日付は 新しい日記 が下に続いていく構成です
■東京銭湯1010軒
【2006.3.31】
東京の銭湯の数が1010軒をきりそうになっている。3月に入って北区の大黒湯、足立区の宝湯、墨田区の第二長生湯、大田区の朝日温泉が廃業して、銭湯マップ2002が発刊された平成14年6月には1186軒あった都内の銭湯の数が1011軒となった。セントウにちなんだ数字、「1010」をきるのも時間の問題だ。

約4年間で175軒の廃業だから、年間40軒以上、週に1軒近いペースということになる。でも、まだ1000軒以上あるのだから、このままのペースで廃業が進んでも20-25年ぐらいはなくならない?

むかし、寄席が東京の至る所にあった(160軒以上?)らしいが、大正時代に映画が登場してからというもの、ものすごい勢いで寄席の数が減少していった。ちなみに日活(日本活動写真株式会社)が創設されたのが大正元年、松竹(大谷竹次郎が兄白井松次郎と作った松竹(まつたけ)合名会社)が大正9年で、昭和に入って大映(大都映画→大日本映画製作株式会社)、東宝(東京宝塚劇場)、東映(東京映画配給)などが次々と設立されていった、らしい。[映画会社の名前の起源を調べ始めたら、すっかりはまってしまった!、けっこう意外でおもしろいよ。「松竹」が人の名前由来とは驚いた。松竹とくれば梅と続きたくなるのに、松竹で終わっているのがちょっと不満だった。]

ところが大正12年の関東大震災で、ほかならぬ寄席の建物も大打撃を受け、多くの寄席がこれを契機に廃業してしまったという。それで、というわけではないが、今、関東大震災ほどの大地震が東京を襲ったら、間違いなく多くの銭湯も破壊されてしまうのではと考えると、そのことばかりが心配でならない(銭湯の建物どころか、自分の命も危ないが・・・)。そして、少なくとも宮造りの銭湯が、それ以後に再建されることはおそらくないだろう。20-25年以内には、地震、来ると思うし・・・。そのときが東京銭湯の終焉か?そう思うと、写真を撮る手にも気合がはいってしまうのです(記録を残しておかなければ、と・・・。ちょっと、大げさかな)。

で、話を戻すと、(つかささんの)メーリングリストの情報によると、早くも3月末に墨田区の弁天湯と繁の湯が廃業する模様で、水面下ではもはや1010軒をきってしまっている様子。それにしても「墨田区2」エリアの廃業ペースは19軒中8軒とやたらと速いなあ(「墨田区1、3」も4軒づつ)。ちなみに東京銭湯外観写真が1010軒(入浴済みは4分の1強)、達成。[つかささんのいうロスタイム(すでに廃業したところのもの)も含まれているので、あと、67軒あり。]

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■船橋ヘルスセンター
【2006.5.3】
「時はさかのぼって昭和30年代。東京湾に湧き出た温泉を中心にした「船橋ヘルスセンター」という一大娯楽施設がありました。現在の「TOKYO-BAYららぽーと」(以下ららぽーと)の前身です。ローマ風呂と呼ばれた巨大温泉、舞台付きの宴会場、人工ビーチ、劇場、ゴルフ場、ボーリング場、美術館、遊園地、水上スキー、卓球場、商店街、宿泊施設、ローラースケート場、アイススケート場、サーキット場、人口芝スキー場、野球場、テニスコート、遊覧船、遊覧飛行機用の飛行場…、施設名を上げるだけでもきりがありません。当時「娯楽の殿堂」と謳われた日々の様子をご想像いただけるでしょうか。地元はもとより、東京や近郊からも人が押し寄せ、ピーク時は年間400万の人でにぎわっていました。」(ららぽーと誕生物語:三井不動産株式会社より引用)
http://www.mitsuifudosan.co.jp/home/aboutus/inside/02/index02.html
http://www.mitsuifudosan.co.jp/home/aboutus/inside/02/map.html
http://www.lalaport.co.jp/cg/history.html

というわけで、ららぽーとは昔は船橋ヘルスセンターだったのでした。何と船橋市が埋立地でガス採掘を行ったら温泉が湧出(昭和27年)、朝日土地興業(株)という会社を作って事業承継したというから驚き。昭和30年2月に船橋ヘルスセンターをオープンさせ、娯楽の殿堂として一世を風靡した。

しかし、昭和40年代に入ってからは業績が低迷して、昭和45年に三井不動産(株)と合併、(株)船橋ヘルスセンターを設立(三井不動産100%出資)して船橋ヘルスセンター事業のテコ入れをしたものの引き続き低迷。 さらに昭和46年には湾岸道路着工により、敷地が分断されたばかりでなく、地盤沈下防止のため天然ガス(温泉源)採掘禁止となり、昭和52年5月にとうとう船橋ヘルスセンターは閉鎖となった。

その後、約4年にわたる試行錯誤の準備期間、1年半の建築期間を経て、昭和56年4月2日「船橋ショッピングセンターららぽーと」として再出発したとのことだ。ショッピングセンター「ららぽーと1」は2003年3月にリニューアルオープンの運びとなったが、最初の「ららぽーと」のほうが、雰囲気があってなかなかすばらしい。こんなスケート場なら行ってみたかったという感じ。
http://www.mitsuifudosan.co.jp/home/aboutus/inside/02/popup02.html

現在の「TOKYO-BAYららぽーと」の年間来場者数は東京ディズニーランドを上回る2,200万人だとか。三井不動産が「TOKYO−BAYららぽーと」の隣接地に、平成13年6月2日(土)午前10時にオープンさせた温浴施設「ららぽーとの湯 常盤殿」に、そんなことを考えながら入湯したのだった。
http://www.gardenhotels.co.jp/tokiwaden/top.html
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■神道と神社のこと(1)〜東照宮前半
【2006.5.26】
「レトロだから神社・仏閣」、そういう単純なものでもなかった。
古いものに興味はあるものの、神社のこととか宗教のこととか、まったく解っていなかった。しかし、銭湯めぐりで東京中を歩いていたり、行く先々で何となく神社・仏閣にお参りするうちに、不思議に思うことが多々あった。

(1) 東照宮って、結構あちこちにあるのはどういうわけ?
高輪の増上寺あたりを散歩していたら、芝東照宮というのに出くわした。東照宮は日光東照宮だけだと思っていたので、意外に思った(無知?)。でも、この増上寺と上野の寛永寺が徳川家の菩提寺で、歴代の徳川将軍のお墓がこの2つのお寺のどちらかに造られていたことは知っていたから、そんなもんかと思った。

