映画『君の膵臓をたべたい』を観てから不安定になっている。自分の死別体験がよみがえるような感覚。胸騒ぎがして気もそぞろ。月一の診察で、S先生の前で壊れてしまった。そんなことはここ数年なかった。何かがおかしい。誰かに話したい。でも、それを打ち明けたり、相談できる相手はいない。
S先生には、調子がいいときほど過去を振り返りやすいことと、若い女の子が突然亡くなる映画を見て激しく動揺していることだけは伝えた。それを話しているときに壊れてしまった。
この作品には私には劇薬だったかもしれない。でもこの作品には惹かれるところもあったので、原作を読んでみることにした。過剰なほど感情移入してしまった映像作品はどんな原作から作られたのか、という点に興味が沸いた。ネットでアニメ版の評判もよいようなので、そちらも観てみることにした。
以前、『蜜蜂と遠雷』では原作を先に読んでから映画を観た。その順番は、両作品によい印象を残した。今回は、映画、アニメ、原作の順序になった。
月一の診察日。病院へ行く前に商店街の書店で文庫本を探した。本はすぐに見つかった。連休明けの病院はとても混んでいて、読書には好都合だった。待っている間に半分以上、読みすすんだ。S先生の前で壊れてしまったのは、待合室でこの本を読んでいたせいだろう。妙に感情が昂っていた。
映画→アニメ→原作。この順序はよかったと思う。
アニメ版は、人物像も展開も基本的に原作に沿っている。実写版には描き込めない豊富な情報を盛り込んだうえで、原作にも実写版にもない、アニメらしい色彩豊かな場面が追加してある。二人が急接近する場面も、アニメであれば、いやらしくならずに描くことができる。アニメ版は青春と初恋という爽やかさな雰囲気を醸し出すことに成功している。
要するにアニメ版は、原作に忠実でいて、アニメでしかできない効果を用いて物語を上手に膨らませている。
小説は、映画では描き込められなかった人物の性格や、出来事の背景について詳しく教えてくれる。映画は、小説の核にあるテーマに焦点を当てているので、物語が洗練されていて引き締まっている。12年後のエピソードを挿入したことも物語に厚みを与えている。両者を合わせて一つの作品、と言ってもいいのではないか。
個人的には、実写映画が一番気に入った。理由の一つは、原作の文体。どうしても最近の小説の文体には親しむことができない。私の文章の好みはもっとずっと古くて硬い文体。
一例を挙げると「噂なってる」とある。おそらく、「噂になってる」を「噂んなってる」と読ませたいのだろう。こういう書き方に慣れないし、好きにもなれない。
もう一つ。携帯メールの絵文字は絵文字で印刷できなかったのだろうか。[笑顔]や[ピース]では味気ないし、だいたい携帯メールでコミュニケーションを取っているということも伝わらない。
まだ、もう一つ、原作に残る不満。それは解説がないこと。
これだけ売れた作品の文庫版に解説がないのはなぜか。双葉文庫のルールなのだろうか。いずれにしろ、読書の案内人がいないのはもったいない。
原作は、春樹の独白で進む。だから、内向的で本好きという春樹の性格が詳しく書かれていて、どんな人物なのかよくわかる。また、桜良との交際を通じて春樹が成長していく過程もよく伝わってくる。
桜良は春樹の視点から書かれている。だから彼女がほんとうに春樹に魅かれていることや、天真爛漫な表情の裏にある死への恐怖などは最後まで読まないとわからない。映画は、そういう部分を演技で表現できるので、言葉では表せない登場人物の心情が伝わってくる。
映画には気に入った演出がいくつかある。タカヒロと喧嘩したあと、桜良の家で着替えずに帰ったところ。夜、電話をもらって病院に駆け込み、忍び込むところ。『共病文庫』以外に手紙が残されていたこと。
これらの場面や小道具は非現実的で不自然かもしれない。それでも、素直に観ている方は知らず知らずのうちに取り込まれている。「木戸誠、もしくは9番のターザンロープ」と私が呼んでいる現象。
こうした場面の省略や小道具の追加は原作のよさを損ねるものではない。むしろ、原作の核である、二人の心の通い合いや、簡単には死を受け入れられない苦悩が、よりくっきりと表現されている。大人がほとんど出てこないところも、「二人の世界」を浮かび上がらせる効果を持っている。
脚本家と監督が原作を丁寧に読み込んで、原作の底に流れている主題を的確にすくいあげているように思う。
映画の感想に書いたように、春樹が桜良を失くしてから長い時間苦しんだところにリアルな悲嘆を感じた。一年くらいで解消されてしまうのは現実味に乏しい気がする。これは経験上言えること。
もっとも、原作では、最後の「真実と挑戦」で桜良が訊きたかったことが『共病文庫』に書かれているから、映画のように死とともに謎は残されない。その分、春樹の立ちなおりが早いのは不自然ではない。悲嘆からの再生には個人差が大きい。恭子と仲良くなれたことも春樹の再生に有益だったに違いない。
原作では、春樹が恭子に近づくことも、彼の人間的な成長を示している。これは映画にはない。悪く言えば、映画では春樹は苦悩したままで12年も過ごしている。それを異常に思う人もいるかもしれないし、原作からの逸脱と指弾する人もいるだろう。それは否定しない。
十代で大切な人と死別した人がどのように悲嘆とともに生きていくか。もとより乗り越えたり克服したりできない悲しみを抱えてどう生きていくか。こういう言い方はあまりしたくないけれど、当事者にしかわからない部分もある。
12年間、悲嘆を引きずることは珍しいことではない。桜良のように、不治の病だったり、犯罪被害者だったりすれば、なおさらに残された者は深い心の傷を抱えたまま生きていく。40年間、引きずっている私のような者もいる。
映画のなかでも、恭子は大人になっても、ずっと桜良のことを忘れずにいて、やり場のない悲嘆の感情を抱えていることが細やかに描かれている。
映画は私の琴線に触れた。私の心のもっとも弱いところにグッさり突き刺さった。すでに書いたように、それは個人的な経験に深く関わっている。
三作品の関係に対する感想はどこから入ったか、という順序により違ってくるだろう。
原作を先に読んだ人は映画は要約に過ぎず、12年後の追加は蛇足に感じるかもしれない。映画を先に見た人は原作には粗削りなところを感じるかもしれない。
三作品はそれぞれよい。私はそう思った。それぞれがそれぞれのメディアの特性を活かした表現をしている。相互補完的、とも言える。三つ揃って、一つの世界を作っている。こういうことは珍しい。
映画とアニメは、原作の要となっている台詞は改変せずに、そのまま使っている。そういうところにも三作品の心地よい連携を感じるのかもしれない。
アニメを見て、原作を読んで、過剰反応はやや中和されたような気がしている。
さくいん:『君の膵臓をたべたい』、悲嘆、S先生、初恋、日常、S先生