日付は新しい日記が下に続いていく構成です

■銭湯マップ、涙のゲット
【2002.8.10】
東京銭湯マップ2002を手に入れるのは容易なことではなかった。先週、板橋の沢の湯に行って散歩の後の汗を流したが、その日のつかささんのホームページの掲示板を見て狼狽した。「やっと銭湯マップを手に入れました」と掲示板に書き込みしている人がいる。「なに〜?もう銭湯マップの配布が始まっていたのか!」実はこのところの何回かは地下鉄の駅で組合の機関紙1010をゲットし続けることができていたので、もうそろそろと思ってちゃんと目を光らせていたのだ。それなのにこれはいったいどういうことなのか。さらにくじけたのは、その人は板橋区の銭湯で銭湯マップをゲットしたらしく、おまけに板橋区は穴場であるかのようなコメントを書いているのだ。「今日、板橋区の銭湯に行ったのに、どうして???」と泣きが入った。
あわてて翌日、いつも1010を置いてくれている近所の梅月湯に駆け込んだところ、ない!「おばさん、銭湯マップは?」と血相をかえて尋ねると、「銭湯マップ?これはもう手に入らないよ。」と言って、ごそごそと番台の脇からマップらしきものを出してきた。目の前が真っ白になりつつ、それをよく眺めるとA4版のぼろぼろの冊子ではないか!「おばちゃん、違う、違う。それじゃなくて最新版の1010だよ。いつも置いてくれている・・・」と言うと、おばちゃんは、「あれにマップなんか出てないよ。」。で、わたし、「さ、さいしんばんは、最新版はないんですか?!」。すると、おばん「そういえば家の方に届いていたけど、まだ出してなかった。」だって。その後の顛末はというと、家の方に電話をしてくれて、おじさんが箱ごと番台まで届けてくれて、めでたく銭湯マップを1冊ゲットすることができたのでした。やれやれ、ふー。
ところでそばにいた常連客のおじいさん達が、やおらそのマップを手にし、しばし眺めてから曰く、「こんなもの、いらねえよな。地元で聞けばわかるじゃねえか。」。で、わたし、目が点になりつつ、「そ、そうですよね〜。」と答えるのがやっとだった。もう1冊欲しくてさらに翌日、西荻の天徳湯に足を運ぶもマップらしきものの形跡なし。1冊手に入れたのだから満足しなきゃ、と自分に言い聞かせた。というわけで銭湯マップ、涙の1冊ゲットであった。
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■OZとチャンプルー
【2002.8.17】
みんなで映画を見に行くことになり、新宿にしようか、池袋にしようかという話になったので、大泉のOZ STUDIO CITY(T・ジョイ大泉)にしようと提案したらOZに決まった。家からは一番近い映画館なのに一度も行ったことがなかったので、一度行ってみたかった。前売り券を持っていたが、全席予約なのでチケット売り場の列に並んだ。フロアーにはキャラメル・ポップコーンの香りがたちこめていて、それは懐かしいアメリカのショッピング・モールの臭いだった。館内はとてもきれいで気持ちがいい。ポップコーンとコーラを買って、早速座席に。開始時間ぎりぎりだったために前から2番目の席しか空いてなかった。こんな席で映画を観るのは始めてだ。始めは眼がチカチカして大変だったが、すぐに慣れるものだ。慣れてしまえば前には人の頭がぜんぜんなくて(さすがに1列目に座るひとはなく)、思いっきり寝そべってリラックスしたらまるで家でホームビデオを観て入るような感覚になった。これなら一番前も悪くないね。映画の方はというと、観たのは「猫の恩返し」で、主人公の「はる」が猫の王子様を助けたのにひどいめにあうという話で、その筋立てに納得できなかったが、男爵バロンはカッコよく、でぶ猫のムタが味をだしていた。星2つ半というところか。