ひょんなことから放浪画家、裸の大将と謳われる山下清のリトグラフ「上野の東照宮」(これは現在、我が家の玄関に飾られているが、詳細は省略)に出会い、上野にも東照宮があることを知る。こちらは寛永寺のそばだから、なるほどと思った(上野の森の一角に、日光東照宮のミニチュアのような結構立派な社殿と五重の塔が今も残されている)。

「金沢の兼六園」、「岡山の後楽園」は行ったことがあったので、何とか「水戸の偕楽園」に行きたくて、先日、日帰りで当地を訪れて願いを達成。ついでに水戸の町を散策したら、水戸駅から至近の小高い丘の上に水戸東照宮があるではないか。徳川の御三家のお膝元だから当然か?と思う。しかし、となると紀州と尾張にもあるのだろうか?(と、自分にとっては「どうでもいいのに」気になってしまう。)

続いて先日、船橋ヘルスセンターの跡地に造られた湯処「ららぽーと常盤殿」を訪れたときのこと。パンフレットを読んでいたら、「船橋にはむかし徳川家康が鷹狩りの際に宿泊した船橋御殿があり、船橋大神宮の中に家康を祀った常盤神社があった。それにちなんで常盤殿と命名された。」と書いてあった。そしてどうやらその常盤神社こそ船橋東照宮と言われていたようで、今でも小さな祠が現存しているらしい。

こうなるともう東照宮について調べないわけには行かなくなって、既に絶版になっている、「家康公と全国の東照宮―泰平と激動の時代を結ぶ東照宮めぐり」(高藤 晴俊 著、1992年、 東京美術社刊 )の中古本を、やっとの思いで手に入れた(Amazonのマーケットプレイス、ユーズド商品、原価より高かった)。このほかに全国東照宮連合会のホームページの中に同会加盟神社リスト(45の東照宮が載っている)なども発見。

まずは紀州東照宮と名古屋東照宮、当然のごとく実在。また、武蔵国の総社、府中の大國魂神社内にも東照宮があるし、川越の喜多院の中に造られた仙波東照宮は日本三大東照宮の一つだ。これらの東照宮の所以は、静岡県の久能山(久能山東照宮)に一旦葬られた家康公の遺骸が、遺言に従って日光に移葬すされた際、宿泊地となった地ということらしい。

このほか、船橋の東照宮のように鷹狩りのときに利用された御殿跡に建てられた東照宮なども珍しいものではないようだ。さらに江戸城内、親藩、譜代・外様大名の領地はもちろん、社寺境内や天領に勧請されたもの、一般民衆によって祀られた東照宮などもあり、その数何と全国で550社にも及ぶらしい。だから犬も歩けば・・・のようにあちこちで東照宮に遭遇するのだな。

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■神道と神社のこと(2)〜東照宮後半
【2006.5.26】
徳川家康は死後に神になろうと考えていたらしい。そもそも家康は陰陽五行思想を信奉していたようで、この考えに従って江戸の町も造られた。

まず、江戸城の場所を決めるときには、五神相応の地相を選んだ。すなわち、東に川が流れ(蒼竜)、西に大きな道があり(白虎)、南が窪み(朱雀:鳳凰)、北に丘があり(玄武:亀に蛇が巻きついた形の動物)、中央が平坦な場所(黄竜)を選んだのである(原型となる四方の守護神の慣わしは、奈良県明日香村のキトラ古墳などにも見られる)。また、江戸城の鬼門(北東)と裏鬼門(南西)に神田明神と山王神社を配して邪気の進入を封印した。さらに、「五行」に対応する「五色」(青、赤、黄、白、黒)の不動を江戸の町に配したりもしていた(ただし、これら不動のあった場所は、必ずしも「五方」である東、南、中央、西、北に相応していないけれど)。

陰陽道とは、自然界の万物は陰と陽の二気から生ずるとする陰陽思想と、万物は木・火・土・金・水の五行からなるとする五行思想が合わさったもので、古くは紀元前500年の中国に端を発しているようだ。特に五行について言えば、夏の国の聖王・禹が、洛水からはい上ってきた一ぴきの亀の甲羅に書かれた文様(洛書)から五という数を悟ったのが始まりらしい。

また、古代の中国では、真北の天空に変わることなく輝き続ける不動の星・北極星こそが宇宙の中心であると考えられ、宇宙を主宰する神の宮殿であると信じられていたという。驚くことに、日光東照宮の北辰の門・陽明門のちょうど真上に北極星が輝いており、星々がこれを巡っている。そして日光という地自体が江戸の真北に位置しているのである。

さらに久能山(東照宮)、富士山(不死の山)、上州世良田(徳川家遠祖の地、東照宮あり)、日光が北北東に向かって1直線状に並び、久能山(東照宮)、駿府城(家康公薨去)、鳳来山(御大の方が子宝祈願した場所、東照宮あり)、岡崎(家康公生誕、東照宮あり)、比叡山(東照宮あり)・日枝神社(山王神道)が東西1直線状に並んでいる。

家康は東から世界を照らす東の天照大神となって、宇宙の中心北極星の位置に鎮座しているのだ。

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■神道と神社のこと(3)〜社格について
【2006.6.1】
神社と一言でいっても様々な神社がある。東照宮などはもっとも新しい類の神社にはいるわけで、それ以外の神社はいったいどうなっているのか。

東照宮にかぎらず、天満宮やら八幡宮など、宮とつく神社が全国にあるし、稲荷神社などもあちこちにある。また、古来より神社は格付けのようなものが為されていたようで、その辺のところを掘り下げてみなければ良く解らないようだ。

ど〜んと話が古代に飛んで、まず「延喜式」のこと。延喜式とは延喜格式とも呼ばれることがあって、要するに古代の延喜という年号のころに制定された法律のことで、この中に神社のことについても細かく規定されているのだ。
そもそも古代の社会制度は「律令制」と呼ばれていたわけだが(よく耳にすることば)、刑法にあたるものが「律」、行政法などが「令(りょう)」、令の追加にあたるのが「格(きゃく)」で、法律の施行細則が「式」というわけで、「律令格式」と呼ばれるらしい。初めて令ができたのが、天智8年(668年)、次が持統3年(689年)、そして律令が完成したのが大宝元年(701年)で(「大宝律令」ということばも有名だ)、大宝律令を国内情勢に合うように手直ししたのが養老律令(養老2年、718年)という。さらにその律令を修正した格と、施行細則の式が次々と定められ、弘仁格式(弘仁10年、819年)、貞観格式(貞観13年、871年)、延喜格式(延喜格は延喜8年、908年、延喜式は健保4年、967年)が作られ、3つまとめて三大格式と呼ばれる。

