園長 秋 山 徹
「試し行動」
秋 山 徹
一年で最も寒い季節、暖冬が続くと安心していたところに突然の大雪、お天気に翻弄される日々ですが、子どもたちにとっては雪が積もることは神様からの特別なプレゼント。まるで、わたしたちのために用意してくださった遊びの世界とばかりに、雪だるまをつくったり、雪の山を作ってすべり台にしたり、かまくらをつくったり、凍えて縮じこんではいません。いたるところで工作活動が始まります。部屋の中では、沢山の段ボールや箱を持ち込んでさまざまな乗り物づくり、今年の制作展のテーマは乗り物ということで、長く箱を連結させて作った列車やミニカー、バス停もあります。思い思いに自分の好きな乗り物を観察して、工夫して作っていることがよくわかります。ぜひ見に来てください。
最近の新聞から興味深い記事を目にしました。家庭養護促進協会の大阪事務理事岩崎美枝子さんという方のインタビュー記事ですが、実の親が育てられない子供のために育て親を探し縁組する「愛の手運動」を50年近くのしてこられた方の観察に深く教えられるところがありました。岩崎さんは、「血縁のない人同士が親子になる」という特別な関係を観察して、「意識的に親子になろうとする分、逆に親子関係の本質が見えてくる面がある」として、次のような現象が起こるというのです。
「だいたい1歳半以降の子どもたちが施設から育て親の家庭に移った際に共通してみられる行動パターンがあります。引き取って1週間ぐらいはみな聞き分けの良いお利口さんで、わたしたちは『見せかけの時期』と呼んでいます。だけど、その後は豹変する。赤ちゃん返りをしたり何かを激しく求めたり、様々な形がありますが、親が嫌がったり困ったりすることを執拗に繰り返すのが特徴です。たとえば、お母さんが女の子を引き取るのでじゅうたんを新調したのに、子どもがその上でお漏らしをしてしまった。その時に『せっかく買ったのに』と顔をしかめたら、それを見て、おしっこをするときに必ず同じじゅうたんの上に行って『おしっこ出る出る、出たぁ』とやるんです。・・・・私たちはそれらを『試し行動』と呼んでいます。個人差はありますが、平均すると半年ぐらいはそれが続きます。」と。このような現象があることに驚かされますが、岩崎さんは、その言葉も十分にしゃべれない幼児がする『試し行動』が起こる理由を、次のように観察しています。「どこまで意識してやっているかは分かりませんが、弱点を見抜き、そこを的確に攻め込んでくる。親の嫌がる雰囲気は子どもに確実に伝わっていると思います。その上で『嫌がることを繰り返す私を、あなたはどれだけちゃんと受け止めてくれるのか」を確かめようとしている。子どもたちの中には、『そこまでやらないと大人は信じられない』という何かがあるのではないか。…乳児院で育てられても、何人もの保育士が赤ちゃんをケアするから、特定の大人と信頼関係を取り結ぶことはなかなか難しい。そんな中で、子どもたちは『誰かに心の底から受け入れられたい』という欲求をあきらめてしまう。育て親が『この人なら受け入れてもらえるかも』という思いが芽生えたとき、受け入れへの欲求が再び目覚め、試し行動が始まるのでしょう』
岩崎さんの育て親と子どもの関係についての観察から、実の親子の関係でも気づかされることがありませんか。どうして子どもがわざわざ自分をいらだたせる行動をするのかと悩んでいることをよく聞きます。その理由は、条件付きではなく「心の底からわたしを受け入れて」という叫びなのですね。
上尾富士見幼稚園 えんだより 2016年2月号
「笑顔を離さない人として」
秋 山 徹
明けましておめでとうございます。冬休みの中で、新しい年をそれぞれのお家で過ごした子どもたちが元気に戻ってきて、3学期の幼稚園の歩みが再開されました。卒園・進級までの一年の総仕上げの時、この幼稚園で経験したすべてのことが、一人一人の子どもたちの中で、また保護者の方々すべての中で、共に働きあって益に変えられてゆくように祈りながら、さあ、出発。