映画のあとは向かいのリヴィンOZ大泉でお惣菜を買って帰ることにしたが、なんとそこで期間限定で「鹿児島・沖縄のゴーヤ」を売っているではないか。御丁寧にすぐそばには味の素のゴーヤチャンプルー用CookDo(季節限定)も並べてあって、もうこれを買わない手はない。ゴーヤをよく見ると大きくてごつごつしたのと、小ぶりでほっそりしたのと2種類ある。どちらにしようか迷った挙句、「こういうものは大きいのが大味と相場が決まっている!」とかってに決め込んで小さい方を選択。さて、その晩、偶然にもテレビの「どっちの料理ショー」がニラレバ対ゴーヤチャンプルー対決だった。ゴーヤには10種類ぐらいあってやはり沖縄のアバシゴーヤが一番と、そして登場したアバシゴーヤの映像を見て卒倒しそうになった。顔の大きさもある巨大なゴーヤだ。そうか、あの小さい方が鹿児島産で大きいのが沖縄産だったんだ。始めて口にするゴーヤチャンプルーの味はそれはほろ苦いものだった。「本当のゴーヤチャンプルーはもっとおいしいんじゃないの」と言われ、「そうかもね」と答えた。そのあと口直しにオレンジやワッフルをほうばったけど、ゴーヤの苦味はぜんぜん抜けなかった。あー、強烈!(太く切りすぎ?)
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■気合を入れて・・・
【2002.8.24】
杉並区の銭湯を中心に写真を紹介しているが、この半年あまりの間に区内で5軒の銭湯が廃業してしまったので、現在の杉並区内の銭湯数はちょうど50軒となっている。この8月に新しい銭湯マップも配布されたので、これを機会に銭湯紹介のページをリニューアルすることにした。
平成13年の東京の銭湯数は1250軒で、東京では1週間に1軒の割合で廃業となっているとのことだから、年間で25軒に1軒のペース。そうすると杉並では10軒に1軒のペースだから、都内でもかなり速いペースということになる。
区内の銭湯でさえ全部踏破するのに四苦八苦しているのに都内全域の銭湯まではなかなか手が回らない。それでも訪れてみたい銭湯が目白押しで、この廃業のペースを考えると気持ちがあせるばっかりだ。今週は杉並周辺地域の銭湯を見て回ったので、新たに「周辺地域の銭湯」として写真で紹介するページを作成した。
西武新宿線の武蔵関駅周辺には3軒の銭湯があるが、とりあえず駅裏の昔ながらの番台銭湯、関の湯に入湯した。ペンキ絵もないこじんまりした銭湯だったが、レトロな感じがたまらなく、タイムスリップするにはもってこいの、大事にしたくなるような銭湯だった。区内では阿佐ヶ谷北の玉の湯に入湯。カランは2列で薬湯、水風呂の浴槽も増設してあって湯船は4つ、満足度の高い銭湯だった。入浴後、外の風もすがすがしく、阿佐ヶ谷の住宅街を気持ちよく散策できた。
廃業間近(9月中旬?)の横浜の鎌倉館、king of sentouの北千住の大黒湯、麻布十番のレトロな建物の小山湯など、行かなくてはいけない銭湯がいっぱいだ。これからは季節柄も良くなるので、気合を入れなおしているところだ。
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■銭湯をは・し・ご
【2002.8.31】
世田谷区上用賀の用賀浴場が8月28日をもって廃業となった。インターネットで廃業情報を聞いて即日(と言っても最終日)に訪問することができた。この日は新幹線で帰京の途中に横浜で下車して南区高根町の鎌倉館に行くことに決めていた(こちらは9月16日で廃業)ので、用賀についたのは9時過ぎだろうか。東急新玉川線の用賀駅で下りて用賀中町通りを北上して駒大付属高校入り口を右折。馬事公苑南の住宅街のまんまん中に用賀浴場はあった。
用賀の駅が超現代的になっていたために方角がまったくわからず、やっとの思いで中町通りへ出たのでだった。酒屋で銭湯への道を訪ねると、さきほども2人ずれの女性に銭湯への道を訪ねられ、今日はどうなっているのかと・・・。