その延喜式は全50巻(3300条)からなり、1巻から10巻までに神祇関連のことが規定されており(神祇式という)、その中で祭祀に関すること、使用する備品、幣帛(へいはく、帛は布の意味)の内容などが記載されている。特に9巻、10巻は全国の2861社(3132座の神)の神社をリストアップした「神明帳」というものになっている。ただし、国家が公認して幣帛を奉った神社についてのことで、当時の神社のすべてが記載されているわけではない。例えば当時、独自の勢力を持っていた熊野那智大社や、僧侶が管理をしていた石清水八幡宮などは含まれていない。「延喜式」に記載されている神社を「式内社」といい、それ以外の神社を「式外社」という

式内社はさらに官幣社と国幣社、大社と小社に分けられている。官幣社(573社737座)は中央の神祇官から直接奉幣が行われる神社で、国幣社は地方の国司が神祇官にかわって奉幣を行う神社のことで、多くは畿内から遠くにある神社がこれに当たる。神社の重要度や社勢によって官幣社・国幣社ともにさらに大社(353社492座)と小社に分けられた。また、明神を祀っている神社を明神大社(224社310座)として別記したが、明神は古来より霊験が著しく、臨時祭にあずかる神社とほぼ一致する。

地方にあっては国司が職務として管内の神社を祭るとき、はじめに回る神社を一の宮とし、さらに二の宮、三の宮というように管内の神社を格付けしていたが、後には一の宮だけを回るようになり、管内諸社を国府近くに合祭して総社と称し、これに神拝することですませるようになったとのこと。

以上が古代における神社の社格の概略だが、明治維新後に明治政府によって古代の延喜式の制度に習って新たに近代社格制度が作られた。皇室より幣帛が渡される神社として官幣社を置き、国より幣帛が渡される神社として国幣社を定め、このほかに国に貢献した人物が祭られる神社を別格官幣社、上記以外の神社を無格社としてまとめた。官国弊社はさらに大・中・小社に分類して格付けされた。

この公的な社格制度も第二次大戦後に廃止され、基本的には伊勢神宮を除く全ての神社は対等の立場であるとされた。しかし、神社本庁(全国約80000社の神社から組織される宗教法人の連合会)は宮司や権宮司などの「役職員進退に関する規程」において特別な扱いをする神社を定め、それを同規程の別表として記載した。「別表に掲げる神社」という意味から別表神社(2006年現在で353社)と呼ばれ、これらは社殿、境内、神職の数など比較的大きな規模の神社なので、一種の格付けとして捉えられているということだ。
http://www.jinjahoncho.or.jp/

付記:勧請されて全国に分祀されているご本家の神社(分祀数)は、稲荷神社(32,000)、八幡神社(25,000)、伊勢(神明・天祖)(18,000)、天満宮(天神)(10,000)、大山祇(三嶋)神社(10,000)、宗像(厳島)神社(8,000)、諏訪神社(5,000)、日吉(日枝・山王)神社(5,000)、熊野神社(3,000)、そのほか、津島(天王・八雲) (3,000)、春日(3,000)[ここまでが同数10位を含む上位10社だが、これ以降に続く神社(特に1000社以上分祀のある神社)も壮々たる顔ぶれの神社ばかりで、数だけが神社の大きさを示すものではないのは確かだ。]、白山(2,700)、八坂(祇園)(2,700)、熱田(2,000)、住吉(2,000)、出雲(1,300)、浅間(1,300)、松尾(1,200)、鹿島(900)・香取(450)、愛宕(800)、秋葉(800)、金比羅(琴平)(680)、多賀(300)、貴船(260)、氷川(227)、東照宮(現在100?)などの神社がある。

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■神道と神社のこと(4)〜神道について
【2006.6.15】
というわけで、いよいよ「神道について」なのだけれど、いろいろ調べすぎてちょっとお疲れという感じがないでもないか。

ここで読んでみた本は:
「知っているようで知らない!日本神道〜日本人の思考と美意識・倫理の原点を探る」、本田総一郎著、2006年3月25日第1刷、日本文芸社。

いくつかの文章を抜挙すると・・・
古来日本人は
自然を神と仰いで祭り、これを畏敬してきた(コメント:インデアンなんかもそうだよな)。日本固有の民族宗教である神道は、自然を媒介として神と人が結ばれた信仰である。・・・緑の樹林が繁茂する森や山を神々の鎮まる「神奈備山」あるいは「神体山」と仰ぎ、また樹林を神々が降臨し依り給う「依代(よりしろ)」あるいは「神籬(ひもろぎ)」として神聖視した。・・・稲作文化はいうまでもなく、生活全般にわたって・・・自然を母胎とし、あるいは自然を活用して形成された。このような日本文化は、神道の自然崇拝を土壌に成立したものといえる。

古来、日本人は、初物を尊び、
神饌(しんせん)として神に供え、自らも食してきた。季節のものを神前に供えるというこの行為は、自然の恩恵を神々に感謝するという神道の思想から誕生したのである。・・・神饌は、神の食物であり、まさに躍動する生命の根源である。収穫したばかりの新しい米や、魚介類・野菜類が選ばれるのは、それがもっとも生命力にみちているからにほかならない。・・・神祭りや行事の時、神と人が同じものを一緒に食べる「共食行為」を「直会(なおらい)」と呼んでいる。・・・神と同じものを分かち食べることによって、神の新しい魂、神の強い霊力が人々の身につくとされた(コメント:共食信仰祝い事などのときに飲み食いするのはそのためらしい)。

神道は、教祖・教義・経典を持たない。「あるがまま」に神の存在に触れ、感応することを基本とする宗教である(コメント:
楽といえば楽だなあ。ただひたすら崇めつくせばいいのだから。そんなのは宗教ではないという議論もあるかもしれないが、それこそ本来の宗教だともいえる)。・・・神道にあっては自分の生命と霊魂は親から授けられたものであり、さらに祖先から継承されてきたものである(コメント:生命は確かに親から引き継がれているし、心と体が一体と考えるとタマシイもそういうことになるかもしれない)。そして、はるかな祖先から祖霊に連なり(コメント:祖先神)、生命の神々、天地創造の神々にたどりつく。日本の神が八百万神(やおよろずのかみ)といわれながら、「多神にして一神、一神にして多神」とされるのはこのような性格のためである。また、日本の神は霊性があるすべてのものが神となる。つまり、霊威をあらわすものであれば、自然の万物が神である(コメント:自然神)。

日本列島と神々が禊祓(みそぎはらい)によって水から生まれたという神話・・すなわち、神と人のあらゆる生命が水から誕生するという生命観(
産霊(むすひ)の霊力)と、水があらゆる邪悪なものを洗い流し、祓い清めるという清浄観(祓い(はらい)に霊力)である。・・・祓いは水・火・塩・幣(ぬさ)によって行なう。・・・ミソギが身の清めを主とするのに対して、ハライは心の清めを主とするといわれている。・・・生命力が枯れるとケガレになる。

