大名墓

島原藩深溝松平家




 
島原藩 65900石 (親藩)
本光寺(長崎県島原市本光寺町)

江戸時代における最大の事件「島原の乱」で名高い島原の地は、当時の藩主・松倉氏が乱の責任を取らされて改易となったのち幕府にとって様々な意味において最重要の地となり、次の藩主として譜代大名の中でもその統治能力において評価の高かった高力忠房公が1638年遠江国浜松より転封された。しかし名君は2代続くことはなく、嫡子・隆長公の代において失政を咎められ再び改易の憂き目に遭うこととなる。
次に島原藩主として高力氏の後釜を担ったのが、丹波国福知山から移封となった深溝松平氏であり、その姓名からも判るとおり徳川家(松平家)の縁戚筋で古くから徳川宗家に臣従した親藩大名である。
深溝松平家は1669年の就封より明治維新までの203年間を13代に亘って当地を治めることとなったが、一時的に5代・忠祗公のとき幼少を理由に下野国宇都宮へ国替させられており、6代・忠恕公が再び当地に戻されるまでの26年間については、宇都宮藩主であった戸田氏が島原の地を支配している。ゆえに深溝松平氏は前期・後期と区分することができる。
ところで近年においても島原の地は雲仙普賢岳の噴火により大きな被害を受けたことは記憶に新しいが、藩政期の1792年にも雲仙眉山が大噴火を起こしており、壊滅的な打撃を受けたと記録されている。俗に言う「島原大変」である。その時代に生きた人々にとっては難渋な出来事ばかりであったとは思うが、江戸時代を通じて島原藩は最も様々な歴史的大事件に遭遇した藩ではないだろうか。
さて深溝松平家は福知山、宇都宮に封地されていた時代があったとはいえ、長く島原の地と関係を結んでいたにも関わらず、その藩主墓所は三河国深溝(現・愛知県幸田町)の本光寺にあった。歴代藩主の墓塔の殆どがここにあり、参勤交代の折には藩主は必ず立ち寄ることとなっていたらしい。国替の多かった譜代大名は本願の地に菩提寺・墓所をそのまま置いておく例が少なからずあるようだ。ただ島原にも同名の本光寺があり、菩提寺としての機能はこちらに移されており、三河本光寺は島原本光寺の末寺扱いとなっている。
島原本光寺には例外的に2代藩主・忠雄公の墓塔と一族(初代・忠房公の生母など)の墓塔が残されている。笠塔婆を玉垣で囲んだ立派なものである。(ちなみに三河本光寺にも忠雄公の墓塔は残されている。どちらかが僑墓なのであろう。)
島原本光寺の位置については、島原城の東1.5kmほどのところにあり、赤門が目印である。(07.4.27記)


 

一覧のページに戻る