狭い狭い路地から入る入り口。脱衣場も普通の部屋といった趣。それでも洗い場奥の壁一面に広がる富士山のペンキ絵はそれはすばらしいものだった(ひょっとすると最近見たものの中でも一番のすぐれもの?)。ボディーシャンプーが底を尽きてしまい、シャンプーで体を洗う(この日2回目)。脱衣室に出るとそこにいるみんなが名残を惜しんでいる様子。おやじさんは一人一人に挨拶して缶ビールを振舞っていた。常連は床に座って談笑している。酒も入って駒大の学生風の青年(律儀に正座をしている)に出身地を聞いたり、がんばれと励ましたりしていた。始めて話してるくせに、最後に「もう、会えねえけどな。」などと言っていた。おかみさんは番台に座っているもののもう涙目になっている。
とても言い出しにくい雰囲気の中で、心を鬼にして「ペンキ絵の写真を撮らせて欲しい!」とおやじさんに懇願すると、ためらいもなく、こころよく引き受けてくれた。ただし、おやじさん、洗い場にまで行ってみんなに「写真撮りますから。人は入れませんから。」と・・・。中の人は端の方へ大移動。思いがけない事態の展開に言葉もなく、そそくさと撮影を済ませてぺこぺことお礼、そして感謝感謝。帰りしなには(始めて訪れたのだけれど)、「お世話になりました。」と挨拶してその場を後にしたのだった。
大切な最終日だというのにお騒がせしてごめんなさい。いいおやじさんでした。最終バスもなくなっており、気持ちよい風に吹かれながら帰路についた。ほんとうにご苦労(自分)、いえご苦労様でした(用賀浴場)。
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■ウイルスでパニック
【2002.9.8】
コンピュータウイルス(クレズという名前)に感染しているようで、パニック状態です。すみません。

そんなわけで、今週はお休みです。宜しくお願いします。
(こうして入力していても何か変です。壊れてしまうのでしょうか?頑張ります。時間ください。)
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■銭湯の数だけのドラマ
【2002.9.14】
コンピュータウイルスの方はなんとか撃退!今までけちってウイルスを退治するソフトをインストールしてなかったので、とうとうあきらめてウイルスバスターをネット購入した。クリーニングをしたら50何箇所も感染していて、ウイルスでぐじゃぐじゃだった。よくこれまで動いていたよねと言う感じ。
ソフトのネット購入を始めて試みたのだが、ダウンロードするのに三時間半もかかってしまった。購入ボタンをクリックしたあとだったので、あとの祭り。仕方なく、三時間半じっとがまん。わかっていたら夜中に回しっぱなしにすればよかった。ADSLに変えてないのも痛い。

ところでこのごろは、実は銭湯モードに突入していて、この3週間に訪れた銭湯は、小山湯(麻布十番)、大黒湯(北千住)、山田湯(熱海)、鎌倉館(横浜)、用賀浴場(用賀)、越の湯(麻布十番)、ぼたん湯(阿佐ヶ谷)、千里湯(大阪)、天神湯(中野)、駅前温泉(熱海)、松島館(横浜)で、あと1つで週4回のペースだった(ちょっとクレイジー!)。知る人ぞ知るすごい銭湯ばかりで、みんな圧巻だった。このうち廃業となるのが鎌倉館と用賀浴場で、おじちゃんまたはおばちゃんに親切にしてもらったのが、山田湯、用賀浴場、千里湯と松島館だ。お湯や建物もさることながら、こういう人とのふれあいもあるのだなと実感。町田師匠が、「銭湯の数だけ、そこには人間のドラマがある。」と書いているのを読んで、どういう意味なのか?とずっと思っていたが、こういうことなのかと思ったりする。話をしてくれたおじちゃんやおばちゃんの顔がまだ目に焼ついているから・・・。銭湯めぐりはまだまだ続きそうな今日この頃である。
そんなわけで、銭湯紹介のページはものすごいいきおいで増殖中ですので、暇な折にでも是非覗いてください。一機に見ると疲れるので、ちょっとづつはどうでしょう。