神道は何よりも若々しい躍動する生命力を尊び礼賛する。そのために行う
鎮魂(ちんごん)は、禊祓と並ぶ神道の重要な行法であり、現世における救霊の呪法である。ミタマシズメ、ミタマフリともいい、枯渇する人間の魂を振り起こし、衰微する魂の生命力を再現するあらわざであった。・・・神輿を勇壮に振り動かす「神輿振り」も魂振り(たまふり)の呪術行為である(コメント:神輿には神様が乗っていることは知っていたが、揺さぶるのに意味があるとは思わなかった)。

祖先の霊を最高位に置く神道(コメント:
祖先崇拝)・・・死霊が昇華して祖霊となりさらに祖先神となる。この祖先神を氏神ともい呼ぶ。・・・一定の年月を経過して死穢(しえ)がなくなり、浄化した祖先の御霊を「祖霊」と呼ぶのである。・・・祖先の霊は、氏神様として祭られ、また氏神様の祭神に融合して祭られてきた(コメント:実在の人物が神様になって祀られているのはどういうことかと思っていたが、このように考えるとおかしなことでもないのだ。家康が神になってもいいわけで、自分のところの祖先様も神になっているのだ

皇室の最高の祖先神が
天照大神(コメント:そう考えると皇室が天照大神を大切にするのは自然のことなのだ。日本人全体で考えてもずっとずっと遡っていけばみんなどこかで血がつながっている可能性があるわけで、共通の祖先が実在していてもおかしくないことになる。それを天照大神とするならば、天照信仰も祖先信仰の考え方で、説明できることになる)。・・・仏教は死霊、神道は祖霊を崇拝する(コメント:確かに現代ではお寺は亡くなったひとの御霊を弔うためにのみ機能しており、神社は昇華して神様となった祖霊をにお祈りする場所として役割分担されている。であれば、神仏が共存している意味が十分あることになる)。
「まとめ」は次回。

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■神道と神社のこと(5)〜おまけ
【2006.6.30】
神輿の起源
養老4年(720年)の2月、九州南部で「隼人の乱」がおきたとき、朝廷が大分にある宇佐八幡宮に勅旨を派遣したところ、八幡神が「われ征(ゆ)きて降(くだ)し伏(おろ)すべし」という託宣を下して、進軍を率いて隼人を征討したという。このとき朝廷が「八幡神の心霊が乗りたもう」神輿を増進させたのが、日本最初の神輿とのこと。
その少し後の749年、東大寺の大仏建立の手助けのために宇佐八幡宮の神霊が再び奈良の都に入京し、手向山八幡宮として勧請された。そのときに使われたのが天皇と同じ紫錦の輦輿(れんよ)(鳳輦:屋根の上に金色の鳳凰が載っているもの)で、この鳳輦が神輿の原型となったとのこと。
その後、神輿は平安初期に日吉大社、祇園社、今宮神社、北野天満宮などに広まり、鳳輦を原型として魔よけの巴紋や神紋を飾り、鳥居・玉垣・高欄などを設けて神社を小型化したものが、一般化しているらしい(ここまで本田総一郎著、「日本の神道」より)。。

神社のいろいろ:
山岳信仰は3つに大別され、山型の岩を祭る神奈備信仰、高山を神体山と仰ぐ高嶺信仰、火山の霊威を畏怖する浅間信仰がある。代表は富士市の浅間神社。
水源地や分水嶺にある
水分神(みくまりのかみ)、クマリがなまってコモリになり、子守明神として信仰をうけるようになった。代表は奈良の吉野水分神社や京都は賀茂川の水源・貴船川上流の貴船神社。
神代に生まれた最初の海神は綿津見神で、綿津見神三神(底津、中津、上津)があり、北九州・志賀島(しかのしま)の志賀海神神社(しかのわたつみじんじゃ)が有名。
住吉信仰(住吉神)は航海安全、大漁満足を守護する神。和歌の神、商売の神でもある。代表は大阪の住吉大社(すみのえたいしゃ)。
北九州は福岡県宗像にある宗像大社は
宗像信仰の総本山。国家鎮護のほかやはり海路安全、漁業、水運、治水守護、交通安全、商売繁盛など。宗像三女神が有名。また、広島は安芸の宮島の厳島神社も海上安全、商売繁盛の守護神。
金比羅信仰の金比羅神も航海安全、海難救済の守護神。総本山は香川県仲多度郡琴平町の金刀比羅宮。
恵比寿信仰のエビス様は漁業の守護神で、代表は兵庫県の西宮神社と島根県の美保神社。恵比寿神は元来、夷、戎(異人・外国人の意で、威力のある荒々しい神ということ)の字が充てられていた。内陸では大漁・海上安全、商売繁盛の神で、七福神のひとり(鯛を抱えて釣竿を手にしているのは室町時代以後)。
八幡信仰は九州・大分の宇佐神宮に始まる。八幡神の神徳はもともとは国家鎮護、その後厄除海運、安産育児と幅広い。最初の神仏習合神となった。平安後期になると武神として信仰を集めるようになり、源氏は八幡神を氏神とした。
山王信仰は比叡山(日枝山)を神体山と仰ぐ日吉大社に始まる山岳信仰。桓武天皇の平安京遷都で皇居の鬼門を守護し、以来皇城鎮護の神。もともとは日枝山の自然神とのこと。八幡神についで、第二の神仏習合神になった。最澄が学んだ唐の天台山国清寺に山王祠があったことから「山王の神」と称するようになった。
稲荷信仰のお稲荷さまは五穀豊穣、商売繁盛、大漁守護の神。京都の伏見稲荷大社が信仰の発祥神社で、佐賀の祐徳稲荷神社、茨城の笠間稲荷神社が三大稲荷と呼ばれる。イナリは元来「稲生り(いねなり)」で稲が生えるの意だったが、稲を荷いだ翁が稲荷神だったことによるとされる。愛知の豊川稲荷は神社ではないが、霊狐とされている仏教のダキ尼天を祭っている。稲荷神は「狐は田の神のお使い」という農民信仰と結びついている。
天神信仰の天神は古くは「天つ神」を意味したが、平安時代以降は菅原道真の神霊を祭った天満天神を指すようになった、学問・文化と雷神。京都の北野天満宮と福岡の大宰府天満宮が信仰の発祥神社。
諏訪信仰は長野県諏訪湖畔に鎮座する諏訪大社を総本山とする農耕・風水・狩猟の神で、本質的には諏訪湖の水の神(農耕神)と守屋山・八ヶ岳・霧ヶ峰の山の神(狩猟神)。主として新潟・長野の信越地方を中心に信仰された。また、狩猟に用いる弓矢は武神としての神徳があり、鎌倉時代に武士の信仰を集めて、全国に広まった。
祇園信仰は京都の八坂神社に始まり、スサノオノ尊を祭っている。スサノオノ尊は牛頭天王(ごずてんのう)あるいは祇園天神といわれ、牛頭天王は仏教系の水神とされ、新羅の牛頭山の神とか、インドの祇園精舎の守護神ともいわれ、渡来神の性質がある。疫病・厄除けの神。祇園祭りの起源は863年に宮中で行われた悪霊の祟りを祓うための神事に由来している。
熊野信仰は和歌山県の熊野三山を根本社とする信仰で、山岳信仰を基盤とする。平安時代には修行道・仏教と習合して熊野権現といわれた。霊山参拝の風習も起こって諸代の天皇も参拝して熊野御幸と言われた。
愛宕信仰の総本山は京都市左京区嵯峨愛宕町に鎮座する愛宕神社で、火防の神の愛宕大権現として名高い。関東・東北地方に多い。静岡県春野町の秋葉神社も防火の神として有名。
最後に
鹿島・香取・春日信仰は利根川の下流の水郷地帯を挟んで鎮座する茨城の鹿島神社と千葉の香取神社があり、国土建設の神であり、国取りを実現した武神である。奈良市春日町の春日大社は710年奈良に都が遷都されたときに藤原不比等が氏神と崇める鹿島の神を春日山に迎えて平城京の守護神としたのが始まり。鹿島・香取神社、大阪の枚岡神社の神を祭る。
以上、簡単に各地の神社を調べたが、肝心の伊勢神宮、出雲大社のことは簡単には終わらないので今回は断念ということに。

