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 中田 重治   明治3年(1870)10月27日〜昭和14年(1939)9月24日
 日本ホーリネス教会創立者

《生い立ち》
 重治は父・中田兵作、母・千代の三男として青森県弘前に生まれた。

《長兄・久吉》 
 長兄の久吉はメソジスト教会牧師。明治20年のメソジスト教会年会で教役者として執事及び長老の按手を受けた。26年(1893)10月には松本美以教会で木下尚江に授洗した。
 明治29年(1896)には銀座教会の7代目牧師として1年間在職した。当時のメソジスト教会は定住制ではなく巡回制であったために離任が早いのである。

 だが、明治38年名古屋のメソジスト教会で逝去した。

 母・千代は、明治18年に弘前メソジスト教会(主任牧師・本多庸一)で副牧師・珍田捨吉から受洗した。

 幼少時から相当な悪戯っ子であったことは有名であった。安部宗臣の祖母が重治の家の前を歩くときに、よく水をかけられたとのこと。その悪戯っ子が神に用いられたことに阿部の祖母は神の御業に対して神の聖名を讃えた。


《結婚》 
 明治2年6月23日、小館かつ子と結婚した。


 明治44年(1911)3月20日、かつ子が死去した。

 明治44年8月27日、重治は秋田メソジスト教会(現在の秋田楢山教会)で礼拝説教を行った。この教会で伝道活動を行った津田義人牧師(明治24年〜27年)は重治の長兄でメソジスト教会牧師として活躍した久吉が信仰に導いた牧師のひとりだった。
 大正8年(1919)12月1日から4日、神戸イエス・キリスト教会で青木澄十郎の司会で重治は説教をし、ここで『伏屋の曙』の著者・座古愛子とはじめて面接した。

 大正10年、羽後を伴ってアメリカから戻った重治は、12月に草津に応援伝道に出かけた。妻恋で下車して2里の山道を馬で、一里手前まで来ると6名の病者が提灯を下げてリバイバル聖歌を歌いつつ重治を出迎えてくれた。重治は涙が零れ落ちるほど感動した。草津の入り口では三上千代その他が迎えてくれた。

 『リバイバル聖歌』の編集者は、羽後である。銀座教会においても羽後が親切な聖歌隊指導をしたことが記載されている。

 三上千代は、東京聖書学院出身者で、生涯をハンセン病患者のために献身した。服部ケサとともに100余名をキリスト教に入信させる大きな働きをなした。7,8日昼夜の聖マリア館での説教に7,80名から140,50名が集まり、そのとき重治のために旅費がささげられ、重治は患者の気持ちを思い泣いた。草津にはホーリネス村が建設される勢いだった。

 大正12年(1923)9月1日午前11時58分、関東一帯を大地震が襲った。キリスト教界としては救世軍の日本本営、神田の基督教会館の外、東京市内だけでも教会は60箇所、ホーリネス教会も被災にあった。そのなかで東京聖書学院は屋根瓦がとられたり、壁が破られたりした程度だった。重治の自宅は8本の柱で倒壊を防いだ。

 東京聖書学院は多くのクリスチャンの罹災者の避難所となり、50名の男女が寄宿することになった。また、学院の寄宿舎も解放された。重治は救護運動のために大車輪の活躍をした。罹災者訪問を重治自身が行った。重治は、被害が深川など江東方面に大きいことに責任を感じ、神にざんげした。江東方面には伝道が遅れていたので信仰をもって死去した人々は少ないのではないかと、深く反省した。

 余りにも、これまでのキリスト教は思想に流れ、下町方面にいる実業家に縁遠いことばかりしゃべっていたので民衆には見向きもされなかった。もっと下町の人々の霊魂の救済のために各教会は謙虚に真摯な態度で立ち上がるべきだと、痛感したのだった。

 大正13年(1924)6月、中田重治は東北、北海道伝道に出た。旭川、十勝、釧路、美幌、そして網走から札幌へ回り、聖書大会で武本喜代蔵平出慶一とともに講演を済ませると、インマヌエル村に出向いて青年4名に受洗した。そのとき、江賀寅三に会った。江賀寅三は、伝道者希望を中田重治に訴えた。

 重治は翌年も7月にインマヌエル村で奉仕をなした。そのとき笠井惣一、大住三郎の2人の青年に会った。彼らはのちに聖書学院に入学して伝道者として活躍した。インマヌエル村は、同志社出身の志方之善が北海道に理想のクリスチャン村を建設しようという壮大な計画をもって入植した。妻・吟子(荻野吟子)は夫の理想樹立のために尽力したが、途中で志方之善が病死したことで吟子は東京に戻った。

 大正13年(1924)8月ごろ、重治は妻・あやめを連れて草津に安部千太郎を訪問し、1週間ほど滞在した。親しく語り合いながら、ハンセン病患者の救済を痛感した。これよりいっそうホーリネス教会は中田重治の信念であるユダヤ人伝道に加えてハンセン病患者の伝道をホーリネスの特別伝道種目として重視した。

 同年9月24日、東洋宣教会の創立者であるカウマンがロサンゼルスの自宅で心臓疾患のために召された。重治もまた、15年後の9月24日にカウマンの待つ天国に召された。

 大正13年(1924)10月13日、聖書学院の講堂が落成した式典において、この講堂をカウマン館と名づけ、カウマン記念会を開催した。

 11月には、マオリ人一族が酋長・ラタナ夫妻の引率のもとに25名ほどが来日した。彼らはホテルに滞在するだけの費用を持ち合わせていなかったため適当な宿泊先を探していた。それを知った重治は、持ち前の義侠心を発揮して、カウマン記念館を提供した。

 一行はクリスチャンで、礼拝を重視したが、とくに女性は一種独特な踊りを活用した。一列に並んで毛糸で出来たような鞠状のものを自分の型などに打ち付けて歌を歌いつつ踊った。「オットコヘイヤー」という掛け合いの手も入った。日本語の「こんにちわ」に相当する「キャオラ」を愛嬌よく聖書学院の校庭などで行き会う人々に声をかけた。また、一行の結婚式もカウマン館で行われ、重治が司式をした。

 重治は、マオリ人の来校を記念して、11月8日をマオリ・デーとして、彼らのために祈ることを約束した。重治がのにちニュージーランドに渡ることになるのは、このときの親切な歓迎に対する返礼としての招待でもあった。

 大正14年(1925)10月3日、弘前教会の50年記念祭に出席した。山鹿元次郎先輩ををはじめ同期生に会うのは懐かしかった。婦人会で奨励をしたが、重治の母と同じく伝道者の母親も参加して、「中田のオンチャン(次、三男坊)}が立派な監督になって話すのを感慨深く眺めた。

 
 
出 典 『中田重治傳』 『植村正久と其の時代5』 『聖顔の輝き』 『秋田楢山教会百年史』 『銀座教会九十年史』