山岳信仰 宗教とたたり 2006年6月11日更新
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3 宗教とたたり
・外来宗教の受容

・たたりに見る霊魂信仰

・「夕焼け小焼け」と仏教

・野田成亮の山岳行

妙法ケ岳(三峯神社奥院)
山岳信仰ページ内リンク
1 山岳信仰の概要
2 山と神
3 宗教とたたり
4 山岳信仰雑学その1
5 山岳信仰雑学その2
6 山岳信仰用語集

キリスト教はなぜ日本に根づかなかったのか 
仏教・神道の習合と国民宗教化により、政治・社会システムの圧力に屈した。
キリシタン弾圧。
外国の侵略を懸念した排除政策。・・・などによる。
 日本人による外来宗教の受容の仕方に独自の個性があった。この受容のパターンに順応した外来宗教は日本に定着することに成功し、それに順応し得なかった宗教はそのことに失敗したということになる。具体的にいえば、仏教はそのことに成功し、キリスト教はそれに失敗したということになる。
 そして日本人の外来宗教の受容という課題に関して、まず考えておかなければならない問題に三つある。すなわち、「山岳信仰」「他界観」、そして「遺骨信仰」がそれである。

1山岳信仰
 天孫のニニギノミコトは日向の高千穂の峯に降りたっている。つまり天は天上の神々が地上に降下する時の最初の上陸地点であったわけである。そしてもう一つ、「万葉集」の中で山部赤人の富士山をうたった歌で、彼は富士の山は高く貴く美しい、とうたっている。それに加えて富士の山は神のごとくふるまう、「神さびた山だ」といっている。ここでは「山」そのものが「神」であるという信仰が息づいている。これは要するに、古代世界において、「山岳」とは まずもって死者の昇る霊地であり、天上の神が天降る聖地であり、そして最後にそれ自体が「神体山」として崇拝の対象とされる異界であったということである。

2他界観
 仏教の日本受容ということを考える上で、これは最重要の課題となる。インドの仏教において、人間の死後の運命について深く考えたのはいうまでもなく、浄土教思想であった。そのインドでは人間が死後に再生すべき理想的国土として「浄土」が考え出されたのであるが、それは「西方十万億土」の彼方に存在すると考えられていた。しかしながら、この「浄土」観は日本に伝えられるや、たちまち変質を遂げることになる。

 何故なら日本においては、そのような抽象的な西方十万億土の彼方にある浄土観は受け入れられず、むしろ、より一層素朴で実在感のある山の中に浄土があるという「山中浄土」観にとって代わられたからである。そのような読み替えの背景に、先に述べた山岳信仰の伝統があったことはいうまでもない。死者霊の昇る霊山が、そのままインドの浄土教によって持ち込まれた浄土と観念され、同一視されるようになったのである。インドの仏教が日本の文化風土的条件によって軌道修正を受けた好例といってよいだろう。

3遺骨信仰
 縄文・弥生・古墳の各時代において、特定の遺骨を保存して祀っていたという痕跡を見いだすことはできない。その時代、遺骨信仰は見られなかったということである。奈良時代から平安初期にかけても、そのような徴候は発見されていない。そして人々の関心はもっぱら死後の霊魂の行方の方にあって、後に残された遺骸や遺骨に注意が向けられることは全くなかったのである。
 ところが、事態は十世紀から十一世紀の時期にかけて、一変する。なぜなら、この頃を画期として、まず天皇・貴族の遺骨を寺院に奉安して祀ることが始められ、やがてその遺骨の一部を高野山に納める習慣がまたたく間に一般に広がっていったからである。その背景に浄土教の普及が大きく作用していたことを上げなければならない。十世紀を機に、比叡山では源信や空也の活躍によって浄土信仰が朝野に広まった。