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■銭湯にバーカウンター
【2002.9.21】
きのう、高円寺のなみのゆを営むO.Hさんから突然、メールをいただいた。
「前略 突然失礼いたします
HPで紹介していただきました杉並のなみのゆです
浴場の存続にご協力いただき感謝申し上げます・・・」
などなど。銭湯のホームページを開設していて、こんなに嬉しいことはない。このホームページを見つけて下さっただけでも感謝感謝なのに、このようなもったいないお言葉までいただいて、銭湯ファン冥利に尽きるというものだ。なんだがエネルギーをいただいたようで、ますますエスカレートしそう。銭湯の存続云々なんて、大丈夫大丈夫。このところあちこちの銭湯を回っていて、やはり日本人は風呂好きだとつくづく実感している。だから、銭湯がなくなるなんてあり得ない話だと思うこの頃である。
今まではどちらかと言うとレトロな昔ながらの銭湯に惹かれていたが、今週は武蔵関の松の湯に行ってみて、少し考えが変わった。完全改良型のスーパー銭湯風の銭湯なのだが、フロントがカウンターバーのようになっているのにびっくり。おつまみや生ビールも注文できるのだ。そこに未来の銭湯を見た気がした。考えてみたら銭湯の中にレストランがあったり、カフェがあったり、はたまたパチンコがあってもいいわけだ。それによる収入も馬鹿にならないし、一石二町のいいアイデアのように思えたけれどもいかがなものでしょう。
このホームページももっと充実させて、少しでもお役にたてるようにしていきたいものだ。
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■明日行くしかないかも。。。
【2002.9.28】
銭湯仲間っていうのは結束が固い!老若男女、もろもろのひとがいるのでしょうけど、共通の目的のためにはそんな違いはなんのその、情報を交換しあったり、残念がったりで、一生懸命だ。
先週はつかささんのホームページに書き込みをさせていただいたら、つかささんはもちろん、天狗湯のシュワッチさんも感想を寄せてくれたし、銭湯博士の町田忍さんからもじきじきにメールをいただいた。BBSでも用意しておけば、きっといろいろなひとが感想を寄せてくれたんだろうなと少し後悔。もっと見やすい表紙にするために「写真おすすめ」のマークを添付し、「今週の銭湯」のコーナーを作った。
今週の話題は原宿神宮前の銭湯、第二桜湯が今月いっぱいで廃業してしまうということ。原宿に行くたびに気になって覗き込んだり、回りを徘徊したりしていたが、昼間に訪れることが多くて入湯の機会を逸していた。あと3日?いや月曜が定休日だからあと2日かもしれない。明日行くしかないかも・・・。
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■三丁目の角
【2002.10.5】
本屋の雑誌のコーナーでぱらぱらと立ち読みをしていて、偶然に「三丁目の角」という季刊誌を手にしたら、なんと銭湯のことがいっぱい載っていた。おまけに目次の後の一発目の写真が見開きいっぱいの横尾忠則氏の絵で、タイトル「暗夜光路N市−V」。銭湯でも出てきそうな、真夜中の裏路地。雑誌の副タイトルは、「みんな、はじまりは少年だった」というものだが、同潤会代官山食堂のことやら、アーケードのことやら、街角のたばこ屋のことら、昭和のノスタルジーでいっぱいだ。
銭湯に話を戻すと、「下町オフロアート美術カン」、副題「銭湯の富士山」と銘打って、二十世紀銭湯のペンキ絵の書き換えの一部始終を写真で紹介している。絵師は中島盛夫師、紹介文章はもちろん町田忍大先生だ。嬉しいいことにこの特集とは別に、「千住大特集」というさらに大きな特集があって、北千住のすべてが紹介されている。この特集は30ページ以上にも及んでいて、ちょうど中盤に「銭湯の至福」、副題「千住は銭湯パラダイス」という小特集があって、梅の湯、弁天湯、美登利湯、旭湯、千代の湯、梅の湯、タカラ湯、大黒湯が写真入りで紹介されていると言う念の入れよう。
