山岳信仰 2006年6月11日更新 |
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山岳信仰とは、山を崇め奉る信仰である。基本的には山や、山にある大木、巨大な岩を信仰母体とすることが多い。
山岳信仰の始まり 山岳信仰は縄文時代に狩りの獲物をもたらし、家屋の材料や燃料を与えてくれるのは山であるから、縄文人が山に対する感謝と畏敬の念をもっていたことから始まり、山を神として崇拝し、一方で恐れるということは、農耕の伝播以降に始まったと考えられる。 山に対する信仰の基本は、豊かな収穫を祈ることにあったから、山の神は実際には田の神であった。山の神が農作業の時期に山から降りてきて田の神になるというところも少なくなかった。
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瓶ケ森(2002.10) |
琵琶湖の南には太神山(たなかみやま)(600メートル)という山があり、田上山地の最高峰となっているが、これなど文字通り山が田の神であったことを示しているといえよう。
宗教民俗学者の堀一郎は、わが国における山岳信仰の始まりを火山系、水分(みくまり)系、葬所系の三つの型に分けて考えている。 火山系とは火山が噴火し、爆発することに人間が畏怖の念を抱いたことに起源するものである。激しく活動する火山の姿は、それだけでも何か超自然的な力の存在を感じさせる。噴火の原因やメカニズムを知っている私たちですらそうなのであるから、当時、火山そばに住んでいた人たちが火山を崇拝するようになるのはごく自然ななりゆきといえよう。
水分系というのは、分水嶺即ち水源の山に対する信仰である。農耕を営む人々にとっては山は生命の源であり、かつ水害を引き起こす脅威でもあった。こうした山に対する感謝の念と畏敬の念が山岳信仰を発生させてのである。 葬所系というのは、人が死ぬとその霊は高いところに行くという考えから出てきたものである。山は霊の棲む場所とされ、さらに使者を葬る場所にもなったことから祖霊の居場所ともなり、人が最期の還っていく場所ともみなされるようになった。 各地の著名な山岳信仰はこの分類の何れかにあてはまるといえる。
小泉 武栄著「登山の誕生」中央公論新社刊 2001年6月25日 宗教と信仰の違い 山岳信仰概要の表題へ戻る 梶村 昇 著 「日本人の信仰」 中央公論社 1988年8月25日
宗教は我々が生まれる前から好むと好まざるとに関わらず、現在ここにあるのである。 宗教という言葉自体は”RiIigion”の訳語として明治以降に使われ始めたのであり、これを研究する宗教学や宗教哲学は、ヨーロッパのキリスト教国で始まったものである。だからヨーロッパ人の宗教に関する定義は、「宗教とはキリスト教及びこれに類似するものである」ということになってしまう。
「仏教は宗教に非ず」とも言い得ようし、「神道は宗教に非ず」とも言い得よう。しかしたとえキリスト教嫌いの者でも「キリスト教は宗教に非ず」とは言っていないのである。ヨーロッパ人はキリスト教だけが宗教になってしまう。 一方、日本の場合は幸いにして宗教博物館のような国である。 日本人のうち、宗教嫌いの者に完全な食わず嫌いは稀で多少は食いかじった上での嫌いなのだから話はしやすい。生まれてから死ぬまでの間に、誰しも何度かは宗教的な環境に入らされるのである。
現在は江戸時代のような宗門改めはなく、信教は自由である。そこには信じない自由もあり、宗教生活を一切拒否することもできる。 ほとんどの人は産婦人科の病室で生まれ落ちて青年期には、異性と婚姻届けに署名捺印して届け出て結婚生活に入り、死んだら公営の火葬場で焼いてもらって、公営墓地に葬ってもらえば宗教と無縁で一生を終わる。