子どもの話とは違って、先年11月に80歳で天に召された柳谷 明という名の牧師について語られた「新生釜石教会だより」に載っていた文章に、強く惹きつけられました。103歳を迎える鈴木きよさんという方が柳谷先生についてインタビューで語ったことばです。以下に紹介します。
「この度は…何とも言えない、おしい事です・・・・。なんたってほんとに…あの笑顔。今こうやって亡くなったと聞こうとは思わないからね。ああ、あの笑顔、いつでもあの笑顔。鈴子教会に来てくださったときの顔がね、目に映る。いつも笑顔を離さない父ちゃんだった。岩淵稔さんと『あの先生いつも笑顔を離さないね〜』『んだ、んだ』とよく話した。日曜ごとに午後来てくれるでしょ。ちゃんと時間に来てくれる。それが思い浮かぶ。明先生にお茶を差し上げるのがわたしの仕事だった。いや〜ほんとに笑顔離さないお父さんだった。
震災前、大船渡でお会いしたとき、丁寧に手を握ってくれるの。皆に握手してくれて。あの笑顔。明先生はその時『わたしは三男と一緒に住みます』と言ってた。鈴子教会で、野球の話してくれた、その人が三男なんだね。タイに行った人。そういうことを聞かせられていた。
わたしの死んだ息子は昭和10年11月生まれ。明先生は10月生まれ。わたしは昭和10年の1月に釜石に来て、11月に赤ん坊が生まれたの。人それぞれに運命があるんだから、仕方ないんだなあ、本当に。
今度はわたしですね。頼みますよ。順番は神様が決めることですけどね。その時はお願いします。」
なんとも風雅な、亡くなった牧師をしのぶ言葉かと、この鈴木きよさんというおばあさんと柳谷明牧師とお二人のお人柄が身近に感じられます。「なんたってほんとに…あの笑顔…いつも笑顔を離さない父ちゃんだった」「んだ、んだ」。
実は、わたしも柳谷明先生にお会いしたことがあります。東日本大震災の後、5月にまだ街中にがれきが散乱し、教会は二階部分まで浸水して泥まみれになった時期、この教会を拠点にして全国から集まったボランティアのためのセンターとして機能していた時代に、新生釜石教会をお訪ねしたとき迎えてくださったのが明先生で、鈴木さんが言われる通り、始終「笑顔を離さない」優しいふるまいで、津波の恐怖を身をもって体験した教会員やボランティアの人々と接していた姿を目に浮かべることができます。
聖書には、「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主に倣う新しい人を身に着けなさい」と教えられています。「笑顔を離さない」のは、まさに、新しい人を身に着けた生き方ですね。さて、新しい年 私は?
上尾富士見幼稚園 えんだより 2016年1月号
クリスマスの心で平和を
秋 山 徹
2015年目のクリスマス。世界の年月は、主イエス・キリストが生まれた年からADはアンノ・ドミノ(「主の年」という意味のラテン語)何年、キリストが生まれるまで何年(BC “Before Christ”)という数え方をします。富士見幼稚園の子どもたちにとって、また、保護者の方々にとっても、教会付属の幼稚園でクリスマスを経験することはまねごとのクリスマスではない本当のクリスマスを経験する特別な時です。「クリスマス」とは、「キリストのミサ」の意味で、主イエス・キリストがこの世に来られたことを感謝して祝う「礼拝」だからです。この礼拝で、幼稚園の子どもたちは長い教会の歴史にならって、聖書に書かれている主イエス・降誕の情景を再現するページェントによって思い起こします。今年も、もうページェントの練習が始まっていて、子どもたちの心を2015年前の天からの不思議な出来事に合わせ、あの飼い葉おけに眠る幼子のイエス様によって、神さまのわたしたち一人ひとり向けられている深いみ思いを心に刻みます。