 高野山納骨の風は人々の心をとらえ、それがまたたくうちに地域を越え宗派の垣根を越えて広がっていった。そしてこの納骨習慣が近世にいたって、寺檀関係に組み入れられ寺への納骨という形をとって、寺と墓所の緊密なネットワークをつくりあげていった。
祖先崇拝の重要性を見誤ったキリスト教
 第3の問題は日本宗教の根幹を規定していると考えられる「祖先崇拝」に関わる問題である。外来宗教としての仏教は、この伝統的な祖先崇拝を受け入れることによって土着化に成功した。しかし、キリスト教は日本の信仰における祖先崇拝の重要性を見誤ったために、土着化に失敗した。
 今後キリスト教が日本の精髄ともいうべき祖先崇拝の問題に、根本的に取り組まない限り日本伝道は難しい。
 

1神の神話的種類
(1) 隠れる神
 神話の舞台でさまざまな活動をし、さまざまな事業をした後、自然にこの舞台の前面から退いていく、そういう神の一群がいる。この神の一群は決して死ぬことがない、ただこの世からこの世の背後へと退いて隠れていくだけの神である。隠れる神はしたがって当然、いついかなる時でも再び表れてくる、そういう可能性を持った存在であ る。
 天つ神と称する神々はほとんどこの「隠れる神」である。

(2) 葬られる神
 この神々は一定の事業を終えて、寿命を終え、息を引き取って山稜に葬られる。死すべき運命を持った神々である。
 国つ系統のものが「葬られる神」といってよい。
 ところが、以上二種類の神々の、ちょうど中間的な段階を示す神々が、イザナギ・イザナミではないかと思われる。夫のイザナギノミコトは、隠れる神々である。だから死んで葬られた形跡が一つもない。天つ神であるその固有の性格を貫いて、この世から身を退いていく。

 それに対して、妻のイザナミノミコトの方は、これはカグツチノミコトという火の神を産んで、そのため陰部を焼かれて死んでいる。「日本書紀」では、この神は熊野の有馬村というところに葬られている。

2肉体性を持たない神
 日本の神々は肉体性を持たない、つまり個性を持たないということである。その性格はそもそも、日本の神々が目に見えない存在であるということと深い関係があると思われる。よく、記紀神話の神々を総称して八百万の神々という。八百万の神々の体系というのは、これは多神教の世界をあらわしている。そういう宗教的な常識がある。しかし、この宗教的な常識というのは、半分正しくて半分間違っているともいえる。なぜならば、多神教には、目に見える多神教と、目に見えない多神教の二種類があるというところが大切と思うからである。

3 記号化される神
 日本人は神々をよびならわす時に、もっとも単純な記号に置き換えてそうする。そういう習性が非常に強くみられる。
 たとえば、稲荷大明神の御本家は、京都の伏見稲荷だけど、あの伏見稲荷に祀られている主要な神々は、三柱ある。第一の神さんが例のウカノミタマノオオカミで稲の神。二番目がサダヒコノオオカミ、三番目がオオミヤノメノオオカミである。これらをいちいちフルネームで表現するケースは非常に少ない

4 特定の場所に鎮座する神
 日本の神々を名づける場合に、特定の場所に結びつけて名づけるケースが、比較的由緒ある神、古い神々に多いという特徴がある。例えば、飛鳥に坐(いま)す神、・・・ここで坐るという字が用いられていることにご注意いただきたい。・・・というように、どこそこに坐すという言葉を使った神々が非常に多い。飛鳥に坐す神、出雲に坐す神、熊野に坐す神、山城国に坐す神・・・・だから例えば東京に坐す神というのも、これは原理的に可能である。昔の人々はそういう感覚で神を呼んでいたと思われる。

5 無限に分割可能な神
 日本の神には、いくらでも分割することが可能だという性格がある。あるいはそれは日本の神だけの問題ではないかも知れない。
 例えば、八幡神は宇佐の地から石清水、そして鶴ヶ岡へと分割され、細胞分裂するように勧請されていった。もちろん石清水に勧請される以前には奈良の東大寺に勧請され、そこにも八幡神がつくられているわけである。そういう本社宇佐の八幡、それから支店としての石清水や鶴ヶ岡、そこを今度は中心にして、同心円状に日本全国に勧請されていくわけである。分霊、分社が無限につくりだされていく。日本全国津々浦々どこにいても八幡社が鎮座していることになる。
 つまり、八幡神の生成発展をみている限り、どうも日本の神には細胞分裂していく傾向がある。

