ようやく読むことができた。ブクログに「読みたい本」として登録したのは2016年1月。しばらく前にブクログに登録しておいてまだ読んでいない本を整理していて本書を見つけた。図書館で予約してからかなり待たされた。
そして、ようやく読めた。今では次の著書『居るのはつらいよ: ケアとセラピーについての覚書』の話題も一山越えたところ。読書界では「今頃になって」なのかもしれない。私には新鮮な読書だった。
とにかく笑った。本を読んで声を立てて笑ったのは、朝井リョウ『学生時代にやらなくてもいい20のこと』を読んで以来。かれこれ5年ぶり。
笑えるだけではない。中身の濃い本だった。笑えるのに真面目な内容というトリッキーな本だったので、感想も簡単にはまとまらない。以下、まとまらないかもしれないが読後感を整理するために思いつくままに書いておく。
「相対化」という言葉が鍵語の一つとして登場する。研究を支援する財団のイインチョーは著者の中間発表を見て興奮する。
「(前略)あなたの研究は、権威や制度になっているものを相対化しようとしているんですね。そうやって当たり前の価値を揺るがせようとしているわけです。(後略)」
(7章 研究ってなんのためにある?ーー学問という文化)
民間医療をフィールドワークすることで「臨床心理学」という権威や制度を相対化させる。これが本書の一つの主題と言っていいだろう。
「相対化」という言葉から昨年読んだ北中淳子『うつの医療人類学』を思い出す。北中は「うつ」という病を相対化した。つまり、地域や歴史、文化や社会によって「うつ」のとらえ方は違っていて絶対的な定義はできない、と説いていた。
一方、東畑は治療法を相対化する。怪しげなヒーリング・セッションから薬物治療を行う精神医学、さらに彼の本拠地、患者との対話で治療を施す臨床心理学まで「心の治療」にはさまざまな種類がある。しかし、そのなかに絶対的な方法はないし、優劣もない。
ただ、著者の立場は"anything goes"とは違う。彼は臨床心理学に優位性ではないものの独自性を見出して、失業者から大学教員へ進む。この展開は若き学者の青春エッセイとしても読める。時間では一年間と短いけれど、先日読んだ、落ちこぼれ学生が音楽ライターになるまでを書いた青春エッセイに似ている。
研究の進行が本の叙述と同時に進んでいく構成も面白い。この研究はある財団の助成金の支援を受けたと書かれているが、この本以外に論文のような成果物はあったのだろうか。
この本がそのまま成果物なっているとしたら、学術論文のスタイルとしても画期的だろう。
臨床心理学の独自性を再確認したのは著者だけではない。臨床心理学の学問世界の全体が本書を通じて一度は相対化されながらも、独自性を再確認した。だからこそあれだけ話題になったのだろう。
「あれだけ」というのは、心理学界隈の人が多い私のTwitter、いわゆるタイムラインでの反響を指す。そもそも本書に興味を持ったのは、TLがひととき本書の話題で持ちきりだったから。『ナラエビ医療学講座』で知った斎藤清二先生をきっかけにして、いわゆる心理学クラスターの人をたくさんフォローしている。
一言で言えば、本書は「治療する側」から見た「心の治療」についての本であり、「治療される側」に焦点を当ててはいない。著者はあくまで研究者として「野の治療」を体験し、その魅力と限界を描写する。
臨床心理学を相対化する本書は「治療される側」にとってはすこし困った本と言える。なぜなら「心の治療」に絶対的に優位な方法はなく、それぞれの方法に長所と欠点があると指摘しているのだから。病者はどうやって治療法を選べばいいのか。本書はそこまでは教えてくれない。
私はいま、「うつ病」を患っていて精神科で薬物療法と精神療法を受けている。その選択は正しいのか。本書は答えてくれない。
患者は自分に適した方法を自分で探さなければならないのか、すでに病気なのに。著者のように湯水のようにお金をかけてあれこれ試すわけにもいかない。あとは運にまかせるしかないのか。
著者は微笑を浮かべながら言うだろう。
臨床心理家のカウンセリングにいらっしゃい
そう、本書は臨床心理の広告本でもあるのだ。ところが、そうは問屋は下ろさない。
カウセリングで恐怖体験をしたことがあるために、私は重症の臨床心理アレルギーになっているからだ(このあたり本書の文体を真似してみた)。
その恐怖体験を書く前に、2007年に遡り私の体験を書くことにする。
2007年の春に転職した先で、すでに出入禁止の関係にある顧客を担当することになった。会社の信頼を回復するのは、個人の信頼を回復するよりずっと難しい。何を提案しても断られ担当者から罵声を浴びせられたりもした。
会社に行くのがユーウツになり、よく眠れなくなってきた。訳もなく涙があふれてきたり、すべて放り投げてどこかへ逃げ出したくなったりもした。
バスの吊り広告だったのか、バスの窓から看板が見えたのか、一軒の精神科を通勤途中で見つけた。意を決してそこへ行ってみることにした。
もともと精神科には不信感があった。精神科で大量の薬物を投与され依存症になり症状が悪化したという記事を読んだ記憶があったし、何よりも過去の個人的な体験から精神科医に対して敵意さえ持っている。その詳細についてはここでは書かない。
結果から書けば、最初の病院はヤブ医者だった。診察は「よく眠れてますか」だけで何の説明もなく白い粉薬を処方された。数ヶ月通院しただろうか。症状は良くならないし、切羽詰まった状況は続くし、何もかも嫌になって自暴自棄になりそうだった。
