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 平岡 龍子   慶応元年(1865.3.19)〜昭和8年(1933)4月25日
 銀座教会の伝道師

<生い立ち>
 北海道開拓使判官の相良正勝とキンの長女として札幌に生まれた。

<東京女学校> 
 龍子が7歳のとき、すなわち明治5年(1872)に開拓使女学校に入学したが、翌年同校が廃校になったため、上京して竹橋女学校に学んだ。竹橋女学校とは、官立東京女学校のことである。

 ここで学んだ女性のうち富森幽香龍子は同年の生まれであり、鳩山春子石井筆子がともに文久元年(1861)生まれである。4人は年齢が比較的近いことから、校内で顔を合わせるだけではなく教室で机を並べた仲ではなかったであろうか。想像を膨らませていくと明治期のロマンが蘇ってくるようで、たのしくなる。だが、東京女学校も財政難のために明治10年に廃校となったため、現在のお茶ノ水女子大学の前身に組み入れられた。

 龍子は、その後、松本万年の塾で学んだ。そのとき松本万年の塾は、娘の松本荻江が教授していた。荻江はのちにクリスチャンとなるが、このときはキリスト教に関して龍子との接点はまだ、なかったであろう。それぞれが社会貢献することにより名が知られ、荻江や荻江の無二の友人である荻野吟子らとキリスト者として相互に接点ができたことを、今後、調べる楽しみができた。

 龍子は、築地居留地に建てられた外国人経営の海岸女学校の募集を見て入学した。
 海岸女学校は、アメリカ・メソジスト監督教会婦人宣教師スクーンメーカーによって設立されたミッション・スクールである。明治7年(1874)、津田仙(津田梅子の父)の協力を得て麻布に女子小学校を開設した。その後、芝三田に移動して救世学校、明治10年(1877)には築地居留地内明石町10番地に2棟の校舎を新築して海岸女学校と改称した。

<受洗> 
 そのため、龍子は入学に際して「決してキリスト教信者にならない」と血判までして父親に約束した。ところが、入学後、キリストの愛に触れ、明治16年(1883)受洗した。授洗者はソーパー,Jであった。
 海岸女学校は、明治12年(1879)に火災に遭い、一時銀座3丁目の原女学校跡に移動後、校舎を再建して徐々に生徒数も増し、キリスト教主義女学校として東京英和女学校、青山女学院へと発展し、現在の青山学院の一部となった。

 なお、原女学校は、原胤昭が自費で建てた日本人による日本人のためのキリスト教主義女学校の嚆矢である。その後、資金源その他の理由で、現在の女子学院の源流の一部として吸収された。

 龍子は卒業を約束のもとに明治18年(1885)、宣教医・シュワルツ,H.W.博士夫妻とともに伝道のために仙台に赴いた。やがて婦人伝道師の資格を与えられ、宣教師スペンサー,J.O.とともに東北地方の伝道に従事し、ミッション経営の女学校を巡回指導した。龍子は人格者であったミス・スペンサーの感化を受けることが多かった。

 明治26年(1893)、アメリカから帰国した日本鉄道技師平岡佳吉と結婚して4男4女が与えられた。幸福な家庭人として過ごしていた。しかし、夫佳吉は大正15年(1926)1月22日、死去した。

 佳吉と龍子は、築地メソジスト教会(現在の銀座教会)の会員となった。
 同43年(1910)の第二次石造会堂の建築費募集委員に四季会によって龍子は選出された。このとき杉原錦江や根本正の妻・徳子、安藤太郎の妻・文子らもいた。

 龍子は、さらに大正8年(1919)、大成運動の計画実現のための伝道委員の一人として活躍した。この運動は同11年まで継続され銀座教会の隆盛の基となった。

 龍子は、大正13年(1924)、銀座教会の第7代婦人伝道師として、任命を受けた。
 銀座教会の大正12年3月から同13年3月までの1年間は、6代鵜飼猛牧師、7代荻原明牧師、8代吉岡誠明牧師がめまぐるしく転出・就任が続いた。しかも、未曽有の関東大震災のためとはいえ、教会としは好ましくないことであった。就任数ヶ月で山本孝子伝道師、中尾武一書記がその職を退くという事態も生じた。

 主の宮の再建という重大な使命を帯びていた吉岡誠明牧師は、教会の事情に通じている龍子を第7代婦人伝道師として採用したのであった。龍子は吉岡牧師を助けて関東大震災後の会堂再建に尽力したことはいうまでもない。吉岡牧師は龍子の葬儀追悼のとき「私もあとから行きます」と、ただ一言発しただけで壇上において泣いた。それだけ龍子は銀座教会の再建に粉骨献身し、伝道者として主の栄光を輝かせたよき主の献身者であったことが、吉岡牧師をして壇上で一言発するだけで泣かれた姿から伺い知れる。龍子は、大正13年5月から昭和7年(1932)までつとめをまっとうした。

 昭和5年11月23日の聖日創立40年記念礼拝において、龍子は、婦人伝道師として、また長年の教会員として銀座教会から記念品を授与された。

 『銀座教会九十年史』に召天者名簿一覧に掲載されている。そこでの龍子は、4月30日となっているが、平岡龍子の項を割いている箇所では「昭和8年4月25日狭心症にて望みどおり一日も病臥することなく永眠、青山の墓地に葬られた。六十六歳。」とある。
ソーパー,J 妻の兄夫婦(デヴィソン)とともに明治6年(1873)に来日。日本におけるアメリカ・メソジスト監督教会伝道の草分けとなった。明治8年、津田仙に授洗したほか、来日10年間で400名近くに授洗した。現在の九段、現座教会の基礎を築いた。
シュワーツ,H.W. 医学と神学を修めて、明治17年(1884)来日し、翌年9月県立宮城尋常中学校英語教師として仙台に赴任。教育と伝道に尽力した。仙台美以教会(仙台五橋)の基礎を築いた。
スペンサー,J.O. 兄スペンサー,D.S.夫妻とともにアメリカ・メソジスト監督教会宣教師として明治16年(1883)来日。来日直後から離日の日まで一貫して東京英和学校(青山学院の前身)に関係し、同校の発展に多大な貢献をした。
出典 『キリスト教歴史』 『銀座教会九十年史』

銀座教会  http://www.ginza-church.com/
青山学院 http://www.aoyamagakuin.jp/
女子学院 http://www.joshigakuin.ed.jp/