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ライト・スタッフ



 『国際化社会』とか『国際教育』とかいう言葉が当たり前のように飛び交っていますが、国際感覚を身につけるとかいう以前に『私たち自身』をつくることが先決だと思います。かといって、それは民族的、国家的アイデンティティーなどではありません。それ以前の問題だと思います。

 私たちは子どもの頃から『おりこうさん』『よい社会人』になるための教育を受けてきました。結果、その基準から外れる人間は白い目で見られ、あくまでも社会基準に当てはまるよう強制されてきました。そして、その行き着くところ、自分自身を殺し、“自分”が存在しない大人になってしまうのです。

 このような状況は、これまでの日本社会なら通用するかもしれませんが、これからの国際化社会では障害となるのが明らかでしょう。


 インターネットで『国際化社会』と打ち込むと、膨大なページがヒットします。特に『教育』というジャンルでは、外国語(英語)教育はもとより、さまざまな国への留学コースが設けられているのが目に入ります。私たちが子どもの頃から比べると何と恵まれていることでしょう。

 しかし、それで国際化などできるのだろうか?と疑問を持ってしまいます。

 どんなに金を使って海外へ行っても、自分が存在しない『おりこうさん』に何ができるのでしょうか?

 最近では、小中学生対象にも『異文化体験ツアー』なるものが企画されています。その国へ行って、その国の子どもたちと交流して、その国の食べ物を食べて…。この時期に経験することは、将来にとって大きな財産になるでしょう。

 しかし、それはあくまでも『子どもたちの友好親善使節』でのお話です。今、求められている国際化とは、そのようなことを指すのではないと思います。

 人の往来が激しくなり、事実上、国境がなくなりつつあります。嫌がおうでも外国人と接する機会が多くなっています。そのような社会では、いつまでも小中学生の友好親善使節のような真似事をし続けるわけにはいきません。

 どのようなことが必要なのでしょうか?

 仕事柄、よく『国際化のために、私たちに何ができるのか?』などと聞かれます。

 それに対し私は『一人でも多くの友人を作ること。』と答えます。しかし、それに対する反応は、気抜けしたような反応がほとんどで、『何だ、くだらない』という声が聞こえてきそうです。

 けど、考えてください。

 小中学生の友好親善程度の付き合いが友人と言えるでしょうか?

 私はそんなつもりで言っているのではありません。日本人の友達と接するような外国人の友人をつくるようすすめているのです。

 本気で外国人と友人になろうとしたら、恐ろしいほどのパワーが必要になります。人見知りの激しい人間でなくとも身構えてしまいます。

 「いや、知り合いが国際結婚をしたけど、たいしたことなさそうだったよ。」なんて言う方もいるかもしれません。けど、決してその知り合いさんも、楽ではないでしょう。そこには多くの苦労があると思います。その苦労を知らないだけなのです。

 

 まず外国人は、私たちとは全く違う基準で動いています。

 当然、日本的な基準で接することなどできません。ところが、日本人の友人と同じように接しようとした時、この『当り前のこと』が消えてしまうのです。その結果、激しい誤解が生まれてしいます。

 では、どうすればいいのでしょうか?

 そう。

 まず、『自分自身を作る』ことから始めなければなりません。


 自分自身を作る…。

 私たち自身をよくよく考えて見ると、子どものころから『正しい』と教えられたことに従っているだけだということに気がつきます。特にそれは、異質のエイリアン(外国人)たちと接することで思い知らされます。

 与えられた価値基準で物事の善悪を判断し、与えられた価値基準で行動する…。それはまるで『プログラム』をインストールされ、それに従って動くロボットのようです。そこに人間らしさや人間性などありはしません。そう。『自分自身』が存在しないのです。

 同じ日本人同士なら問題ないでしょう。同じ日本人同士なら従うプログラムが一緒ですから。また、個人に中身がなくても従っているプログラムが一緒なら、トラブルは少なくてすむのです。

 しかし、異質なものには通じません。我々が従っているプログラムを無視した行動をします。その時、私たちはどのような反応をするのでしょうか?

 その答えに対し、私たち自身ではなく、プログラムは『差別は良くない』『いつかわかりあえる』『心が通い合う』『日本人にも外国人にも悪い奴はいる』と作動します。

 そう。この反応は、私たち自身が導き出した答えではなく、プログラムが作動した結果に過ぎないのです。


 時々、愚痴メールを送ってくる友人の日本語教師がいます。先日もメールしてきました。『…(詳細略)…。なので、私は世界中の中国人が大嫌い!…(中略)…外務省にビザを出さないように陳情したい!』と激怒しながらメールしてきました。

 はい。

 これって偏見と差別でしょうか?

 私はそうは思いません。

 もちろん、インストールされたプログラムに盲従し、それにコントロールされている方から見れば、とんでもないことだと感じるでしょう。けど、私はその先生がどんな人なのか知っていますし、その事情を知っていますので、偏見だの差別だのは感じません。

 では、この話を中国人にしてみたらどうでしょうか?

 当然、反発されるでしょう。

 けど、この先生の卒業生の中国人たちにしたら?

 恐らく大笑いするでしょう。そして、その先生の身を案じるでしょう。

 もちろん卒業生の誰一人としてその先生を外国人差別だなどとは思わない、とまでは言い切れません。しかし、この先生が愚痴るのは、外国人差別をしているから愚痴るのではなく、外国人が差別される理由を知っているから愚痴るのだと誰もが知っています。相手を知っているからこそ言えるのだと知っています。

 ここにプログラムによる作用はありません。また、国籍や人種などという『識別』もありません。それを超えた関係だけが存在しています。

 その関係とは何でしょうか?