そんなとき、妻が子どもの友だちの母親、いわゆるママ友の一人からある精神科の病院を紹介してもらった。どうしてそうなったのかと言うと、そのママ友がサバサバした人で大勢が集まっているところで「夫がうつ病になった」と話し出したから、妻も切羽詰まっていたのでどこに通院しているのか聞き出した。そして妻はその病院へ行くことを勧めてきた。
もともと不信感があるところへさらに通院している病院で不満が高まっていたので、どうせどこでも同じだろうと思い、転院にはまったく乗り気でなかった。それでも「ママ友がいい病院と言っていた」と強く勧めるので渋々S病院へ行ってみることにした。
それが今も続くS先生との付き合いの始まりだった。
S先生の初回診察は長かった。家族構成から生活史、今の症状まで詳しく聞き取りをした。
話を聴いてくれる人がいた
それだけでも少し安心した。精神科医への印象も変わりはじめた。
S先生はその後もお世話になっている。詳しく話は聴いてくれるし、細かなところまで見ていてくれて気づいたことを話してくれるし、何よりも上手に励ましてくれる。危機的な状況を何度も救ってくれた。
病院にかかるとき、心理カウンセリングに行くことも考えた。結局、選ばなかったのは、金額が高いことと、不信感はありつつも、「医学」の方が「心理学」よりも信頼に値すると勝手に判断していたから。「心の治療」の方法に体験する前から私は優劣をつけていた。
S医院には現在月に一度通院している。薬も当初に比べて減ってきた。それでもS先生は「寛解した」とは言ってくれない。
「寛解してない」ことを図らずも、また悲しくも本書でも確かめることができた。
著者によれば、民間療法で癒えた病者は他の病者を治したくなる、そして、癒しを広めることで自らもさらに癒される。
そういう気持ちはまったくない。他の人を治したいと思っていないということは、本書の主張に従えば、まだ自分自身が治っていないということになる。
今のところ、S先生に会えたのは幸運だったと思う。ということは、「心の治療」の選択は運にまかせるしかないのか。この疑問は消えない。
精神科の薬物療法と精神療法は続いている。時間はかかっているけど、この「方法」を今は信頼している。そして心理カウンセリングは"まだ”受けたくないと思っている。というのは、心理カウンセリングで恐怖体験をしたことがあるから。
1年静養して、それから就労移行支援事業所に通うようになった。ストレス・コーピングやアサーティブ・コミュニケーションなど心を自己制御も訓練するようになり、ついに再就職の活動を始めた。
自治体の就労支援部門で「就活カウンセリング」の催しがあった。私としては「就活や再就職に向けての心構え」を聞くつもりで応募した。ところが、これが失敗だった。
このイベントは「就活での悩みを聴く」、つまり、すでに就活を始めていて、そこに悩みを抱えている人を対象にしていた。私にはまだ早すぎた。
カウンセラーは聴くことが巧い。
カウンセラーは私の悩みを聞き出すべく私の生活史を聞き取りはじめた。もう一度書く。カウンセラーは聴くのが巧い。聴く、というより、引き出す、あるいはあの時の私の感覚から言えば、相手の心の奥にある本人も気付いていないものを引きずり出す。
「就職活動」の相談をするつもりが、私はいつしか『庭』にまだ書いていない「秘密」を語り出し、カウンセラーの前でボロボロ泣き出してしまった。初対面の人にカミングアウトして泣き崩れる姿まで晒してしまった。恥ずかしくて苦しかった。わずか数十分の会話だったのに途方もない疲労感が残った。
後日、S先生にこの恐怖体験を話した。
カウンセリングは心のエネルギーを必要とする。心が弱っている今はまだ早い。
S先生の反応に私は我が意を得たりだった。私はカウンセリングは少なとくも"今は"向いていない。
"今は"と含みを持たせているのは、今は無理でも"将来は"カウンセリングを受けてみたいと思っているから。
私の病気の直接的な要因は仕事にあった。ただ、その根本的な原因は十代のある出来事にあると自分では思っている。S先生は初診でこそ生活史を詳しく聴いた物の、その後の診察で過去の出来事には触れることはない。
今は目前の不安やうつ状態を治すことに専念しましょう
その意図には同意するけれど、やや不満が残る。
『うつの医療人類学』に書いてあった。欧米ではうつを人生全体のなかでとらえ、患者に人生を顧みることを促す傾向があり、日本では目に見えている症状を緩和して治癒することに注力する傾向がある。うつへの関心が過労死問題を始点にしていることも遠因らしい。
おそらくS先生はこれからも私の過去には触れることはないだろう。あるいはS先生は今のうつ病が寛解すれば、私の過去への固執も消失すると考えているのかもしれない。私はそう思っていない。いつか過去と正面から向き合わなければならないと思っている。
これからもっと元気になり、晴れて「寛解」とS先生に言ってもらえたとき、その時こそ、心理カウンセリングを受けるかもしれない。なぜなら、心理カウンセリング(臨床心理)はクライエント(病者)の心の底へ入り込み、そこで病者自身が自分の生き方を見つける支援する「治療法」だから。
臨床心理学とはそういうものと本書を読んで私は理解した。著者は次のようにまとめる。
臨床心理学は、天使も、ミラクルも無しで、ただただ人の話に耳を傾ける治療文化だ。(エピローグ ミラクルストーリーは終わらない)
今はまだ早い。ただ、その準備は進めている。それがここ、『烏兎の庭』。少しずつではあるけれど、まだ言葉にすることができない秘密を「聴いてもらいたいこと」にできるよう文章を書いている。