満月

これまで島薗進の書いたグリーフケアに関する本を2冊、読んでいる。『日本人の死生観を読むーー明治武士道から「おくりびと」へ』『ともに悲嘆を生きる グリーフケアの歴史と文化』

本書は先行する2冊に比べてむずかしかった。博覧強記の研究者が古今東西の文献に、それぞれの死生観を読み解く。馴染みのない人名や書名も多くあり、簡単には読めなかった。

以下、今後の読書のために、本書が取り上げた文献から興味のあるものを挙げておく。

『土佐日記』『ルバイヤート』『コヘレトの書』。これらは、これまでの読書と重なる。なので、著者の解釈を興味深く読んだ。

とくに『土佐日記』。15年以上前に読んだときには、仕事で用いる漢語では言い表せない悲嘆の感情を日常の言葉である仮名で表現した、と解釈した。著者によれば、貫之は漢詩で表現されている悲嘆を「やまと言葉」で表現することに挑戦したという。確かに悲嘆や無常感が漢詩の重要なテーマ。それは今年、唐詩を読んで知った。「やまと言葉」による漢詩への挑戦、という新しい解釈を教えられた。

『コヘレトの言葉』。「空」(くう)は、英語聖書では、"useless"、仏語では"fumée"。日本語に戻すと「無用」「煙」。「色即是空」のような仏教用語が日常の言葉になじんでいる日本語の方がニュアンスが伝わるような気がしてしまう。

それとも、"useless"や"fumée"と訳されている言葉を仏教的な意味合いで理解することは誤りだろうか。神の技の意味は人間にはわからない、という主旨はヨブ記にも通じるものがあると思う。旧約聖書の無常感は、「すべてを神に委ねる」ことで超越されると説いているように感じる。もっとも、私の聖書理解は上面をなぞったものにすぎない。

それぞれの時代に、それぞれの死生観がある。それは、時代全体を覆い、人々の心の拠り所になってきた。しかし、時代が進むにつれて、時代全体を支配するような「大伝統」の死生観は弱まってくる。

著者は本書の読後に、「あなた自身の死生観」を見つけ出してほしい、と望む。「宗教や超越的理念などの堅固なものがいったん失われた」現代では、死生観は、「個々人の探求や経験を通して新たに見出されるもの」でなければならないから(終章)。

「私自身の死生観」。この20年間の読書と思索でたどり着いたものは、何かしらあるかもしれない。

私が死生観を学んだ教材は著者が挙げたそれとはだいぶ違う。絵本だったり、ポピュラー音楽だったり。もちろん、近現代の文学からも学んだ。私は、私なりに教材を選んできた。それは大衆文化の要素を多分に含んでいる。それが私なりの死生観だけではなく、私なりの人生観の土台となっている。

無常感はある。救済という希望はまだない。復活も信じてはいない。霊魂の不滅を信じているわけではないけど、死者との交信はあると思う。

死者は生者の記憶のなかにいる。ただ、悲しむだけでは記憶のなかの死者には会えない。記憶の森深くを分け入らなければならない。そのためには悲しみに暮れているだけでなく、自分の生を全うしなければならない。

田村隆一の言葉を借りれば「質としての生」を生きなければならない。

今回、上梓した本は、現時点での「私自身の死生観」の表明ということができるだろう。

「生き残った後ろめたさに耐えかねる苛立ち」にはじまり、「心の底から悲しめることが幸せ」という境地にたどり着いた。この二つの心境が私の死生観を支える主柱となっている。


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