山岳信仰 山と神 2006年6月11日更新 |
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山は、日本人の生活に深く結ばれていた。山の信仰が生まれ、説話が生まれ、文学と歴史が生まれたのは、そのためであった。日本における山の信仰が、特色ある内容をもつがゆえに、欧米人のまなこをみはらせたことがある。
たとえば、1878(明治11)年7月3日、日光の男体山に登ったアメリカの生物学者モースは、この山の頂上に祀られた神社があるのに瞠目し、さっそく得意のスケッチに描くとともに、その著「日本その日その日」のなかで次のように記した。 聞くところによると、日本の高山の全部とまでは行かずとも、殆んどすべてには、神社があるそうである。驚くべき意想であり、彼等の宗教に対する帰依である。8月にはかかる場所へ、日の出とともに祈祷をささげんとする人々が、何千人と集まる。その中には難苦を堪え忍んで、何千哩の旅をする者も多い。私は我々の宗教的修業で、メソディストの幕営集合以外、これに比すべきものは何も思い出せない。
山の頂上に神社があり、そこへ何千人という巡礼者や修行者が集まってくるということは、モースにとって大変な驚きであったことが察せられる。
また、1893(明治26)年の夏、立山の頂上にある雄山神社の社前で行われた敬虔な宗教的儀礼をみた時の、英人ウェストンの驚きも、同様であった。彼の著「日本アルプス−登山と探検−」は次のように記す。
頂上近くには、疲労者が登り易いようにと、鉄の鎖が二つ三つ一番険しい岩々にぶら下がっている。鋭い岩の円錐形山頂には、絵のような朱塗の社が、あたりを睥睨(へいげい)して、最高点を示している。この素晴らしい景色を眺めようとしていると、この聖山の守り役をしている神主に連れられた巡礼者の一行が登って来るのが見えた。神主はいかにも形式張って、その社の前にかけられた鷲の羽の組み合わせ模様が、金で染めてある真紅の錦欄の幕を開いた。それから彼は扉を開け、かずかずの霊宝をとりだし、不思議そうに眺めている巡礼者に見せた。
ウェストンが19世紀の末に目撃した立山山頂の宗教儀礼は、20世紀後半のいまも変わることなく行われている。
しかし、標高3000メートルの高山の頂上において、人と自然との結びつきがあやなす特殊な儀礼をもつ山の信仰は、もともとどのような内容をふくみ、どのような経過によって形成されたのであろうか。こうした観点から、日本古代における山岳信仰の位相を史学の立場から究明してみたい。
日本は、その面積三十七万平方キロメートルに過ぎない狭い面積であるにもかかわらず、やまがちの国土である。どこへ行っても、山の見えないところはない。しかも山の高度は、相当に高い。
日本の代表的なひとつである富士山は、その高さ3776メートルにおよび、その優美な姿をもって、町や村を見下ろしている。このような山及び山地が占める面積は、国全体の76%に達する。そして平野は、山および山地にへだてられながら、各地に散在するにすぎない。
このような地形・地質の特性を反映して、日本の湖は、火山の活動によって生じたものが多いという。そして火山のなかには、いまも濛々(もうもう)たる煙を吐いてやまぬ活火山がある。桜島・阿蘇・浅間・立山などがそれである。高度の高い山地に源を発する河川は、比較的狭い平野を貫き流れて海にそそぐ。したがって急流をなすものが多い。このように考えてくると、山または山地の状況こそ、日本の地形を特色づけているのであって、日本はまた山国であるということができる。 しかし山という山地が特色づけるのは、単に地形ばかりではない。気象も当然、山と山地の影響を受ける。気象ばかりでもない。日本に住む人々の思想や文化の発達の仕方、あるいは日本人の宗教生活にも、山と山地が関連しなかったとはいえないのではないか。現に日本の小学校や中学校の校歌にして、その土地の山を讃美していないものはほとんどない。 国民は、山を仰ぎ、山に親しんで育ったといっても過言ではない。日本の和歌や俳句や絵画の分野に、山がとりあつかわれなかった時代はない。山と山地の多い自然環境の中に生をうけ、やがては再びそうした自然の中へ帰入していった人々にとって、それは当然の結果であったのかも知れない。 山を仰ぎ、山を望んで、人々は何を考えたか。山に対し、山に入って、人々は何を思ったか。山に関し、山について人々は何を信じたか。 山の思念や山の信仰は、ときとところによって異なり、人によっても違ったのかも知れない。けれども、なかんずく時代よって異なるところがあるに違いない。
しかるに、民間信仰としての山岳意識を考える場合、古代の山岳信仰や固有の山の神の信仰に対する仏教や儒教や道教の影響、またそうした諸要素を包含しながら成立する修験道を通じて、その複雑な内容を探っても、容易に解明しうるものではない、と思われるが、あえてその解明を試みることに意義がある。 山の神は山に宿る神のことである。木樵、猟師、木地師、鋳物師など山民が信仰する山の神は、山の動植物、鉱物を支配し、山民の生業にたいし恵ともたらす神である。生業に種により神徳が異なり、神のまつり方も違う。山の神が女性であったという伝承は、北から南にかけ国土山地に広く分布する。必ずしも女性と考えなかった土地もあるが、女神であるとするのが圧倒的に多い。