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■プラダクシナー・パタ
【2006.7.29】
インドでは祈りのときに寺院のまわりを、そして寺院の中をぐるぐる回るのが祈りの作法となっていて、そのめぐる通路のことを「プラダクシナー・パタ」と呼ぶ(プラダクシナーとは右回りを意味し、パタは道のこと)。そして、現役仏教国のネパールやチベットにある仏教建造物もこのような造りになっている。これは仏教が生まれる前からあったインドの慣習であり、ヒンドゥー教やジャイナ教にも共通していることだ。

日本でも古くは
日本書紀に「行道」という言葉が書かれているが、行道とは礼りのために仏像や仏塔・仏堂の周りを右回り(時計回り)にめぐる古代インドに発する作法のことで、通常右回りに1周あるいは3周するが、さらに多い場合もあるし、左回りの場合もあるとのこと。というわけで、プラダクシナー・パタはちゃんと日本にも伝わっていたことになる。

仏舎利を分骨(はじめは8つ、後にはさらに8万4千分割)して納めた塔を
ストゥーパ(卒塔婆、そとば)というが、その後もインド各地にが建立された。しかし、ブッダは臨終にあたって自分を弔ってはいけないと言い残しており、塔を建てることはブッダの教えに背くことであった(偶像崇拝も本来のブッダの教えではない)。そのため当初は僧院の外に単独で建てられていた。日本では当初むしろ塔が尊重されていたのが段々金堂が中心となり、塔は境内の外に作られるようにもなり、また塔の前でお参りをするひとも少なくなっていったようだ(本来の塔の意味すら失われていった)。本当に仏舎利が入っていれば、また違っていたかもしれないが。

アショーカ王によって紀元前1世紀に創建され、その後拡張(紀元後1世紀)された
サーンチーの仏教遺跡群に世界遺産に登録された塔がある。それは全高30mの石積みの半球体(饅頭のような形でアンダと呼ばれ、もとは卵の意味)で、頂上に傘の付いた石柱が立っている。アンダは宇宙の中心にそびえると考えられているスメール山(須弥山、しゅみせん)をなぞらえていると考えられる。傘はきのこのように見え、円盤状の石の傘が3層かぶっているもの。宇宙軸を象徴する柱を表しており、菩提樹などの樹木(巨木)を表しているとも考えられる。確かに五重塔などはクリスマスツリーに似ているといえば似ているわけで、塔の木陰で瞑想にふければ悟りが開けるかも(ブッダは菩提樹の木陰で悟りを開いた)。

サーンチーの塔の巨大な円形基壇の外周には柵がめぐらされており、内側が外周の
プラダクシナー・パタになっている。ここを右回りに進んでいって一回りしてから階段を登っていくと基壇の上に出るが、ここにもまた2層目のプラダクシナー・パタがめぐっている。これが本来の塔の原型というわけだ。

ネパールの首都カトマンズの郊外にあるボードナートという町。この街の一角に塔があり、塔の周りを街路が巡っている。驚いたことに
歩く市民はみな右回りで、逆方向に歩く人は誰もいないとのこと。チベットの首都ラサでもトゥルナン寺の外周を街路が2重にめぐらされており、人々は寺の周りの街路を右回りに歩いているとのこと。陸上や氷上の競技場などがすべて右回りなのは、右回りの方が回り易いからという説もあるが、インドを源流とするプラダクシナー・パタのしきたりと関係があるのかもしれない。ちなみに野球のベースは左回りだ。また、日本の街もお城を中心に同心円状に広がっているものも多いが、特に右回りにこだわっていたという話は聞かない。

ネパールの寺院では塔に向かって手を合わせ、全身を石畳に投げ出してはまた立ち上がる、この五体投地という激しい祈りの作法のほかに、半球状の塔の基壇上を黙々と歩き続けるひともあり(プラダクシナー・パタ)、静だけでなくて
「動の祈り」が行われている。

以上のことは竹澤秀一著、
「法隆寺の謎を解く」(ちくま新書)よりの抜粋だが、この本の要旨は法隆寺の列柱回廊や塔を取り巻く裳階(もこし)と呼ばれる周回スペース、塔内部の心柱・須弥山を取り巻く回廊もすべてプラダクシナー・パタだろうということだ(ただし、そのほかのも謎は複数あり)。

付記:同書の中に奈良の東大寺の近傍にある
頭塔(ずとう)のことが書いてある(東大寺の南大門の南方)。数年前までは土をかぶり古墳のようにしか見えなかったものが復元されてたとのこと。土を盛り上げて石組みで固めた塔で、正方形7段、テラス状部分が4段ある。この頭塔の建設は767年で、東大寺僧の実忠(インド/イランから渡来といわれている)が行ったという記録が残されており、土塔・土壇を持つプラダクシナー・パタで、インド的性格を備えているとのこと。