毎年繰り返されるクリスマスの行事ですが、その年ごとに、この世界に真のクリスマスが来ますようにとの祈りとともに、それとはほど遠い現実に直面させられます。今年も、イスラム国(IS)の支配するシリアから逃れて危険な海を渡り、あるいは何千キロもの陸路を歩いて、ヨーロッパの国々に殺到する何百万人もの難民の姿や、シナイ半島のイスラム国のミサイルによって撃ち落とされたロシアの旅客機のこと、パリで劇場やサッカースタジアムを襲った同時多発テロによって130人もの人々が殺され、さらに多くの人が負傷しているニュース、それに続く報復の爆撃のニュースと、立て続けに怒りと憎しみが世界にエスカレートしてゆく状況の中でクリスマスを迎えます。まるで悪魔に操られているかのように、国と社会が理性を失い人間であることをやめて狂気の支配に身を任せたような混沌に陥っている有様です。
この混沌と闇が支配するような世界に一片の光を投じるニュースを見ました。「テロリストへ、憎しみという贈り物はあげない」と、パリ同時多発テロで妻を亡くしたフランスのジャーナリストアントワーヌ・レリスという人がフェイスブックに流した文章が世界の多くの人々の感動を呼び覚ましているというニュースです。
「君たちに私の憎しみはあげない。金曜日の夜、君たちは素晴らしい人の命を奪った。わたしの最愛の人であり、息子の母親だった。でも君たちを憎むつもりはない。君たちが誰かかも知らないし、知りたくもない。君たちは死んだ魂だ。君たちは、神の名において無差別な殺戮をした。もし神が自らの姿に似せて我々人間をつくったのだとしたら、妻の体に撃ち込まれた銃弾の一つ一つは神の心の傷となっているだろう。だから、決して君たちに憎しみという贈り物をあげない。君たちの望み通りに怒りで応じることは、君たちと同じ無知に屈することになる…。』生後17か月の男の子を残して無残にもテロリストの銃弾によって絶たれてしまった妻の死から、このようなメッセージを発信しているのです。狂気ではなく人間の精神が生きているその心に触れる思いがします。悲しみと怒りを愛に変える力、向けられた憎しみと暴力を和解と平和に変える力が生きているのを感じます。クリスマスの出来事に真に心を合わせるのはこのような深みからでしょう。
上尾富士見幼稚園 えんだより 2015年12月号
「フジミ幼稚園の運動会、なんかバラバラ」
園長 秋 山 徹
11月にはいります。秋たけなわ。園庭のざくろの木にはいっぱいに実をつけて、甘いルビーのような種が中からあふれ出ています。柿も、くるみも、ぎんなんも、今年は豊作で、それぞれの独特の味わいを子どもたちの口に運んで味わわせてくれています。おいもほりや榎本牧場にも出かけて、外の自然もあじわいましたね。幼稚園で経験する本物の自然の味やかおりは、今ではほかで経験することは少なくなっていることでしょう。果物を実らせる木々は、実りの秋の呼びかけに忠実にこたえて、それぞれに与えられた一年の働きの決算を、無償で、ふんだんに、わたしたちに与えてくれています。神様の造られた自然の奥深さ、豊かさを感じさせられるこのごろです。
先日は、幼稚園の運動会でたくさんの方々がきてくださって、かけっこや、リズム遊び、バルーンや、玉いれなど、保護者の方々も一緒に楽しいときをすごしました。最後の年長組のリレーでは、走る本人たちも、見ているみんなも熱中しますので、いつもは一回だけでは終わらなくて、「もう一回!、もう一回!」と子どもたちから声が上がるのですが、今年は、「どう、もう一回やる?」と先生が聞いても、「やらない!」という声が圧倒的。それで一回だけで終わりました。
「おはなしノート」にはたくさんの保護者の方々から運動会の感想が寄せられていましたが、その一つ一つに、みんな、子どもたちの動きから大きな感動を受けて、家族ともどもよいときを過ごされたことを書いてくださって、その言葉に励まされました。そのなかで、こんな感想を寄せてくださった人がいました。運動会の日の夕食時に、かつて富士見幼稚園児で、いまは小学校に通う娘さんが、「なんかバラバラだった」と、幼稚園の運動会の感想を口にしたというのです。最近まで、そのお姉ちゃんもバラバラの中で自然に過ごしていましたが、小学校に入って、小学校の運動会では、「いつも先生が怒っている」と言いながら、まじめに練習に取り組んでいました。その成果は、多人数の子どもたちが整然と一糸乱れず踊る姿や規律を守って並ぶ姿は、それは素敵で、見ごたえがあったそうです。でも、お母さんは感じました。「いまの日本の教育の現場って、こうなんだよな。でも、だからこそ、幼稚園のあいだだけでも、強制されない、その子の意志を尊重しながらの運動会を経験させてあげるのは、子どもにとっても、もしかしたら、わたしたち親にとってもステキなことなのかなぁ」と。