農耕民の信仰する山の神は、農神である。多くの地方で、山の神は年々歳々山と里のあいだを去来するという了解があった。すなわち、山の神は春に山から里に下り、田の神となって稲作と守り、秋には収穫をもたらして山に帰り、また山の神になる。このことにもとづいて日本の祭りの主要な部分がかたちづくられている。 山の口および山中には山の神の祭場がある。猟師や木樵は山中随所に山の神を祭ることがあった。だから、私たちは一回の登山で数カ所の山の神祭場を通り過ぎることも間々ある。それらはだいたい、大木(枝振りが尋常でない木)、岩、小祠、石塔などによるささやかなものである。 一方、「山の神」といえば、男性が自分の妻のこと、特に結婚後、年を経てから口やかましくなった女房を指して人に話す代名詞にも使われている。 しかし、もとの意味は、山を支配する守護神のことである。 日本語大辞典によれば、この二つの結びつきについて次のように記されている。 1 恐ろしいものの代表としての山の神。その神が山ばばであるということから。 2 多くの神は女性だから。また、山ばばの子育て伝説などで、山との関係が深かった。 3 女の取り乱した姿が山の神に似ている。 4 人の妻を指す敬称としてカミサマ(上様)と言う。これを「神様」としゃれ、これを「山の神」とした。 5 農村では山の神をまつるのは女性がつかさどっていた。 6 山の神は女神であり、山全体の主導権を握っていた。 7 醜女のイワナガ姫が姫の山の神の一員であったという「古事記」による。 「定本柳田国男集」巻四 光書房 堀田吉雄著「山の神信仰の研究」光書房
日本山岳ルーツ大辞典 日本語大辞典山の神という言葉 「古事記」には山の神ということばが四回出ている。 第一は、神々の生成のく だりに「次に山の神、名は大山津見の神を生みたまひ」とある。 第二は倭建(やまとたける) 命(のみこと)の西征を叙した最後に、「山の神河の神また宍戸の神をみな言向けし和してまい上りたまひき」とある。
第三は「同じく倭建命の東征を叙したところに、かれここに御合したまひて、その御刀の草薙の剣を、その美夜受比売(みやずひめ)のもとに置きて、伊服岐の山の神を取りに幸でましき」とあるのである。 第四は、神功皇后の条に、「今まことにその国を求と思ほさば、天つ神地(くに)つ神、また山の神海河の神たちまでに、ことごとに幣奉(ぬさたて)り、我が御魂を御船の上にませて、真木の灰を瓢(ひさご)に納(い)れ、また箸と葉盤(ひらで)とを多(さわ)に作りて、皆々大海に散らし浮 けて、度(わた)りますべし」たあるのがそれである。 神は山だけでなく、峠にもあると考えられた。峠の神は、旅行者の安全を守る神とされたらしく、「万葉集」の、周防なる磐国山を越えむる日は手向(たむけ)よくせよ荒しその道(567)という歌は、旅の安全のために峠の神に手向をよくせよといったものと解されている。 高瀬 重雄著「古代山岳信仰の史的考察」名著出版 1989年8月30日 岩木山のお山参詣 山と神表題へ戻る この国土に人の信仰に関わる山で、霊山といわれる山は奥羽から九州にわたって満遍なく点在し、その数は351座におよぶという。今後山岳宗教の研究が進めば、またあらたに霊山が発見され、その総数は増えていくものと思われる。
山々の高さは富士山を筆頭に、300メートルそこそこの山も含まれており、信仰に関して山の高さは問題でないことが明らかである。
この中で、生き生きとした信仰活動が現在も続いている山は、ほんの一握りで、大多数の山において、信仰は影が薄くなってしまった。しかしどの山も、長い歳月の間、さまざまな人達と関わりをもってきたのである。
信仰の山の多さをとるだけでも、山の信仰が広汎なものであったことが分かるが、山を信仰した人達も多岐にわたる。 直接山によって暮らした山の民、山の周辺の地元農漁民、講や教団に属した人達、あるいは聖(ひじり)、山伏、御師といった専門の宗教者など、その流れは次から次へと山の信仰を生み出し、山岳信仰時代は途方もなく長いものになった。
山岳信仰は、入山のうえ直接に神々と交信するという実践面を伴っていた。ところが、入山には精進が不可欠で、また女性は入れさせないとする制限付きであったけれど、人はさかんに登拝を繰り返し、また山での修行に勤めた。
しかし山での実践的行為のみが山岳信仰ではない。つまり、人々の日々の暮らし、一年一年の暮らし、人の一生が、山を信仰しなければならない事情を生じさせていた。 また山の宗教者のうちには、山林修行を通じて自らの宗教的目的を達成する者もいたが、多くは世俗に交わり、山で獲得した超自然力を駆使して、呪術的な宗教活動をおこなった。
このような人々の生きざまこそが山岳信仰にとって大事であり、人々の生きざまを規定する時代的背景も山岳信仰のあり方と深い関係にある。
また、山岳信仰は多彩な文化を生み出していった。信仰を携えて民間を遊行した人達は、また文化の運搬者として重要なはたらきをした。山の文化は広く深く人々のなかに浸透し、日本文化の形成に大きな影響を与え続けた。
以上のように、山岳信仰は山を頂点としつつも、裾が広くひとくちに山岳信仰といっても、これに一つの枠組みを設定することは不可能である。
吉村 迪(すすむ)「信仰の山」東京新聞出版局1995年4月8日
私が、山を舞台とした山岳信仰に興味と関心をもったのは、これでよいという限度がなく、その理解が決して生易しいものではない、ということである。だからといって、山岳信仰は遠く離れたものではなく、身近に点在し、山を一歩一歩踏みしめながら、先人の霊を肌に感じるのである。 先人の足取りを追い、山岳信仰を理解することは、山歩きを愛する人々が一度は試みなければならない、山への大事な礼儀かもしれない。
「山岳信仰を知らずして、山に入る事なかれ。」私にはそのような叫び声が、山を歩く度に山の大地から聞こえるような気がする。
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