ちなみに東大寺の大仏完成時の開眼供養で、眼に筆を入れたのもインドから唐を経由して渡来した
インドの僧(菩提僊那、ぼだいせんな)で、石山寺の創建も手がけていて、ここの多宝塔はインド風の半球体に日本的な屋根を取り付けた形をしている。仏教伝来の初期に複数のインド人僧侶が関与していたということになると、これまで考えられてきた以上にインド直伝の仏教が直接伝わっていた可能性が高いのでは?
そうなると(良し悪しは別として)室町時代以降に勃興したいわゆる鎌倉仏教が日本における仏教の在り方を一変させたのでは?
付記:ブッダはシャーキャ族の王子ゴータマ・シッダールタで、悟りを開いてからブッダと言われた。釈迦はシャーキャ族の出であるということ。

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■ヒンドゥー教
【2006.8.3】
ヒンドゥー教はゆうは5000年を超える期間にわたって、インドに生まれたすべての宗教や文化を吸収・同化して、しだいに発展してきた。そもそも仏教の後でヒンドゥー教が出てきたと思っていたので、これは何とも不覚だった。

キリスト教やイスラム教のような
開祖はなく、聖書やコーランなどの唯一絶対の聖典もない。ただし、「ヴェーダ」、「ウパニシャッド」、「バカヴァット・ギーター」、「ラーマーヤナ」、「マハーバーラタ」、「プラーナ」などなど聖典としての権威を与えられたものが多数ある。それでも「ヒンドゥー教徒は自分の宗教がヴェーダの教えに従っていると考え、神の啓示によってヴェーダができたと見なしている」とのことだから、やはりヴェーダこそがヒンドゥー教の聖典といっていいのでは?

ヒンドゥー教の発展の諸段階には、アーリア人進入以前のドラヴィダ人と非ドラヴィダ人の文化、アーリア人の持ち込んだサンスクリット文化、その後の侵入者(後期侵入者)の文化、さらにはヒンドゥー教から生まれた仏教、ジャイナ教、シク教、外来のイスラム教、キリスト教などのさまざまな影響を受けている。
アーリア人によって滅ぼされたって、インド人は可哀想と思ったが、今いるインド人がアーリア人なのだ。オーストラリアにおけるオーストラリア人と同じということだ。

ヒンドゥー教にはさまざまな宗派があり、重要な問題について見解を異にしているが、宗教的な大前提において一致するものがあるために、激しい衝突には至らないという。多くのヒンドゥー教徒は仏教でさえもヒンドゥー教の一派であるとみなしている。
仏教がヒンドゥー教の一派と考えられており、仏教はインドから消えたのではなくてヒンドゥー教に吸収されたのだそうだ。そもそも仏教はヒンドゥー教から派生したものらしいし、仏教というもののイメージが変わった。となると日本人は広い意味でヒンドゥー教徒ということになる。

ヒンドゥーHinduという語はインダス川のサンスクリット語であるSindhuに由来している。インド最古の文明はインダス文明で、紀元前2500年ごろには都市文明がかなり発展していたが、前2000年紀の中頃(前1500−前1300年頃)にアーリア人の進入にって滅ぼされた。アーリア人はサンスクリット語の全身である言語を話し、ヴェーダ神話などに表される多神教を持ち込んだ(火を囲み、動物を生贄として捧げるようなもので、太陽、月、火、嵐などの自然力の象徴を神々としていた)。一方。最も古い時代からインド文明に存在した土着の宗教的な観念では禁欲や出家の考えを持ち、宗教儀礼の場所は沐浴場であった。前1000年紀の始め頃からこの2つ宗教的な伝統が融合し始め、「ヴェーダ」の宗教は禁欲や出家の概念を取り入れた。このアーリア神話とそれ以前の非アーリア神話が融合して新たな共通の神話へと発展していった。インドらしい瞑想とか禁欲とかヨーガとかはどちらかというと土着の宗教観からきているのだ。

ウパニシャッド:前800年ごろにでき、神は万物に遍在し、神の偏在する万物と各個人の中にある自己とは同一であるとする不二一元論で、それ以降のほとんどのヒンドゥー教思想の核となっている(現象世界は幻影のようなものであって、実在しないと考える。多神教ではなく、一神教)。
バカヴァット・ギーター:ウパニシャッドより数世紀あとに作られる。世界が虚妄で実在しないとは考えず、現世における人間の義務を説き、無私の行為が理想とされた。
この時期(前800−前500年頃)に
ジャイナ教、仏教がヒンドゥー教から興り、出家と愛の理想を発展させ、輪廻転生の理念を採用した。前3世紀のアショーカ王の統治下で仏教は広く信奉されるが、再びヒンドゥー教が支配的になる。神話の補強、文化内容の拡充、道徳律の変革において、影響を及ぼす。

仏教以後のヒンドゥー教で
神に至る3つの道が説かれる。知識(ジュニャーナ)、行為(カルマ)、親愛(バクティ)。静かなる瞑想よりも溢れんばかりの親愛の情を捧げるバクティの道などである。前1000年紀の後期に化身(アヴァターラ)の思想が発展し、バクティ思想を推進させた。哲学的で抽象的な神よりも化身となって現れた人間の姿をした神のほうが親しみやすいと考えられた。化身にはクリシュナとラーマがあり、化身ではないが神に具体的な姿が与えられたのが、ヴィシュヌ、シヴァ、カーリーなどである。しかし、あくまで多神教というわけではなく、神は唯一者という考えは一環している。これがさまざまな宗教の多様なサーダナ(修行法)における統一性の部分を示し、「多くの小川の流れに似て、大海のごとき神へともに流れ込む」と表現される。
以上、インド宗教史研究家クシティ・モーハン・セーンの著書を中川正生氏が翻訳したもの:「ヒンドゥー教、インド三〇〇〇年の生き方・考え方」(講談社現代新書)より抜粋。

付記:ヒンドゥー教の教義では
一生は4つの段階(四住期)からなる。学生期(訓練・教育)、家住期(社会活動)、林住期(出家)、遊行期(隠者)。
解脱とは再生の輪からの離脱を意味する。
朝の勤行(プラータハクリティア)と暮の勤行(サンディヤー)のような
儀礼は毎日行われる(そのほか宗派によって様々な瞑想、祈り、儀礼あり)。
神に至る多くの道の存在を許容していて、
ヨーガなどの行為(カルマ)もその一つ。
「ヴェーダ」とは一般には讃歌や祭詞の収録である「ヴェーダ・サンヒター」(本集)を指す。
ヴェーダには4種類ある。「リグ・ヴェーダ」、「ヤジュル・ヴェーダ」、「アタルヴァ・ヴェーダ」、「サーマ・ヴェーダ」。リグ・ヴェーダが最も古くて重要で(リグ讃歌、ヴェーダ:知識)、多くの讃歌からなる。アタルヴァ・ヴェーダが2番目に重要で、多くの呪句とヴェーダ以前の文化の影響を受けたものを含んでいる(アタルヴァの語源は火を祭る祭官の意)。
北インドの中世神秘主義は、
ヒンドゥー教のバクティ運動イスラム教の神秘主義の一派であるスーフィズムが融合したもの(イスラム教は1100年ごろにインドに入ってきて、創造的な影響をもたらした)。

