日付は新しい日記が下に続いていく構成です
【週間日記2:2002.6.1〜2002.8.3分】
■いろいろ
【2002.6.1】 |
先週はいろいろなことが目白押しだった。かねてよりインタビューを受けさせていただいていた、インプレス社(できるシリーズの一環として「できるホームページ・ビルダーVersion6」を出版)のN.M.さんとの打ち合わせも大詰め。写真入りの原稿も出来上がって、なかなかのできばえに大満足。掲載分の雑誌を目にするのが待ち遠しい。少しはアクセスしてくださる方がふえるかなと期待。N.M.さん、お世話になりました。
ところで、廃業となった花の湯が早くも取り壊されてしまった。インターネットで情報をキャッチしたので、早速現場に急行したら、まだブルト−ザーで最後の作業をしている最中だった。町田氏によれば、タイル絵は何とか保存できる事になったということだったが、ペンキ絵下のタイル絵は取り壊されていた。そこでおじさんに、「記念に瓦1枚もらっていいですか?」と頼み込むと、「気をつけてやりなよ。」と言葉すくなながらも愛情のこもったお返事。心配りに感謝しつつ、予定通り?に瓦1枚と格天井の木材1点を譲り受けた。ついでに夕方もう一度訪れて、さらにカラン(洗い場の水道の蛇口)1個、タイル絵の破片1枚(鯉の頭の部分)、洗い場の壁板(水色のペンキ塗り)1枚と傘立ての松竹錠1個を頂戴した。そんなものをもらってどうするかといえば、自分でもまだ決めていない。とりあえず、それらの一部を「1枚の写真」のコーナーに掲載。カランは自宅の風呂に置いて、お湯を通したりして遊んでいる。
先週は長崎にも行かなくては行けなくて、「ブロック」づいている勢いで、長崎でも穴あきブロック探索を敢行。それで、何ととんでもない新種を見つけてしまった。節操がないのもいけないというてらいの気持ちもあり、「江戸ッ子」に投稿するかどうするか迷っている(本当はすぐにでも報告したいのだけれども・・・)。その後、立川でもとんでもない穴あきブロックを発見してしまったが、デジカメを持参しておらず、それは写真に収めずじまいだ。先週分のブロック散策散歩の成果を「散歩」のコーナーに掲載した。長崎編も製作中だ。長崎の眼鏡橋の近くで昔ながらののどかな饅頭やを見つけて、「和菓子・百選」に掲載。おじさんに話を聞くと、開業して50年ということ。焼け野原の長崎でお菓子やを始めたのだろうかと、当時の様子に思いを馳せた。 |
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■千代の湯でさっぱり
【2002.6.8】 |
暑い日が続いている。湿度も高くて汗ばんでしまう。町行く人を見ていて気づいたことがある。女性は季節に敏感なのか、8割以上の人が半袖で、なかにはノースリーブの人もいる。ところが男性はほとんどの人が長袖で、半袖の人を探すのは難しい。あまりの違いに愕然となった。男の場合、背広を着ている、あるいは着なくてはならない人が多いためだろうか。いやいや、スポーツシャツっぽいのを着ている人も、なぜか長袖でめくっていたりする。本質的に女性は肌を出すのが好きなのか。単にちゃっかりしているだけなのか。謎は深まるばかりだが、とにかく多くの女性達の服装がとても涼しそうなのだけは、事実だ。ああ、うらやましい。世間はスポーツ色に染まっていて、ますます熱くなっている。ここは一挙に便乗して生ビールでもあおるに限る!ということか。
ところで、おとといは暑い中を廃業した西永福の大黒湯を見に行ったら、中野の花の湯同様、こちらも取り壊している最中だった。まだ、ペンキ絵が残っていて、コレをデジカメにゲット。勢いでやはり廃業したと聞いていた富士見が丘の白山湯へ足をの伸ばしたら、こちらはもうすっかり整地されていて、共同住宅の建築が始まっていた。どちらも見事な破風造りの銭湯だったので、とても残念。すっかり汗だくになってしまったので、中野の千代の湯で一風呂浴びて、帰宅した。 |
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■できるムックに掲載された!