その後のお母さんの対応がすばらしい。小学生の娘さんにお母さんは言ったそうです。「右手を上げてください、といわれて、右手を上げるのが正解で、そうしなさい、そこにあなたの気持ちはいらないって言われるのが学校だとするでしょ。フジミ幼稚園はね、そのときに左手をあげても、両手をあげても、右の指を上げても、その理由を聞いてくれて、それもいいね、って言ってくれるところなのかもね。バラバラみたいに見えるけれど、バラバラの中にも、みんなの楽しさが大事にされているように思えるよ」と。
一人ひとりの子どもの命の成長を、その子らしさが大事にされて、みんなそれぞれ自分らしさが出ていて面白いと、感じてくださる、そのまなざしが、子どもの心を豊かにし、幼稚園の働きを意味あるものにする肝心のことだと、わたしも感じています。
上尾富士見幼稚園 園だより 2015年11月
「平和を実現する人々は幸い」
園長 秋 山 徹
今朝は晴れ渡った秋空、さわやかな風が吹き渡って、幼稚園の子どもたちは運動会の練習のために一日赤熊ひろばで精一杯に体を動かしてすごすことができるでしょう。かけっこやダンスなど、体を精一杯使って、一人ひとりの子どもの中に成長を目指して待ち構えているさまざまな秘められた能力が、一挙に開放される格好の機会となるでしょう。運動会では、ダンスやリズム遊びなど、みんなで心を合わせていっせいに体と心を動かす作業と、リレーなどのように他の人と競い合うという作業が組み合わされています。リレーなど、必死に走る子どもたち一人ひとりの姿に、見ているお父さんもお母さんも、おじいちゃんもおばあちゃんも大興奮、感動して泣き出す人もいるほどです。
心を合わせて同じことをすることと、一人ひとりが他者と競い合うという作業を一定のルールに従ったゲームとかたちで経験することは、人間の成長にとって、また、社会の中に平和を造りだすという働きにとって、とても大事なことだと思います。人間の心には闘争本能のようなものがあり、他のものより優れたものでありたい、負けたくないと、心を燃やして、そのために練習したり、学んだりして自己の向上に努めます。その心は人間として社会の中に生き抜いてゆくために必要な資質でもあるでしょう。しかし、また、わたしたちの心には、人と一緒に、同じ動作をしたり、同じ声と心を合わせたりすることから来る楽しさ、喜びもあり、特に子供の時代に、その感覚を十分に味わうことが極めて大切なことだと思います。競争する心と協調する心の両方を深く味わい、それらのバランスと、その両者ともに他者を思いやるという心が失われ、自分のことだけを考えるようになれば、そのゲームは成り立たなくなることも、子どもの時によく味わい経験してゆくことが大切だと思います。
最近、世界を揺るがしている大きな出来事、シリアの国民2千万人の内ほとんど半分の人々が、自分の国から脱出してヨルダンやレバノンなど周辺の国々やヨーロッパの国々に押し寄せて難民となっている様子が毎日のニュースで伝えられています。小さなゴムボートにすずなりに乗って地中海を渡る難民たち。ボートが転覆して海に投げ出され、死んだ子どもが海岸に打ち上げられている姿、大きな荷物や子どもを抱えた何千もの人々の群れが、ドイツやフランスに向かっている姿がわたしたちの目に焼きついています。これはゲームではありません。どうしてこんなことになるのか、どうしてイスラム国(ISIS)のような凶暴な集団が現れるのか、わたしたちの世界は、このような事態を根本的に解決する道を、未だ見出していません。
「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」とイエス様は語られました。平和を実現するための深い知恵と、他者への思いやり、それは武力などを行使する法律や仕組みを発達させることなどとは全く違った取り組みが必要であることに、わたしたちの国はどうして気づかないのでしょう。