その他、千住には「おばけ煙突」という東京電力の火力発電所の4本の名物煙突があったこと(見る方向により3本に見えたり、2本に見えたりしたらしい)や、千住は北を荒川、南を墨田川に挟まれているが、驚いたことにこの荒川は人口の川で、昭和初期に22年の歳月をかけて作られたものだというのだ(幅約500m、全長22km)。「荒川放水路」、確かにそう呼ばれていたのは知っていたが、墨田川の洪水に繰り返し悩まされていて迂回路を作ったのだという。とにかく、思わぬ収穫の多い本で、見つけることができてホントにラッキーだ。
欲しくてたまらなくなった人のために詳しい情報を記載すると、ワールドフォトプレス社、平成14年11月5日発行、定価1714円(雑誌コード69330−83)。
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■あー最高、銭湯の日
【2002.10.12】
木曜日は10月10日で銭湯の日、地下鉄の駅で組合の機関紙1010の10月号をゲットしたら、当日のラベンダー湯のことが特集になっていた。ラベンダーは北海道富良野産という本格的なものらしい。ラベンダーのエッセンシャルオイルを使った効能実験のことが紹介されていて、ストレスが減ってリラックスが増えるといいことずくめのことが書いてある。気持ちは盛り上がってどこの銭湯に行こうかと考えるともう楽しくなってきて気もそぞろ。あれやこれやと思いをめぐらした挙句、以前から気になっていた吉祥寺の鶴の湯に行くことにした。
開業まで少し時間があったのでそのほかの吉祥寺の銭湯をチェックして回ってから鶴の湯に行くことにした。駅のすぐそばにある「よろず湯」に行く途中、真昼間からポン引きのお兄さんに声をかけられまくり、すごいところにある銭湯だと驚くことしきり。次に立ち寄った弁天湯は木曜日が定休日なので閉まっているかと思いきや、なんとこの日は特別オープンしているとはさすが、気分もますます盛り上がる。住宅街の真っ只中にある亀の湯もチェックしていざ鶴の湯へ。途中、学校帰りの成蹊の学生の列で道はいっぱいだ。こんな時間にラベンダー湯に一番風呂で入れるなんてなんという贅沢だろう。
鶴の湯は噂どおりのすばらしくレトロな銭湯で、げ魚も申し分ないもの。中に入って驚きは最高潮。真新しい早川師の背景画もさることながら九谷焼のタイル絵が壁という壁にちりばめられている(ちょっと大袈裟が?)。まだお客さんもまばらで昼間の日差しの残る中で、待望の「ラベンダー湯」に浸かる。思わず「あー、最高!」とこころのなかで叫ぶ。これだからやっぱり銭湯通いはやめられない。ごくらくごくらくの銭湯の日であった。
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■下足錠、一番多いのは・・・
【2002.10.19】
銭湯を見に行くようになってからだいたい1年で、銭湯に習慣的に入りに行くようになってから半年ぐらいだろうか。始めの頃はレトロな宮作りの建物に惹かれて、破風屋根や鬼瓦、玄関回りの美しさを求めてひたすら銭湯を見て回った。すべての銭湯に入湯するのは到底不可能だと思ったので、まず一通り回ってめぼしい銭湯をリストアップしてから一つ一つ入湯して回ろうと考えた。
少なくとも在住地区やその周辺の銭湯はとりあえず見て回ったので、平行して入湯も開始することにした。ところでいざ実際に入湯を始めてみると、お湯の良し悪しの評価はもちろんのこと、下足錠、格天井、柱時計、扇風機、乱れ籠、体重計にマッサージ器、浴室内では背景画のペンキ絵やモザイクタイル、天井の構造や島カランの配置、カランの種類からケロリン桶から座いすまで、観察しなければいけないものがどんどん増えていった。アイテムの種類についてはもちろん先人のアイデアを参考にしているところが大きいのだが、単純でないがゆえに奥が深くて興味は尽きないのだ。始めの頃はいろいろと観察して帰ったつもりでも、後になって思い返して見ると結構うる覚えだったりした。最近になってやっと冷静に細かいところを見れるようになった。「板についてきた」とでもいうのか、雰囲気に呑まれずに銭湯を楽しむ事ができるようになったと思う。