【2002.6.15】 |
かねてよりインタビューを受けていた、ホームページ作りの体験談が掲載されている「できるムック」シリーズの1冊が本日(6月15日)書店の店頭に並んだらしい。掲載分の雑誌も今日、郵便で届いて感激。たくさんの人が紹介されているものと思っていたら、「つきさん」と言う方の「まいにちが、記念日」というサイトとこのサイトだけ。ちょっと恥ずかしい?
それでもこの本を読んで、早速訪れてきてくださっている方もいらっしゃるのではないかと思うと、おもわず気合が入ります(なぜか急に丁寧語になってしまいました)。
そのような経緯で当サイトを訪れてくださった方、はじめまして!まだまだ拙い(つたない)サイトで、ご参考になるかどうかわかりませんが、宜しくお願いします。近く当サイト内にも少しだけ、ホームページ作りの体験談を追加してご紹介するページを作りますので、また訪問してくださいね。
ところで、昨日はかねてより訪れてみたかった、京都の銭湯、船岡温泉に入湯した。楽焼のルーツも探ってみたかったのだけれども、そちらの方は・・・。清水寺のふもとの五条坂あたりには多くの清水焼の窯元が残っていて、煉瓦作りの立派な煙突を見つけたときは感動(「焼物の産地を行く」のコーナーでご紹介しますのでちょっと待っててください)。 |
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■ぼろぼろの革靴
【2002.6.22】 |
仕事の帰りに散歩に出たりするので、革靴がぼろぼろになる。新しい革靴を新調しようと思って、中野の丸井の中にある靴屋に立ち寄った。気に入った靴があったので、サイズをあわせてもらっていたら、応対してくれた若い男の店員さんが、古い靴を磨いてくれると言う。もう、ぼろぼろだから廃棄処分にしようかなと思っていたのに、「なかなかいい靴じゃないですか。」と言って、せっせと磨いてくれる。まず、シュークリーナーで汚れを落としてから、栄養クリーム(乳化性クリーム)で丹念に磨いてくれる。「靴も栄養を欲しがっているんですよ。」といっていつまでもいつまでも磨いてくれる。実は見たいテレビがあって、早く家に帰ろうと時間を気にしていたのだ。でも、あんまり熱心に靴を磨いてくれているので、「もう、適当でいいですよ。」なんて、とても言えなくなってしまった。テレビを見るのはあきらめて、じっくり腰を据えて靴の事をいろいろと質問した。そうしたら、その店員さん、とっても嬉しそうな顔をして、店の奥から「靴への心づかい読本」という冊子を出してきて、それをめくりながらいろいろと教えてくれた。こころの中で、「君って、昔ながらの靴屋さん気質なんだ。」と思ったが、口に出しては言えなかった。それで、「ずっと靴屋をやっていくつもり?」と聞いたら、靴の事を勉強するのは楽しいという。「これからは、自分ももっと靴を大切にして、教わったようにやってみるよ。」と言い残し、心底、こころから「どうもありがとう。」と言って、その店を後にした。こ1時間は経っていたかもしれない。ちっとももったいない気はしなかった。何だか、靴一つの買い物でこんなにすがすがしい気持ちになれるなんて。この不思議体験が今でも頭から離れない。
靴、のことで、もう一つ思い出すことがある。それは自分がまだ子供の頃、新宿駅前などの街頭にたくさんの靴磨きのおじさん達が、出店を並べていたことだ。大人達はさっそうと片足を磨き台の上に乗せて、靴を磨かせていた。子供心にはうらやましくも気になる光景で、何となく大人になったら自分もあんなふうに靴を磨いてもらいたいと、あこがれていたものだ。今から何年前か、その夢を実現させるときが訪れた。ぎごちなく靴を差し出しながらも、初めてと悟られるのが恥ずかしく、常連客を装って。おじさんはそれは慣れた手つきで、両手で布を持って、しゅっしゅっと靴を磨いていった。あまりに手つきが良くて、あっという間に磨きあがってしまった。あんなに長くあこがれていたのに、とてもあっけなく感じられたのを思い出す。街頭で靴を磨いてもらったのは、それが最初で最後だ。今では、もうあまり靴磨きのおじさんも見かけない。 |