上尾富士見幼稚園 園だより2015年10月
「さあ、成長の秋だ!」
長い夏休みが終わって、いよいよ幼稚園の一年の中でも最も充実した秋の学期にはいります。運動会、バザー、クリスマス、それらの行事に向かう歩みの中で
長い夏休みが終わって、いよいよ幼稚園の一年の中でも最も充実した秋の学期にはいります。運動会、バザー、クリスマス、それらの行事に向かう歩みの中で子どもたちはどのようにそれを受け止め、どのような関係の輪を広げて行くか、大きな成長の機会が開かれてゆくことでしょう。お母さんたちにとっても、忙しいけど、楽しい、みんなでつくり上げてゆく、学生気分に戻ったような、そんな時を大いに楽しんでくださるといいですね。
夏休みの間、子どもたちはどんなときを過ごしたでしょう。今年は幼稚園ではプールの日を何日か設けて見ましたが、これが好評だったようで、思わぬほど多くの参加者がありました。幼稚園の仲間と一緒にいるのが、やはり何よりも楽しいのかな。
わたしはいつもの夏のように、大きく移動することが多い夏でした。7月には夏の休みにはいるとすぐ、幼稚園の先生達と群馬県の世界遺産として登録された富岡製糸工場や群馬町の「絹の里博物館」、島村にある田嶋家の見学を兼ねて、甘楽教会と安中教会、島村教会の付属幼稚園を訪ねる研修旅行。明治開化の時代にいち早く日本の産業の近代化に取り組んだ絹産業の展開の様子を学びながら、その歴史とその地域にある教会の幼児教育とが深くかかっていることを知りました。
8月のはじめの3日間は、日曜学校の夏期学校のために群馬県の水上の奥にある日本バイブルホームで過ごしました。小学生、中学生、高校生、スタッフを含めて40名ほどの夏期学校ですが、幼稚園を卒園した人たちが、一緒に聖書の学びをしながらそれぞれ成長していく姿に触れることができるうれしい時間でした。今年はとんでもないハプニングがありました。利根川の上流にあるダム湖でカヌーにのって遊んでいたとき、大人3人が乗っていたカヌーが転覆して、水に投げ出されてしまったのです。ライフ・ジャケットを着けていますから溺れることはありませんでしたが、冷たい水の中から全身ずぶぬれで岸に上がり、転覆したカヌーを引き揚げました。3人の大人の年齢を合計すると226歳、大変な転覆・トリオとなりました。
8月の下旬には、東日本大震災で大きな津波被害を受けた岩手県の釜石に行きました。車で最近まで放射能汚染のために一部通行禁止になっていた常磐道を通って三陸自動車道から釜石に入りましたが、途中で石巻市や南三陸町、津波の襲撃で残された一本松で有名な陸前高田市などを通過しながら、復興の状況を見ました。地震のすぐ後三陸海岸沿いの町々を通って見た時の光景はまさに悲惨としか言いようのない状態でした。4年たった今は、ビルの屋上に乗っかった舟や瓦礫の積みあがった道は片付けられていましたが、所々で地面を高く盛り上げる工事が行なわれているだけで、すっぽりと津波に払われてしまった町々はいまなお荒涼とした何もない地面が茫漠と広がっているばかりで復興とはほど遠い状況であることを見てきました。釜石では、「ハートフル釜石」というセンターがあり、釜石市内に何箇所にも点在している仮設住宅を訪ねて「お茶っこサロン」を設けていますので、傾聴ボランティアとして参加し、手仕事をしながら、家を失った人、家族や親しい方をなくした人たち、ヘリコプターで救出された話しなど、それぞれの経験を分かち合う話に耳を傾けました。
園長 秋 山 徹
長い夏休みが終わって、いよいよ幼稚園の一年の中でも最も充実した秋の学期にはいります。運動会、バザー、クリスマス、それらの行事に向かう歩みの中で子どもたちはどのようにそれを受け止め、どのような関係の輪を広げて行くか、大きな成長の機会が開かれてゆくことでしょう。お母さんたちにとっても、忙しいけど、楽しい、みんなでつくり上げてゆく、学生気分に戻ったような、そんな時を大いに楽しんでくださるといいですね。
