閤蔵入地の管理を任され、播磨国松郷より20000石の領主として赴任したことが近世大名としての出発点である。
日田から佐伯への転封は、同じ石高を維持しながらも平地が少なく、より立地条件の劣る土地への所領替えであり、実質的には豊臣恩顧の大名ゆえに不遇を強いられた結果となっている。
近年、佐伯では豊富な海産資源を活かし、「南の小樽」などと称して旨い鮨が食べられる町として観光客の誘致が図られているが、江戸時代においても藩を挙げて干鰯などの特産品を奨励し、不十分な米作を補う努力をせざるを得なかったようである。
さて藩主・毛利家の菩提寺・養賢寺は、佐伯城の東方500mほどに所在している。佐伯城の三の丸櫓門から養賢寺までの通りは、今でも白壁の武家屋敷が並んでおり、日本の道100選にも選ばれた美しい一画である。寺の境内には壮大な堂舎群が城山を背にして配されており、その規模は20000石の小藩のものとは到底思えるようなものではなく、特に本堂の緑青を噴いた銅の大屋根は見るものを圧倒する程である。(但し本堂は昭和4年の建築である) また当寺は現役の禅寺として修行の場でもあるためか、境内は掃き清められ清々しい雰囲気が常に漂っている。実に良い寺である。
藩主墓所は本堂裏手の城山の中腹を削平して設けられており、長く緩やかな石段を登り切ると墓所の正面に設けられた薬医門に到達する。墓所は300坪ほどの長方形の敷地に石畳が敷き詰められ、五輪塔を主体とした墓塔群が建ち並んでいる。
墓地の中央部に高さ3mほどの藩主の墓塔が二列に配され、それを取り囲むように少し規模の小さな一族の墓塔が林立している。墓地の北東隅には一棟のみ木造の簡素な霊廟建築が残されているが、これは初代藩主・高政公を祀るものである。
その他の歴代の墓塔には覆屋はなく、墓石は全て露出しているが、小藩にしては十分な大きさの五輪塔が、整然と並ぶ様は実に壮観である。 (07.4.15記)

 

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