木漏れ日

著者のTwitter(現X)への投稿で知った新著。「ケア」という言葉は、最近、人文学や精神医学と重なる心理学の世界でいわば「流行」している。実際、書名に「ケア」とある本が続々出版されている。本書もその一冊に数えられるだろう。とはいえ、単に流行を追った本ではない。宗教学を起点に、死生観グリーフケア救いについて、長年、思索を進めてきた該博な著者だからこそ書くことができた一冊と言える。

言葉を換えれば、著者の思索が深まり、たどり着いた場所が「ケアのスピリチュアリティ」だったと言うこともできるだろう。

前に読んだ『なぜ「救い」を求めるのか』で島薗は特定の宗教団体に属していなくても、スピリチュアルな心性や体験は現代社会で多くの人が持っていると指摘していた。その指摘に私も同意した。

神秘体験のようなものでなくても、例えば私のように、亡くなった姉のあとを追うように英語に熱中したり、彼女が通った大学の大学院へ進学したことは、十分にスピリチュアルな体験であるとカウンセリングを通じて気づかされた。

本書は、さらに一歩踏み込んで、スピリチュアリティが実際の死別の悲しみや病苦などと、どう関わっているのか、また今後どう関わっていけるのか、という点を深く考えている。その関わり方全般を「ケア」と島薗は考えているように読んだ。

「痛みとケアのスピリチュアリティ」では「痛み」やゆきづまり、あるいは「底つき」のような象徴的な意味での「死」の経験や語りが大きな要素となっている。(第十五章 当事者と支援者の心の居場所探求)

島薗によれば、スピリチュアル・ペインとは、「答えの見えないたましいの痛み」。それを癒すには、医師や宗教者のように経験豊かな専門家に傾聴してもらう、複雑な感情を言語化する、自助グループに参加する、当事者研究を実践する、などの方法がある。実例もたくさん紹介されている。

紹介されている人物のなかには、アルフォンス ・デーケン安克昌宮地尚子若林一美など、これまでに読んできた人たちも少なくない。

宗教そのものではなくても、スピリチュアルな支援が、悲しみや苦しみ、もっと広く生きづらさをさまざまな場面で感じている人たちへの支援に役立っていることはよくわかった。

書いてあることに異論はないし、まったくその通りと思う。

ただ、私自身はスピリチュアリティについて他者と共有することが全くできていないし、期待もしていない。こうして一人、悲しみをつらつらと書きつらねているだけ。

もし私がグリーフワークを完遂して姉との死別体験を十分に血肉化できているのであれば、悲嘆で苦しんでいる他の人たちの支援にも参加できるかもしれない。しかし実際のところ、私は自助会にも参加しないし、ほかの自死遺族をケアするような活動に参加してもいない。悲しみを受け止めてくれる友人知人もおらず、歳をとるにつれて、むしろ孤独感を深めているようにさえ感じる。

自らがケアされる側でありながら、同じような悲しみや苦しみを抱えている人の支援をしている人について、「偉いなぁ」と思うだけで、とても真似ができそうにない。その意味では、私はまだ自分の悲嘆を死別体験から40年以上経ているにもかかわらず、十分に咀嚼できてはいないのかもしれない。

本書を読み終えて、あらためて自分の未熟さや心の成長の不足を感じないではいられない。


さくいん:島薗進アルフォンス・デーケン安克昌宮地尚子若林一美死生観悲嘆自死・自死遺族孤独