 臭い言葉でいうなら、これこそ『友情』でしょう。

 この先生は、もう日本語教師辞めたいみたいなことを仰っていますが、恐らく辞めないでしょう。疲れて1度離れることはあるかもしれませんが、また戻って来て、そして『中国人はクズ野郎だ!』みたいに言いながら、それでも中国人を助け続け感謝され続けると思います。

 仕事だから助ける?

 とんでもない!

 『クズ野郎じゃない中国人』も大勢いることを知っているから助けるんです!

 これが人間であり、人間らしさ、人間としての魅力です!

 相手は日本社会へ来たのに、日本の基準を無視している、それに腹を立て怒るのは当たり前のことです。

 その当たり前のことがなぜできないのか?

 むかついた時にむかついた気持ちを思いきりぶつけなければ、嬉しい時に喜べなくなってしまいます。

 本気で外国人と接するなら、この人間らしさこそが重要なのです。

 現実は、文部科学省が『検閲』した教科書に書いてあるような、綺麗ごとばかりの国際交流とは違います!

 こんな簡単なことができない、理解できないというのは、結局、何も知らずに、何も考えずに、インストールされたプログラム(与えられた価値基準)に従うだけだからです。

 与えられた価値基準に従うだけのロボットに、理解しろと言ってもどだい無理な話でしょう。

 また、日本語教師の中には『中国人は大嫌い!』とは『決して言ってはいけないこと』『決して感じてはならない悪いこと』と固く信じ、『黒い気持ち』が湧きあがる自分を必死に押し殺そうとする先生もいます。それに絶え切れず、つい言葉にしてしまい、涙を浮かべてしまいます。

 その先生は本当に純情で優しい方なのでしょう。

 『万人から愛される人間になるよう強要される教育』で教えられたことの正しさを信じて疑わず、必死に自分を押し殺してしまいます。必死に『人のため』に何かしてあげようと考えます。

 これがプログラムの力です。

 インストールされた価値基準と違う反応をしてしまう自分自身に嫌悪感を覚え、必死に自分を否定しようとしているのです。

 自分を否定する…。

 だから、自分自身が存在しないのです。

 黒い気持ちが沸き起こるのも、紛れもない自分自身でしょ?

 その自分自身を認めて初めて他人の存在も認められるんでしょ?

 上辺だけ、口先だけのプログラムからは、そのようなことは学べません。中身の伴わない『言葉』だけが先行します。

 他から与えられた価値基準の上辺だけ信じこみ、自分をがんじがらめに縛り、自分で思考することを放棄してしまう…、その結果、自分の心の中に湧き起こる『黒い気持ち』が、実は単なる『国際交流で必ず生じる普通の問題』を経験しているにすぎないのだと、理解できなくなってしまうのです。

 全てが全て嫌になってしまいます。

 そこで国際化は止まってしまいます。


 人から与えられた価値基準で動くだけの人間は、このような外国人との接触も持たずに、やれ『○国人はすばらしい』とか、やれ『○国人はだめだ』とか言ってしまいます。また、それが批判されようものならすぐに『日本人も外国人も〜』と語り始めます。これが決まり文句です。

 しかし、そのような発想こそ偏見に過ぎません。

 自分で思考もせず、与えられた規準に照らして結論を導くのは、ただの決めつけです。与えられた価値基準に支配され、それに盲従しているだけです。

 

 相手の悪い部分を知らなければ、よい部分など気がつきません。また、相手のよい部分を知らなければ欠点にも気がつきません。それをしなければ、ただの崇拝や恋愛の対象、あるいは、恨みや憎悪の対象としかならないでしょう。

 相手のよい部分を知り、悪い部分も知り、そして初めて『○国人はだめだ』とか『○国人はすばらしい』と言えるのです。良く言おうが悪く言おうが、その人の『個性』が発する、大いなる言葉です。偏見でも何でもありません。人間らしさの現れです。人間としての感情が出ているだけなのです。

 自分を否定したり、自己嫌悪などの陥る必要などありません。

 プログラムを削除しましょう!

 そして、新しい自分を作りましょう。

 それが国際化への第一歩です。


 現在、時代の変革とともに、このインストールされたプログラム(与えられた価値基準)が揺らいできています。そして、次にインストールすべきプログラムが議論されています。

 しかし、そこで求められるものは『愛国心』だの『ナショナリズム』だのといった、戦闘モードへのアップグレードではありません。

 自分で見て自分で思考し自分で判断する能力なのです。

 自分で思考せず、他から与えられたプログラムをインストールするだけでは、いつまでたっても同じことの繰り返しでしょう。

 いつまでたっても自分なんてできやしません。

 誇りや文化などというものは、決して他からインストールされるものではなく、自分自身ができて、初めて後からついてくるものなのです。

 もちろん、『自分を作る』と言うことは衝突を生み出すということでもあります。そう。今までどおり、自分を殺せば衝突は回避できます。けど、それこそが国際化を妨げる最大の要因です。

 様々な接触、衝突を経て価値基準が変わっていく、これが国際化というものでしょう。


 みんな同じ。みんな良い奴。

 今はできなくてもいつかは分かり合える。心は一つ。

 馬鹿なこと言うんじゃない!!違うから面白いんだ!!

 『友人をつくる、人を愛するってことは、新しい価値観との出会いだ!』なんて言葉があります。

 『時には傷つけ合い、時には喜び合い、そうやって友情や愛情が育まれていく…。』

 …って、言ってる癖に、なぜ外国人とはできないの?

 それこそ差別と偏見でしょう。

 



 

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