雑文:「アーユル・ヴェーダ」とはよく効く言葉なのでこの説明を。アーユル・ヴェーダとは世界三大伝承医学の一つで、「生命・寿命の科学・知識」という意味で、アタルヴァ・ヴェ−ダの医学的内容に治療経験が積み重ねられ、医学知識として体系化されたもの(きぐすり,com)。アタルヴァ・ヴェ−ダには治病用の薬草や香木などが収載されているとのこと。
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■上海バンスキング
【2006.10.30】
「上海バンスキング」-斎藤燐の原作で吉田日出子が主演して超ロングランの大ヒットとなった自由劇場の舞台劇で、深作欣二監督によって1984年に同名で映画化もされている。映画のあらすじ(Goo映画より)-

最近、たまたま上海に関係する本が多く目に付いて、単行本の「上海狂想曲」(高橋隆治著、文春新書)も面白かったし、東京人2006.10月号も上海特集で、これがなかなか面白い人たちのインタビューが満載なのに驚いた。

上海といえばまず李香蘭。で、李香蘭本人(=山口淑子というと急につまらない感じになるが)と元時事通信の藤原作弥氏との対談記事が出ていて、まず紙面1面の大きさで載っている上海時代の李香蘭の写真がほんとうに美しい。対談内容を読むと、かつての上海の賭博場や良く行っていたというキャセイ・ホテルのダンスホールの話、そこでダンスに誘われたという日本人特務機関の人のこと、待ち合わせをしていた作家で詩人・シナリオ書きの中国人劉さんが暗殺されてしまった話、とうとう漢奸(スパイ)の容疑で収容されてしまったことなど、まるで「上海バンスキング」に出てくる華やかさと影の分部が混沌としていた魔都上海の世界を実体験していた話に何度も驚かされた。もちろん「支那の夜」の撮影現場の話や、グランドシアターで催されたリサイタル「夜来香ラプソディ−」のことなども面白かった。

作家、桐島洋子さんの「私の上海−ブロードウェイ・マンションからの眺め」という手記もぐいぐいと引き込まれて読んでしまった。昭和16年12月7日、長期滞在の英国人家族の部屋に招かれてクリスマスの飾り付けをしたその日の深夜、物凄い爆音で飛び起きた。何とそれがハワイの真珠湾攻撃と同時刻に、上海の日本軍が黄浦江に停泊していた米艦を砲撃したのだという。そんな事実があったこと事態が初耳だったし、その場に居合わせたというすごい話だった。

「租界」これはアヘン戦争、南京条約(1842年)後に列強が中国に認めさせた治外法権の外国人居留地区で、共同租界(イギリス、アメリカ、日本など)とフランス租界があり、また共同租界からその北の越界路地区の虹口(ほんこう、またはほんきゅう)にまたがる地域に日本人居留区を形成していた。この租界なくして、魔都と呼ばれる国際都市上海は誕生していなかったわけだ。その象徴がバンドと呼ばれる河岸のエリアだった。

翻訳家&演劇評論家の松岡和子氏のエッセイから引用
「浮き立つリズムにながれるなみだ――『上海バンスキング』  
私のアタマの中では今もまだ「ウェルカム上海」のメロディと、心の肌に 優しくまとわりつくような吉田日出子の歌声が響いている。  オンシアター自由劇場の『上海バンスキング』を見ているときの、そして 見終わったときの幸福感は格別のものだ。81年と83年に銀座の博品館劇場で 見た時もそうだったし、今また渋谷Bunkamura のシアター・コクーンで七年 ぶりに再会した舞台(4月12日―5月6日)もやはり至福への「ウェルカム!」 だった。  客席の階段状の通路に並んだジャズ・プレイヤーたちがトランペットやト ロンボーンに最初の息を吹き込む瞬間に、その幸福回路のスイッチは入る。 まるで観客全員が一度にふわっと浮き上がるような感じ。同時にまばゆく輝 きだすステージは、もう一九三〇年代の上海のダンスホール「セントルイス」 だ。  劇の中ではジャズ・プレイヤーだが、彼らはみんな自由劇場の劇団員。そ の手作りの音楽がこのミュージカルの魅力の大きな要素になっている。  物語は、バンドマン波多野(串田和美、演出も)とその妻まどか(吉田日 出子)を中心にして上海租界の一九三六年から四五年までをたどる。その間 に起こる日中戦争、第二次世界大戦。  ハネムーンを兼ねてパリへ行くはずだったにもかかわらず、新婚早々の妻 をだまして上海に腰を落ち着けてしまった波多野の夢はジャズ。東洋のジャ ズのメッカ上海でなら自由にクラリネットが吹けるというわけだ。彼の親友 でトランペット吹きのバクマツ(笹野高史)の窮状を救うために、まどかも セントルイスで歌うことになる。  だが、このダンスホールにも否応なしに戦争が暗い影を落し始める。  日本軍に接収されたホールで、陸軍将校が部下に何ごとかをささやき、彼 がそれをバンドマスターに伝える。するとバンドのメンバーは一斉に直立不 動の姿勢になって「海征かば」を演奏しだす。ところが途中からそのリズム がスイングしはじめるのだ。  一言の台詞もなく、演奏だけで、なんと多くを語るシークエンスだったこ とか。怖くて痛快で……。  まどかを密かに思う白井大尉は満州・ソ連国境の戦地へ。そして、中国人 の歌手リリーと結婚したバクマツにも赤紙が来る。セントルイスも閉鎖。  ジャズができなくなった波多野はアヘンに手を出す。  まどかの留守中に、彼がアヘンを喫って幻覚を見る場面の迫力には息を呑 む。  舞台一面を覆う大きな深紅の絹布が、まるで血に染まった帆船の帆のよう に空気を一杯にはらんでふくれ上がる。うねる。しぼむ。またふくらむ。そ の柔らかな波の中に、気を失ったような姿で白井に抱かれたまどかが現れ、 消えてゆく。うつむいてたたずむ中国人の群れ。巨大なシラミの群れ。  夢破れた波多野の荒廃した精神状態を、これまた無言のうちに鬼気迫る美 しさで描き出すこのシーンは、シアター・コクーンの舞台で一段と見事なも のに仕上がっていた。  終戦。せっかく生きて南方の戦地から戻ってきたのに、バクマツは上海に 向かう汽車から転落して死んでしまう。お骨を抱えてしょんぼり帰ってくる リリー。がらんとした部屋で、アヘンのために廃人のようになった波多野の 傍らに立つまどかの胸に、幸せなジャズの日々が蘇ってくる。  そこここから楽器を手にしたバクマツを始めとするジャズメンたちが現れ る。湧き上がる「ウェルカム上海」のメロディ、浮き立つようなリズム。  はっきり言って私は泣いた。洩れ出る声を必死で抑えるあまり体が震えて きた。だがそれは「かわいそう」の涙ではない。彼女と追憶を共にする幸福 の涙だった。  斎藤憐の戯曲、数々のジャズ・ナンバー、越部信義のオリジナル曲、串田 の演出と美術、劇団員の演奏、そして吉田日出子の歌とおっとり上品な演技 ――これらが希有なかたちで一体となった『上海バンスキング』にはどれだ け拍手をしてもしたりないくらいだ。」
(以上、翻訳家&演劇評論家の松岡和子氏ホームページより抜粋)