農村や漁村のような地域社会の結合が強く、社会慣習の拘束力の強い土地では、実際問題として実行困難かも知れないが、隣同志がお互いに顔も知らないような都会生活では、できないこともないだろう。しかし、実際問題として、完全に宗教生活と絶縁をして生活している人は、ほとんど皆無に近いだろう。 神社は祭のためのもの
神が祀られるのは神社であるが、著名な神社は別として、大部分の神社は、誰一人として人影が見えず子供の遊び場ぐらいになっている。これは祭り以外の時は神がおられないのであって、神社はあき家なのである。神は祭りの時だけ神社に迎えられる。では神社はふだんはどこに居られるのか。
それはトコヨにちがいないが、その位置にはいろいろな説がある。山の上という説と天という説は関係があり、天の場合には山を依坐と考えるのである。その他に海の彼方という説もある。その神社ごとに伝承があっていちがいには言えないのである。 柳田説によると、伊勢神宮なども神は常在せず、神迎えが行われていたらしい。神社参拝はそのつど神を迎える臨時祭に相当するものである。
人は平野、神は山
山といっても奥深い山ではない。農民が平野に住んでいて、朝、雨戸をあけると先ず目に映るような山である。関東平野の西郊、関東山脈のとっつきにある、青梅や五日市付近ではどこの山にも神が祀られているが、多摩川や秋川の上流の方に入ると高い山にも神は祀られていない。日本アルプスの奥深い山にも神は祀られていない。平野からとっつきの山で目に立つものはどうしても火山の方が多い。今日、汽車で旅をして、あれは何山ですかと目につくような山には地方神が祀られて信仰の中心になっている。
有名なところでは、 ・岩木山 岩木神社
・鳥海山 大物忌神社
・月 山 月山(がっさん)神社
・日光山 二荒(ふたら)山神社
・筑波山 筑波山神社
・富士山 浅間(せんげん)神社
・立 山 雄山(おやま)神社
・白 山 白山比め(しらやまひめ)神社
・比叡山 日吉(ひえ)神社
・大 山 大神山(おおみわやま)神社
・石槌山 石槌(いしづち)神社
・彦 山 英彦山(ひこさん)神社
・阿蘇山 阿蘇神社
・霧島山 霧島神社
などがある。しかし小さな山でも厚い崇敬の対象になっている所もあり、豪族の墓にしたのは、人工で山を築いて霊のおくつきをこしらえたものであろう。
山が高い場合には、その山の神を麓に迎え里で祭を行う。これが一般的な形であるが、山が小さかったり、山とは名ばかりの森であったりする場合は、直接その場が祭の場になり、神社の社殿が設けられているが、それでも別にお仮屋を設け、神輿で神はそこにおいでになって、ここで祭の行事が営まれる。 小池 長之著「日本の宗教史」学芸図書(株)1963.8.8 神と、仏の違いは? 山岳信仰概要の表題へ戻る 神は、神社の祭神で、信仰の対象となる尊いものとなって居るが、日本では、天皇や、その県の昔の大名、その他、山の神、田の神、七福人などがある。又、有名人なども、神の本尊として、神社に祭られて居る。 仏は、悟りを開いた人、ブッダとなっており、仏様(大日如来)の仏法を悟り、感謝と慈悲があり、三業が三密になった人(即身成仏)をいう。 三業とは、一、身業(他をかえりみず自己の欲望を高め様とする心)二、口業(相手をだます事は、自分をだます事になる)三、意業(人をいやがる心、憎む心、人を嫌う心をいう)。 三密とは、一、身密(仏様と一体となり仏様の姿になる事で手に印を結ぶ)二、口密(仏様と一体で話をする事、すなわち仏様の言葉となる事で仏様の真言を唱える)三、意密(仏様の心になる事で大日如来を心に念ずる、すなわち相手に対し慈悲を持つ事) 御利益面からは、神様が生きている現世の願い事を祈願することに対して、仏様は他界してから極楽浄土に行くことを祈願することのようだ。その証拠に神様に対して極楽浄土を祈願する人はいないと思う。 形の面(信仰の対象)からみれば、神様が形のない紙に書いたものを信仰の象徴とすることに対して、仏様は文字どおり仏像を信仰の対象として拝むのである。 |