夏休みの間、子どもたちはどんなときを過ごしたでしょう。今年は幼稚園ではプールの日を何日か設けて見ましたが、これが好評だったようで、思わぬほど多くの参加者がありました。幼稚園の仲間と一緒にいるのが、やはり何よりも楽しいのかな。
わたしはいつもの夏のように、大きく移動することが多い夏でした。7月には夏の休みにはいるとすぐ、幼稚園の先生達と群馬県の世界遺産として登録された富岡製糸工場や群馬町の「絹の里博物館」、島村にある田嶋家の見学を兼ねて、甘楽教会と安中教会、島村教会の付属幼稚園を訪ねる研修旅行。明治開化の時代にいち早く日本の産業の近代化に取り組んだ絹産業の展開の様子を学びながら、その歴史とその地域にある教会の幼児教育とが深くかかっていることを知りました。
8月のはじめの3日間は、日曜学校の夏期学校のために群馬県の水上の奥にある日本バイブルホームで過ごしました。小学生、中学生、高校生、スタッフを含めて40名ほどの夏期学校ですが、幼稚園を卒園した人たちが、一緒に聖書の学びをしながらそれぞれ成長していく姿に触れることができるうれしい時間でした。今年はとんでもないハプニングがありました。利根川の上流にあるダム湖でカヌーにのって遊んでいたとき、大人3人が乗っていたカヌーが転覆して、水に投げ出されてしまったのです。ライフ・ジャケットを着けていますから溺れることはありませんでしたが、冷たい水の中から全身ずぶぬれで岸に上がり、転覆したカヌーを引き揚げました。3人の大人の年齢を合計すると226歳、大変な転覆・トリオとなりました。
8月の下旬には、東日本大震災で大きな津波被害を受けた岩手県の釜石に行きました。車で最近まで放射能汚染のために一部通行禁止になっていた常磐道を通って三陸自動車道から釜石に入りましたが、途中で石巻市や南三陸町、津波の襲撃で残された一本松で有名な陸前高田市などを通過しながら、復興の状況を見ました。地震のすぐ後三陸海岸沿いの町々を通って見た時の光景はまさに悲惨としか言いようのない状態でした。4年たった今は、ビルの屋上に乗っかった舟や瓦礫の積みあがった道は片付けられていましたが、所々で地面を高く盛り上げる工事が行なわれているだけで、すっぽりと津波に払われてしまった町々はいまなお荒涼とした何もない地面が茫漠と広がっているばかりで復興とはほど遠い状況であることを見てきました。釜石では、「ハートフル釜石」というセンターがあり、釜石市内に何箇所にも点在している仮設住宅を訪ねて「お茶っこサロン」を設けていますので、傾聴ボランティアとして参加し、手仕事をしながら、家を失った人、家族や親しい方をなくした人たち、ヘリコプターで救出された話しなど、それぞれの経験を分かち合う話に耳を傾けました。
上尾富士見幼稚園 えんだより 2015年9月号
「幼稚園の顔とお家の顔」
園長 秋 山 徹
幼稚園の庭は緑にあふれています。リンゴやプルーン、クルミやビワ、白樺にカツラ、イチョウ、どの樹も、枝と葉っぱを太陽に向けて、「わたしを照らして!」「わたしを照らして!」と、われも、われも、少しでも隙があれば枝を伸ばしていっぱいに光を浴びています。その緑がいっぱいの葉っぱの中にも、よく見ると小さな実が見つかります。今年はリンゴの実はほとんど見当たりませんが、プルーンやクルミの実は緑の保護色で上手に身を隠していますが、いっぱい実っています。ビワは、今年は小作ですが少し黄色く色づいてもうしばらくすると子どもたちの口に入ることでしょう。今年、幼稚園の子どもたちは昆虫に特別興味のある子が多いようで、朝、幼稚園に来るときにも昆虫籠を持って、中にいる何かの幼虫やダンゴ虫やてんとう虫などを見せてくれますし、来るとすぐに建物の周りにある草むらを仲間と探し回って、いろんな昆虫を見つけだしています。昆虫には今年は受難の年かもしれません。このように自然の環境に身をおき、その働きの中で生きていること、それらと共に生きていることに目を留める子どもたちの目は輝いています。