付録1:上海の写真(ホームページ「中国 歴史散歩」より)。
付録2:
上海バンスキング(初演
上演日=1979/1/25-1979/2/12,18、
会場=
六本木自由劇場
作=斎藤憐・演出=串田和美・作曲=越部信義
主な出演=正岡まどか(マドンナ) …吉田日出子・波多野四郎 …真名古敬二・松本亘(バクマツ) …笹野高史・大森博・鶴田忍・藤川延也・小日向文世・林珠麗(リリー) …田辺さつき


上海バンスキング(
再演

上演日=1980/3/25-1980/4/17,1980/4/29-1980/5/20、
会場=
六本木自由劇場

上海バンスキング(
三演

上演日=1981/5/4-1981/5/31、
会場=
博品館劇場/他全国8ケ所

上海バンスキング(四演
上演日=1983/3/23-1983/5/8、
会場=
博品館劇場/他全国42ケ所

上海バンスキング(五演
上演日=1983/9/8-1983/12/26、これを観劇しました!
会場=全国52ケ所

映画・上海バンスキング
上映日=1988/3/13-1988/3/29、
会場=シアターアプル/他全国11ケ所


上海バンスキング(六演
上演日=1990/4/12-1990/5/6、
会場=Bunkamura
シアターコクーン

上海バンスキング(
七演

上演日=1991/5/16-1991/6/2、
会場=Bunkamura
シアターコクーン

上海バンスキング(
八演

上演日=1992/7/17-1992/8/2、
会場=Bunkamura
シアターコクーン/他全国1ケ所(札幌)

上海バンスキング(九演、ラスト公演
上演日=1994/7/7-1994/8/3、
会場=Bunkamura
シアターコクーン
主な出演=正岡まどか(マドンナ) …吉田日出子・波多野四郎 …串田和美(Aキャスト)・ 松本亘(バクマツ) …笹野高史・大森博・真名古敬二・冨岡弘・波多野四郎 …小日向文世(Bキャスト)・林珠麗(リリー) …武石一恵

上海バンスキング・ファイナルコンサート
上演日:1994/8/6-1994/8/7、
会場:Bunkamura
シアターコクーン

吉田日出子の部屋自由劇場フファンクラブ
怪しいホームページ(自由劇場ファン倶楽部分室)
1996年2月に解散した『オンシアター自由劇場』が本拠地としていた、30年の 歴史を誇る『六本木自由劇場』が、1996年7月に幕を下ろした。

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■八高線の旅
【2006.11.3】
埼玉県の北部(関越自動車道沿いの比企郡小川町)に新しくできた温泉施設、小川温泉花和楽(かわら)の湯に行こうと思って地図を見ていたら、八高線で行けることが判り、この八高線というローカル線にふと乗ってみたくなった。

それで八高線について調べてみると、いろいろなことが判った。もともとは群馬県で生産された生糸を横浜港へ運ぶために1931年に造られた路線だとのこと(このときは東飯能まで)。横浜と八王子間はすでに1908年に横浜鉄道が開通していたために、八王子から高崎までの路線が造られた。1934年には群馬県の倉賀野駅までの全線が開通。

1996年に八王子〜高麗川(こまがわ)間が電化されたものの、高麗川〜高崎間は今でも東京近郊区間で唯一の非電化路線として残っており、3両編成もしくはワンマンの2両編成の気動車(キハ110系)が走っているとのこと。ちなみに気動車とは、要するにディーゼルエンジンを搭載した車両のことで燃料は軽油らしい(「キハ110系」のキは気動車であることを現しており、「キハ110系」は1990年に登場した新型)。本来の八高線の終点は倉賀野駅だが、現在の終点は高崎駅。

拝島駅を出るとしばらく米軍横田基地と併走して走る。車や自転車などでは何度も横田基地を見に来たことがあるし、国道16号線に併走して横をJRが走っていることも知っていた(実は青梅線だと思っていたが・・・)。しかし、東京に何十年も住んでいながらこれまでこの路線に実際に乗ることはなかった。そういう思いで改めて車窓から横田基地の滑走路を眺めると感慨深いものがあった。

滑走路の先を横切るときにこの路線唯一のトンネル(横田トンネル)というのがあったらしいのだが、10年前に電化されたときに、架線を張るために上部が取り払われて今はコンクリートの溝になってしまったらしい。

車窓の景色はしばらく東京近郊のどうということはない住宅街が続いているが、埼玉県に入ったとたんに山深い感じになり、山越えをするような感じで東飯能へ到着する。とはいえこの辺はまだ電化された区域だから難なく進んでいき、やがて高麗川駅に到着。

ここで向かい側に待ち受けていた気動車キハ110系に乗り換えると気分も最高潮に達する。なんと高崎までのこの区間は1時間に1本というまさにローカル色の強い運行スケジュールで、無人駅もあるというから驚きだ。毛呂(もろ)、越生(おこせ)、明覚(みょうかく)(駅)など、「こんなふうに読むのか」と駅名の呼び方にひとつひとつに感心しているうち、あっという間に小川町(駅)に着いてしまった。

小川町駅には東武東上線が来ていて、改札口も共通だ。帰りは東武東上線を利用したのだが、何と小川町駅は東武東上線急行の終点だということが判った。ちなみに相互乗り入れしている地下鉄有楽町線の終点は少し手前の森林公園駅。急行とはいえ川越までの8駅は各駅に止まるので、期待していたほど時間を短縮することはできなかった。

というわけで、温泉目的に訪れた武蔵野の小京都・小川町を巡る全行程各駅停車の旅は、鉄道ファンでないまでもなかなか満足の行く非日常体験だった。

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