6 日本の神の畏怖(いふ)すべき性格
 日本の神は漂着性という性格を考えることができるのではないか、目にも止まらぬ速さでどこにでも漂着する神の性格のことである。この漂着性というのは、おそらく日本の神々のシャーマニスティックな性格と深い関わりがある。霊魂というのは、目にも止まらぬ速さでどこにでも飛んでいって漂着する、そういう性格を本来もっている。
 
 この六つの性格を統合するといったいどういう神の全体像が見えてくるか、というのが次の問題である。目に見えない、非常に身軽である、個性を持たない、肉体性を持たない、いつどこへでも特定の場所に飛んでいける漂着性。しかも無限に分裂してとどまるところを知らない。同時発生的に一つの神が別々の地域に、いつでも飛んでいって漂着する。これは考えれば考えるほど恐るべき性格ではないだろうか。こういう神の性格というのは、まことに畏怖すべき性格ではないかと思う。

 その結果として、「たたり」という現象が生じてくるのではないか。日本人における「たたり」信仰の問題であるが、これはお隣の韓国の怨霊信仰(おんりょうしんこう)とも関係があると思われる。しかしその場合、たたる霊、たたられる人について、違いがあるのではないか。これなども今後の検討課題である。

 日本的なたたりの感情・怨念というものは、一つの大きな勢力へと社会化されることがなかった。むしろ社会化することを回避するためにこそ、それぞれの時代の政治家たちは腐心し、そのためのさまざまな装置をつくりだしてきた。その代表的なものが神社であった。非業の死を遂げた英雄たちをみんなこの神社の奥殿に祀り上げてしまった。    
 
「夕焼小焼」と仏教                      宗教とたたり表題へ戻る
 韓国の仏教学者「李箕永」先生が「自分は日本人がとてもうらやましい。なぜなら、日本人の心の中に仏教が深く、広く浸透しているからだ」「え?どうして」すると先生は、「あなたがたは『夕焼小焼』という童謡を歌うでしょう。あの中に仏教の根本的精神が全部歌い込まれていますよ。」
                           
夕 焼 小 焼 (1) (2)

夕焼小焼で日が暮れて
山のお寺の鐘が鳴る
お手々つないで皆帰えろ
烏と一緒にかえりましょう

小供が帰った後からは
円い大きなお月様

子鳥が夢を見る頃は
空にはきらきら金の星
中村 雨紅 作詞    大正12年作
草川  信 作曲

 平安時代以来、歌人、詩人、家たちの作品に「夕焼け」の光景がどれほどうたわれ、また描かれてきたのであろうか。あるときそれがおびただしい数にのぼることに気が付いた。日本の画家たちがいかに夕焼けの光景を好んで描いているかを、ヨーロッパのルネッサンス以降の画家たちと比較したことがある。問題にならないほど日本の方が多い。ではなぜ我々日本人はこんなに夕焼け空に感動するのか。それにこだわり続けてきたのか。それは夕焼けの彼方に浄土をイメージしてきたからではないか。李先生は夕焼けの彼方に浄土あり、ということは一言もおっしゃってないけれども、落日の光景と浄土信仰の関連がピンときた。

 二行目の「山のお寺の鐘が鳴る」は日本の仏教がやがて山の仏教として定着したことを象徴する一句だと解釈した。奈良時代の仏教は都市仏教、学問仏教だったが、比叡山に最澄が天台宗を開き、空海が高野山で真言宗を開いた平安時代以降、仏教の真の土着化が始まったのだと思う。お坊さんたちが山に入って修行をするようなり、そこから新しい日本の仏教が展開して現在に至っているが、その山の仏教が、朝晩山頂で鐘を鳴らしていた。その鐘の音がやがて『平家物語』の冒頭に出てくる「諸行無常」を響かせるようになったのである。山のお寺で鳴らされる鐘の音を聞きながら、庶民は毎日の生活を送っていたのである。