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■いぬ派?ねこ派?それとも・・・
【2002.6.29】 |
人は動物好きと動物嫌いに分かれ、動物好きの人でもいぬ派とねこ派があるようだ。むかし、犬を飼っていたことがあるせいか、ずっと犬の方が好きなような気がしていたが、ねこ好きの人達の話やねこの写真をみるにつけ、ねこもかわいいと思うようになった。それどころか最近は、ねこの方がおもしろいのかもしれないとさえ思えるようになった。
犬好きの人達の言い分は、犬の方が明るくて、ひとなつこいからというような事か。ねこ好きの人達の言い分は・・・、何でしょう。ねこ嫌いの人の言い分は、根暗っぽくてなつかない感じがする?確かにねこの方が自我が強そうで、独立独歩という感じがするのは確か。でも、なつかないということはないようだ。しかし、忠犬ハチ公のような話も聞いたことがない。
犬は外では鎖につながれてなければならず、そうでないと町のひとから苦情が来る。放し飼いでは危険な感じもする。一方、ねこが鎖につながれているのは見たことがないし、ひとりで、いや一匹で歩いていても誰も気にも留めない。鎖の件はねこの首の構造上の問題なのだろうか。つなぐことができないので、みんな諦めているのだろうか?でもねこが自ら人を襲ったという話も聞いたことがない。
最近、ねこがおもしろいと思う理由は、なんだかとてもナイーブなようで、目で合図を送るとちゃんとリアクションを起こしてくれることだ。で、犬はというとそばを通り過ぎても知らん顔、というより実際、気づいてもいない感じの犬もいる。ある意味でそれって結構冷たいということだ。リアクションを示してくれるねこの方が、人間的な気もする(ねこが人間的というのも変だが・・・)。
とにかく、街行くねこを見ながら、そんな事を考えている今日この頃である。一度、ねこ好きの人達の本音を聞いてみたいものだ。 |
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■野生の感で・・・
【2002.7.6】 |
穴あきブロックを探してみたら、すぐに新種をいくつか見つけることができた。それで、すっかりその気になって「もっと見つけてやるぞ」と意気込んで探し始めたら、今度は意外に見つからないものだ。やはり、「穴あきブロックを探し」を目的に散歩をするのは邪道で、散歩をしているうちに偶然発見したというのがいいんだろうと思うこの頃。でも、新種じゃなくたって自分にとって始めての穴あきに出くわしたときはうれしいものだ。今まで見つけたのをまとめてみたらだいたい70個ぐらいで、もうちょと見てみたいという衝動にかられて、宝庫?と思われる池袋エリアに出かけてみることにした。
どこらへんをどういうふうに歩こうかと迷ったすえ、何か目標地点を決めようと考えた。そこで候補に挙げたのが、まだ行ったことのない護国寺と刺抜き地蔵、むかし懐かしい雑司が谷墓地周辺の三ヵ所。急に思い立ったので地図を持っていなかったから、とりあえず駅名になっている護国寺にしようとすぐに決定。「東京で一番大きな木造建築」などの説明になるほど・・・。それでいきなり北東に向かって住宅街の中を歩き出したが、どこに向かっているのかよくわからない。もうこれは野生の感に頼らざるを得ない。この日は梅雨の狭間の蒸し暑い日で、もう汗だらだら。南大塚あたりでいくつかそれなりの穴あきを見つけつつ進んでいくと、予期せず線路下に。これは何線?と一瞬わからず、電車が通過するのを待って山手線と確認。住所も北大塚に変わっていた。そこらでけっこうめずらしめの穴あきがぞくぞく出現して、いいぞいいぞ。デジカメで写真を撮っていると急に家の人が出てくるハプニングもあったりして、さらに汗だくだく。それでも深みにはまって奥へ奥へ進んで行くと、急に賑やかなところに出た。ところが何と驚いたことにそこは刺抜き地蔵通りではないか!