最近、幼稚園の野外保育やお母さんと一緒に食事をする機会などを通して、お母さんたちが幼稚園で過ごして、子どもたちがどんな風に過ごしているかを観察する機会が何度かありました。そんな経験をされた何人かのお母さんが、ご自分のお子さんを見て、幼稚園で過ごしている顔とお家で過ごしている顔がだいぶ違うと驚いていることを聞きました。家ではお食事の時に全く自分から食べようとしないので、お母さんのほうが手を出して食べさせてしまうことが多いのに、幼稚園ではさっさと自分でお弁当を食べている姿に驚いたり、家では何でもよく自分から話をして、しっかりしているように見えるのに、幼稚園では仲間はずれにされている様子を見たり、幼稚園での子どもの意外な姿を見て驚かされるのです。それは、当然のことです。お家の中では一番小さな弱い存在であっても、同じ年代の子どもたちの中では力づよい自分を演出するためにはリーダーシップを見せて、自分の位置を確保しなければなりません。お家の中では王様や女王様であっても、子どもの集団ではみんな同等で、従うことも学ばなければなりません。こうして幼稚園の集団生活をすることによって社会に適応することができる人に成長してゆくのですから、お家の顔と幼稚園の顔が違っているところを見ることはとても大切です。
親として、幼稚園の子どもの顔に介入することはできません。本当に大切なことは、これから社会の中で自分の位置を見出してゆくとき、どうしたら、自分のことだけを考えて誰かに依存して生きるところから、自然の環境やその中で生きているいと小さいものをいとおしみ、他者の弱さや悲しみの心を思いやる心を持って生きてゆく心をたくましく育ててゆけるか考えることでしょう。そのためには、大きな目と心で、どんなときでも受け入れてくれるところがある母の家を用意すること、これも大切なことの一つです。
上尾富士見幼稚園 えんだより 2015年6月号
「子どもの生命力を奪わないで!」
園長 秋 山 徹
風かおる5月、幼稚園の朝は子どもたちが庭いっぱいに広がって、砂場や鉄棒や、ライク・ア・バイクを乗り回して、のびのびと、生き生きした姿が、そこにもここにも見られます。部屋の中で静かに折り紙をしたり小さな仲間たちとおままごとをしている子どもたちも、それぞれ思い思いに、自由に遊んでいます。目を高く上げて空を見ると、青空の中でみんなで作った鯉のぼりが風に揺らぎ、その向こうにはアオギリがさわやかな紫色の花をいっぱいに咲かせて、カツラや白樺の新緑の中に彩りを添えています。まさにシェーネ・メルツ(美しき5月)です。
4月から新しい仲間が加わって、それぞれのクラスの先生たちは一人ひとりの子どもの個性を観察しながら、どうしたらみんながクラスの中にとけこみ、豊かな交わりの中で一人ひとりが成長してゆけるかと懸命に取り組んでいます。家庭訪問をして、それぞれこれまで生きてきた環境や家庭の状況をお聞きし、一人ひとりの特性の把握に努めます。集団の中に入って妙に乱暴な言葉遣いや暴力的な行動に走りがちな子ども、ちじこまって集団の中に入りにくい子ども、障がいのレベルではないにしても、さまざまな問題を抱えていると思われる子どもについても、その背景を考えながら、どのように安心と落ち着きをもたらし、自分のことだけでなく、人のことも考えられる人になってゆくか、人として生きるための土台を確かに造るための作業は、まさに人としての基礎の形成にかかわる幼稚園の仕事です。一人ひとりの子どもと深く出会ってゆくにつれて、大きな期待と愛情の中でこれまで育てられて来たに違いない子どもの中にも、期待する姿とは違った暗さに出会わされることが多いのも事実です。
