ブルデュー社会学の日本社会への応用研究。参考している研究にこれまでに読んだ竹内洋や石井洋二郎の名前があった。
本格的な専門書なので難しい、とくにアンケート調査の詳しい分析はわからないところが多かった。そこで、分析結果やまとめ部分を拾って読むことにした。
本書で得た知見で同意したのは、日本社会では、ハイカルチャー(教養文化)とサブカルチャー(大衆文化)が混交しているということ。著者はこの状況を「文化の入れ子構造」と呼んでいる(第3章 階級・階層から差異の空間へ)。
高学歴なら絶対に関わらないという文化があまりない。その反対もそう。低学歴・低収入でもハイカルチャーに関心を持つ人もいる。例えば、高学歴で高収入の新中間層でもギャンブルをする人もいればカラオケを楽しむ人もいる。昔、我が家の普請を頼んでいた大工さんはオペラの大ファンだった。
こういう状況は私の肌感覚になじむ。客観的に見れば私は高学歴・新中間層に入るけど、10代のあいだはテレビ・音楽・読書、いずれにおいても大衆文化にどっぷり浸かっていた。高学歴ではあってもハイカルチャーに馴染みがあるとも自分では思えない。
著者は、日本社会は文化的に平等とは見ない。むしろ、大衆文化が階層の存在を隠蔽していると見る。
重要なことは、わが国の大衆文化が、文化の象徴的境界の存在を隠蔽する機能を果たしていることにある。とくに文化的優位による支配が正当化されない組織文化をもつサラリーマン社会では、男性の文化エリートは大衆文化を示すことで階層的ルサンチマンを回避する戦略をとっている。その結果、わが国ではごく一部の文化エリートを除き、ブルジョワも中間階層も差異化と大衆化という相反する文化の二重戦略を用いて、文化的オムニポア(雑食:筆者注)となった。そのため文化的再生産メカニズムは人々の意識しにくいメカニズムとして隠蔽され、みえにくくなっている。その意味では、文化的支配は成功しているともいえる。そして、あたかも日本は文化的に平等であるかのゆな言説が流布するのである。(第4章 文化的オムニポアと象徴的境界)
日本社会は文化的に平等ではなく、むしろ階級の分断(格差)が厳然と存在すると著者は主張している。この鋭い指摘にも私は同意する。
著者の主張を私なりにとらえなおせば、日本社会はがっちりと固定した階級というよりは緩やかなグラデーションで分けられた階層を作っている。さらに言えば、一億総中流ならぬ一億総大衆という状況にあるとも言える。とりわけ若い男性社会にその傾向が強いと筆者は指摘している。
このような日本社会の特質には正負両面があるように思う。一方では、大衆文化を媒介にして階層のあいだに交流がある。他方、上層に属する者にその自覚がない。そのために、いわゆる「ノブレス・オブリージュ」のような矜持が醸成されにくい。
本書には、都市在住で高学歴で男性の読者には耳が痛い指摘が少なくない。例えば、次のような指摘。
(これまでの分析から日本の都市部では)高学歴の上層、上位中間階層、なかでも専門職層が正統趣味を背景とする文化的境界によって、友人を選択あるいは排除していることがわかる。そして、実際にも同じ上層・中上流の人々と交際していることも明らかになった。彼らは正統文化趣味の卓越化したライフスタイルを共通項として、互いを識別している。友人選択で文化的な境界線を引くことは、文化資本の高い階層・階級の文化戦略、社交戦略となっているといえるだろう。(第10章 バウンダリー・ワークとしての友人選択とハビトゥス)
言われてみれば、まったくその通り。私の交友関係は学歴や趣味、生活環境が似ている人ばかり。中卒や高卒の人さえ友人にはいない。あえて切ってきたと言われても否定することはできない。
思い出せば、休養中に通った就労移行支援事業所には、さまざまな階層の人たちがいた。彼らと交流することは新鮮ではあったけれど、再就職が決まってから再会はせず、交流は継続していない。
非常に狭い、限定的な世界で私は暮らしていることに気づかされた。
もっとも、友人が少ないのは社会階層的な理由だけでなく、個人的な資質によるところも大きい。そのため、いまの交友関係を劇的に変化させるのは難しい。
ここから先は、本書を読んだあとにしてみた自分自身の観察。
ハイカルチャーへの憧れから自分の大部分を作っている大衆性を嫌悪した時期もあった。反対に、ハイカルチャーに憧れるスノッブな自分が嫌になることもあった。
好きなものを好きになればいい。そう思えるようになったのはごく最近のこと。
残る問題は、私に上層にいる自覚がなく、それゆえ「ノブレス・オブリージュ」の意識がないこと。とくに障害者で非正規となってからは、自己肯定感が低下した。同時に、客観的に見ればまだまだ恵まれた環境にいるのに、「下層にいる」という意識、いわば負け犬根性に染まっている。
この性質を克服するにはどうすればいいのか。私はまだ解を見つけられずにいる。
さくいん:ピエール・ブルデュー、教養、石井洋二郎、竹内洋