そこに広がるまだ見ぬ世界に圧倒されつつ、重い足を引き摺るように沿道を進む。高岩寺でお地蔵さんに水をかけているおばあさんを横目でみつつ、さらに先へ進むもその道は長く、だんだん人がまばらになって行く。「刺抜き地蔵はまだか?」と不安を感じつつつも前へ進み続け、とうとう庚申塚に出てしまった。猿田彦大神のそばに「すがも史跡マップ」なるものがあって、それを見て納得。やっぱりね。地図がないということは大変なことだと重い知らされた1日だった。でも、野生の感はまあまあかも。
追記:庚申塚周辺でグレートな穴あき続出。おまけに猿田彦大神の小さな境内にも始めての穴あきがあって、ほんと収穫の多い散歩だったかな。 |
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■kaiさんに思う
【2002.7.13】 |
ちょっと戸惑っている。
始めてこのサイトをリンクしてくださったkaiさんがバイクで事故をおこして、重傷を負ってしまったのだ。右側の骨という骨が全部骨折して、右側の肺も肝臓も腎臓もすべて傷つけてしまったらしい。こんなにひどい傷は聞いたことがない。左側でなかったのが唯一の不幸中の幸いか、などと思う。肺がつぶれているためか、人工呼吸器につながれていて、喋ることも寝返りをうつこともままならないらしい。どんなに痛いだろう、どんなに苦しいだろうと想像しようとしてもわかりようがない。ただただ早く良くなってくれることを祈っている。
水曜日に第一報を聞いてから、ちょっと暇な瞬間ができると、kaiさんはどんな具合だろうかと思いを馳せてしまい、何だか散歩やら銭湯やらと言っている気にはとうていなれない。事故の前日にもこのサイトを訪れてくださって、「池袋のブロック散歩」の感想を寄せてくれていた。掲示板を用意していなくても、e-mailで感想を送ってくださるのだ。とてもあり難く、とても嬉しく、とても励みになっていた。そのkaiさんにホームページを見てもらえないと思うと、なんとなくしゅんとした気持ちになってしまう。
kaiさんとはkaiさんの掲示板やe-mailでやりとりをする間柄だから、もちろんお会いしたこともない。メルともなどという表現であらわすのもはばったいが、改めてホームページというものの存在価値を再確認した。少しづつでもこのホームページを充実させて、掲示板の一つでも取り付けられるようにしたいものだ。 |
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■ホームランアイス
【2002.7.20】 |
江戸東京たてもの園に保存されている旧子宝湯の建物を一度は見に行かなくては行けないと思っていた。この日はそういうつもりではなかったのだが、小金井公園の近くを通りかかって、「そうだ、江戸東京たてもの園へ行って見よう」と思い立った。
たてもの園正面には、広い花道のようなスペースがあって、規模は違うが東京国立博物館へ向かう、旧寛永寺の参道を連想させた。なかなか立派な、シンメトリーの入り口建物だ。このあたりには、かって正倉院を思わせるような木造の展示館があって、郷土の発掘品が陳列されていたと記憶している。小学校の課外授業かなにかで訪れたことがあって、それはひどく昔のはなしなのだが、なんとなくおぼろげに覚えているのだ。また変なことを覚えているもので、その建物そばに行商のアイスクリーム屋さんがいて、棒付きの四角いバニラアイスクリームを買って食べた。棒にホームランの文字が出るともう一本、ヒットだと何本か集めてもう一本もらえるというしくみのアイスだ。烙印のように焦げ茶色の文字が刻まれていたのが印象に残っているから、全くのはずれではなかったはずだが、もう一本貰ったというはっきりした記憶もないのでヒットだったのだろうか。でもそのアイスが好きで、その後もどこかで何回か買って食べたような気がするが、少なくとも家の近所では手に入らなかった。それも当然のことながらいつの間にか姿を消してしまい、今では記憶の中でしかお目にかかれない。