数年前にもこの「幼稚園だより」で述べたことですが、一人ひとりの子どもの生き様を観察しながら、現在の子どもが生きている社会環境のことを思わずにはいられません。子どもの持っている本来性、自然性、が、現代社会の子ども観によって阻害され、抑え込まれて、本来の生命力が衰退しているように思えるのです。総理府による「親が子ども期待すること」についての調査では、1. 規則を守り、人に迷惑をかけない道徳心や公共心、2.相手のことを思いやる心や相手の立場を理解する寛容性、3.基本的な生活習慣、4.礼儀正しさ、5.責任感、といった項目と順序でした。(1992年、総理府『親の意識調査』) 少し古い統計ですが、これは、おそらく現在もあまり変わりないでしょう。これらの期待に沿って、幼稚園や学校が教育をしたらどういうことになるか。わたしは、「子どもが子どもでなくなる」、と叫びたくなります。もし、子どもが、親の期待に応えて、これらの項目を試験する点数に高得点を取って、とてもよい子になったら、その子どもはどうなることか。かたい、創造性のない、人のことに関心をもたない、とても退屈な人になるのではないでしょうか。日本の教育は、そういう人を造るために、沢山のお金をかけ、労力をかけているように思えます。「空の鳥をよく見なさい・・・野の花がどのように育つのか、注意して見なさい」と語られる主イエスの言葉に導かれ、天の父の命のやしないに心を合わせましょう。
上尾富士見幼稚園 園だより 2015年5月
「迷い出た一匹の羊を捜し求める羊飼いのように」
園長 秋 山 徹
2015年度の新しい歩みが始まります。今年の入園式には桜の花は散ってしまっていますが、シンボル・ツリーの桂の木はすっくと枝を天に伸ばして、その枝々からハートの形をした若い葉っぱがいっせいに萌え出て、新しくはいってくる子どもたちを心を込めて迎えています。上尾富士見幼稚園が始まって51年目の年、新しい体制になっても、わたしたちの幼稚園がキリスト教幼児教育を基盤として、一人ひとりを大切にし、神と人とを愛し、愛される人間教育の基本姿勢は変わりません。最近の幼稚園には3歳児になった時点で年度の途中から入園できる制度になっていますので、もう既に何人かのお子さんは幼稚園生活を何ヶ月か過ごしており、縦割り保育の中ですっかり馴れてみんなに愛され可愛がられて自分の居場所を確保している人もいますが、4月から幼稚園生活が始まる人たちは、子どももご家庭も、はらはら、どきどき、果たして集団生活にうまくとけこめるかと心配しながらの1か月になることと思います。でも、大丈夫、幼稚園でしばらく過ごすうちに、互いに思いやりの心が育ち、豊かな交わりの時を過ごすことができるでしょう。子どもを中心にした保護者の方々の交わりも、親しく厚くなって行きます。一人一人の子どもたちが、どれほどに大きく成長するものであるか、人生の根っことなる愛や信頼や希望が、どれほどに深くその根を伸ばすものか、期待しつつ、今年も、またその営みに励みたいと思います。
毎日のニュースを通して世界と日本のさまざまな事件を通して、どれほど多くの命が無残に失われてゆくかを知らされています。アラブの諸国で毎日のように起こっているテロ。死者の数だけが意味を持つような空しい一人ひとりの死、その背後にどれほど多くの子どもの命が含まれていることか。人を殺したいという衝動に駆られて行動に移してしまった女子高校生。一人の人間の精神異常として片付けられないような、この時代のすべての人間の心に吹き込まれた風のようなもの、悪霊の働きに踊らされているような事件が日本でも相次いでいます。いま子どもたちは、このような時代の空気を吸って育っています。やがてこの子どもたちが敵対心を燃え上がらせ、戦争に駆り出されるような時代が来ることも予感させられます。この時代を生き抜き、死に向って狂奔するような時代の流れに抗して、大きく愛と平和と支え合いの世界に変えてゆく心をもった人材をいかに育てるか、大きな課題が課せられています。イエス・キリストの心、「ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た羊を捜しに行かないだろうか。もしそれを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。このように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」と語られる、天の父の御心をあらわす幼稚園の庭となるように努めなければなりません。
上尾富士見幼稚園 園だより2015年4月号より