 三行目の「お手々つないで皆帰えろ」は、ストレートに読むと、お日さまが沈む頃になったら子供たちはお母さんやお父さんのいるお家に帰りなさい、ということなのだろう。しかし、ここはもう少し別にメッセージを読みとることができるのではないだろうか。「人間本来、帰るべきところに帰れ」というメッセージである。

 最後の「烏と一緒にかえりましょう」は、帰るべきところに帰るのは人間だけではない、カラスも、小動物も、小鳥たちも一緒だということである。これこそがまさに共生の思想というものではないだろうか。最近はどこでも「共生」「共生」という言葉を聞く。人間と自然との共生、人間と動物との共生、人間と地球との共生・・・・共生、共生で世が明け、世が暮れている。だけど、そういう思想をもっと簡略な言葉で表現したのが、この「夕焼小焼」ではないかと思う。
 李先生のこうした発想は、外部の人間だからこそわかるのかも知れない。
 
この世とあの世を結ぶ鐘の音
 鐘の音に興味を持って、さまざまな鐘を集めている方の講演の一部を紹介する。
 日本の鐘は主として日本の仏教が生み出したものであり、鳴らすと「あっちへいこう」つまり「あの世へいこう」というように鳴るという。英語でいえば「gone gone」と鳴る。これは、鐘の音のゴーンと、英語のgone と引っ掛けたものである。それに対してヨーロッパの鐘の音はキリスト教が生み出したもので、「こっちへ来い」つまい「カーン、カーン、カーム(come)」と鳴り、現世に歩み寄っていなさいというふうに聞こえるという話である。
 「gone」と「come」を引っ掛けたジョークといってしまえばそれまでだが、この鐘の音の東西比較はなかなか含蓄があると思う。

 鐘の音というのは、この世とあの世を結びつける音、あるいは地上の人間世界と宇宙世界との間をつなぐ音だと思う。そして、それは太鼓の音と異質のものである。太鼓の音は宇宙の背後まで突き抜けるような性質は持っていない。
 秩父では、12月3日に秩父の夜祭りという有名な祭りが行われる。秩父の夜祭りは大きな山車がたくさん出るが、その山車の下の方からものすごい太鼓の音がする。それが夜祭りの大きな魅力になっている。太鼓の音が闇の中で繰り広げられる祭り全体は、地の底から聞こえてくるリズムの祭りのように聞こえる。
          山折 哲雄著「宗教の力」 PHP新書 1999年3月8日
 
 
野田成亮の山岳行脚                   宗教とたたり表題へ戻る
 江戸時代の文化文政年間に書かれた旅日記、「日本九峰修業日記」というのが歴史の研究者に注目されているようである。
 この旅日記は多くの山名が記載されている。作者は野田泉光院成亮という九州日向国の山伏である。作者は旅日記を「修業日記」と題したように、修業、参詣の宗教的目的をもって回国した。登山もこの宗教的目的の下におこなわれた。この点野田成亮の登山は、私達の行うものとは性格が異なる。しかし、野田成亮は、回国修業の登山によって当時として一流の登山家になったと考えられている。

野田成亮の日本九峰とは
 @ 英彦山
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だと泉光院はいう。しかし、九峰修業の旅で、彼はもっと多くの山に登拝した。九峰以外の主な遍歴の山を列記する。
 九州・・阿蘇山 太郎岳(多良岳)黒髪山 求菩提山(くぼてやま) 
 山陰・・妙見山 大江山 三滝山(三岳山) 
 山陽・・後山 瑜伽(ゆか)山
 近畿・・比叡山 朝熊(あさま)山 愛宕山
 北陸・・白山 石動山 立山 
 東海・・光明山 秋葉山
 信越・・浅間山 米山   
 関東・・行道山 中ノ岳(妙義) 八溝山 加波・足尾山 筑波山 鹿野(かのう)山
 奥羽・・月山 鳥海山 金華山 水晶山
2006年3月1日から
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