ところで、たてもの園のほうは、うわさどおり?の盛りだくさんの展示品(というえるのかどうか)で、十二分に堪能することができた。それでも園内がたてものでぎっしり埋まっているわけではなくて、裏のほうには木立に囲まれた小道があった。そこを歩いているとまるで軽井沢かどこかにいるような錯覚にとらわれたほどで、一粒で二度おいしい江戸東京たてもの園だった。お目当ての子宝湯は思っていた以上の再現ぶりで、普段は遠慮がちに撮影しているペンキ絵や脱衣場の写真などを心行くまで撮影することができた。子宝湯とたてもの園の様子は銭湯のページに掲載することにした。 |
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■追分宿
【2002.7.28】 |
ひと足はやい夏の休みをとって、軽井沢町の信濃追分宿を訪れた。追分宿には中山道の、日本橋から数えて40番目の一里塚がある。現在でも道路を挟んで左右に塚が残されているのは、中山道67次の中でも珍しいという。追分の名は、ここが中山道と北国街道の分岐点にあったことに由来し、右へ行けば更科、越後、左へ行けば京都、吉野ということで、分去れ(わかされ)の碑には、「さらしなは右、みよしのは左にて、月と花とを追分の宿」と詠まれている。
交通の要所であったため、旺時は旅籠(はたご)が71件、茶屋18件、商店28件の大きな宿場町で、飯盛り女も最盛期には200~270人もいたという。泉洞寺には遊女の無縁仏もあるそうな。
軽井沢町追分宿郷土館で昔の資料を見ることができ、再建されて唯一残った旅館、油屋が昔を偲ばせる。この日はラッキーにも年一回の「馬子唄道中」のお祭りが、浅間神社の境内で催されていた。いつもは通り過ぎるだけの「追分」だったが、行ってよかった追分宿であった。 |
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■驚きの中山道
【2002.8.3】 |
軽井沢の追分が中山道の交通の要所と知ってから、中山道のことが気になり始めた。ネットで「中山道」を調べてみたら江尻さんという人の開設している「中仙道」(http://www5.big.or.jp/~ejiri/nakasen/)というホームページを見つけた。このサイトの中で今井金吾さん著の「今昔中山道独案内」(JTB出版)という本が紹介されていたので、早速この本を購入して目を通した。
調べてみて驚いたことは、知らないうちに結構、都内の旧中山道を歩いていたことである。「本郷の銭湯めぐり」をしたときに白山上の交差点から東大に向かって旧白山通りを歩いたが、この通りはまさに旧中山道だった。東大農学部前の高碕屋酒店(宝暦年間開業)のところに中山道の最初の一里塚跡があったのは覚えていた。先月には巣鴨のとげぬき地蔵通りを庚申塚まで歩いたが、ここも旧中山道だ。また、以前板橋区役所そばの商店街を歩いたことがあるがここも旧中山道で、よくよく地図を見てみたらこれらの道はすべてつながっていることがわかった。さらにその先の志村坂上には日本橋から数えて3つめの、立派な中山道の一里塚が残っているのだ。
そうと知ってはもうじっとしておられず、区役所前の商店街から志村の一里塚までを歩いてみることにした。うれしいことにこの道沿いには銭湯も結構残っていて、地下鉄の3駅の間に10件もの銭湯があった。板橋区役所前から旧中山道へ入ったところには「仲宿」という交差点があって、板橋は中山道の最初の宿場町であったことを知った。実は平尾宿、仲宿、上宿という3つのエリアがあって、それらを総称して板橋宿といったらしい。東大の敷地は旧加賀藩の上屋敷であったが、この仲宿の北側には同じ加賀藩の下屋敷があったらく、今でも加賀1丁目、2丁目とう番地名が残っている。中山道の2つ目の一里塚も平尾宿にあったらしいが、これは今はもう跡形もなくなっていて、どこにあったのかその正確な場所すらわからない。
板橋は石神井川にかかっていた小さな板の橋であったようだが、今は板のように模したコンクリート製の橋が再現されているのだ。板橋の名前は既に平安時代の文献に出てくるというから驚きだ。散歩の最後は志村の沢の湯の入湯で締めくくり、この日の様子は「板橋区の銭湯めぐり」として銭湯のページに載せることにした。 |
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