クリスマスの心で平和を
園長 秋 山 徹
今年も、はや12月、クリスマスに向かうアドヴェントの季節を迎えました。富士見幼稚園を経験した子どもたちにとって、最も心に残る行事の一つは、クリスマスの時に行ったページェントであることは確かでしょう。今年も、クリスマスの歌を歌い、だれがマリアになるのか、東方の博士はだれがなるのか、天使は?と、子どもたちの期待も高まっています。
11月30日の日曜日の夕刻、教会ではクリスマス・ツリーの点灯式をします。クリスマス・ツリーだけでなく園舎の壁や庭の木々いっぱいにライトアップして、暗い夜空にクリスマスの到来が近いことを告げ知らせます。今年は上尾富士見幼稚園の創立50周年になりますので、幼稚園を卒園した人たちにも点灯式の案内をしていますので、沢山の卒園生も来てくれると思います。そして、幼稚園の時に経験したクリスマスのことを懐かしく思い出すに違いありません。そのときに、本当に思い出して欲しいのは、だれがマリアになったかとか、誰やヨセフや宿屋をやったかなどではなく、本当のクリスマスの心です。
クリスマスは、「キリストのミサ」の意味で、イエス・キリストが罪深い人類の救いのためにこの世に来られたことを世界に告げ知らせ、神に感謝の礼拝をすることです。既に2世紀の教会でもクリスマスが行われたといわれていますが、元来は、ローマの太陽神の冬至祭の習慣をキリストの到来を祝う礼拝に変えたものといわれています。クリスマスの祝い方は世界各地でそれぞれ特徴があり、サンタクロースやクリスマス・ケーキなど、さまざまなクリスマス文化が発展していますが、何よりも中心にあることは、イエス・キリストがわたしたちのところに来られたことの意義を覚えて、神に感謝の礼拝をすることです。礼拝のかたちとして、イエス・キリストが生まれたときの情景を演劇の形にして思い起こすページェントの習慣もその一つです。この習慣は、13世紀のイタリアのアッシジのフランシスコによって始められた「小さき兄弟会」と言う修道会から始まったものといわれています。アッシジのフランシスコは、イエス・キリストが神の子であられたのに人となり、小さく貧しい者の友となられ、罪のもとにあえぐ人類のために、その苦しみを共にするだけでなく、自らが人々の罪を負って十字架にかかられた生涯と、そこに示されている神の愛にとりわけ深く感動して、自分の生涯をすべてを捨てて貧しい者となり、キリストの歩みに倣うことを誓って修道の生活に入った人です。フランシスコは、このキリストの生涯の初め、身ごもった母マリアがヨセフと共に旅人としてベツレヘムに来ますが、どこの客間にも泊まれないで、家畜小屋で産声を上げ、飼い葉おけの中に寝かせられた、王の王、主の主としてあがめられるべきお方が、このような貧しい姿でお生まれになったということの深い意義を覚えるために、ページェントを行うことをはじめたのです。
クリスマスの時に思い起こされるさまざまな情景、飼い葉おけに寝かせられた幼子とその母マリア、その周りで赤ん坊の姿を覗き込む羊飼いたち、飼い葉おけの前にひざまずき、黄金・乳香・没薬のささげものをささげる東方の博士たち、空に輝く天使たち、それらの情景はすべて、自分のことだけを考えて心おごるわたしたちに、地上の思いから離れて、心を貧しくして神のもたらす救いに生きる人々の平和を指し示しています。