今までを振り返ってみて一番感じることは、どの銭湯をとってみても同じ銭湯は一つもないぐらい個性があるということだ。だから新しい銭湯へ行くと常に新たな驚きと感動がある。すべての銭湯に入りつくしてしまったら、どんなにつまらないだろう。入りきれないほどの銭湯がある限り銭湯通いは終わらない。
ところで今週はこれまで訪問した銭湯の下足錠のラインアップをまとめてみた。一番多かったのは・・・
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■41軒の銭湯
【2002.10.26】
訪れてみたい地域の銭湯がいっぱいあるのに遅々として進まないので、とにかく宮造りの銭湯がどこにあるのかを把握しておきたいという思いに駆られた。そこで今週は東京都内の3つの地域について銭湯めぐりを敢行することにした。まずは日曜日の早朝、この日は文明の力の助けを借りて、普段ではなかなか行きにくいような、中央線から離れた中野区南部の銭湯を見て回った。次から次へと見て回ってその数20、この地域の特徴は住宅街の奥深くに点在していることだ。
ところで銭湯を建物という見地からいくつかのタイプに分類してみるとおおむね5つに分けられる。まず大きくは瓦を使っているかどうかで、瓦なしのグループはいわゆるビル銭湯(ビル銭)と一軒屋のモダンタイプ(一軒家モダン)に分けられる。瓦ありのグループは、ほとんど手の加えられていない宮造り銭湯(宮造り)、古典的な破風屋根を持ちながらも特に玄関回りなどが改装されていたりするもの(瓦クラシック)、一応瓦屋根でありながら一般の民家の形態に近いモダンタイプ(瓦モダン)がある。
さて中野区の特徴に戻ると20軒中、ビル銭が一軒だったのは意外だが、それでも一番多かったのは瓦なしの一軒家モダンであった。ちなみに宮造りは3軒だった。
次に火曜日は用事の合間を縫って練馬区東部の7軒の銭湯を歩いて見て回った。なんとビル銭4軒で、瓦クラシックがかろうじて1軒(宮造りなし)という状態。
最後に木曜日の午後は少し時間がとれたので、待望の浅草から旧吉原一帯の台東区北部の銭湯を見て回ることにした。20軒訪問をめざしたが、14軒目で日没。結果はビル銭5軒とかなり目立つものの、瓦クラシック3軒に宮造り2軒という両極端のタイプが存在するという状態であった。もともと古い銭湯が多いところにビル銭に改築されたものがあるからなのだろう。
しめて今週41軒の銭湯を見て回ったことになり、宮造り5軒(瓦クラシックも入れれば14軒)という結果だ。ちなみに今週入湯した銭湯は、廿世紀浴場(一軒家モダン、日本堤)、久松湯(瓦モダン、桜台)、日之出湯(瓦クラシック、練馬)の3軒だ。
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■江戸五色不動の謎
【2002.11.02】
今週はふと本屋で見つけた「日光東照宮、隠された真実」(宮元健次著)という本を読んで、予期せぬ真実を知ることになった。かねてより「江戸にある五色不動はいつ、誰が何のために建立したのか」、「単なる極彩色好みの悪趣味か」と思っていたが、その回答は思わぬところにあった。そういうわけで以下の記述はこの本からの重要な部分の抜粋だ。
奈良時代以降、天皇や将軍などの権力者のブレーンとして活躍して来たのは、陰陽道(おんみょうどう)という占術・呪術を担う陰陽師(おんみょうじ)と呼ばれる一群の宗教家だというのだ。江戸幕府の宗教政策のブレーンを務めたのも陰陽師である川越無量寿寺の住職、南光坊天海であり、徳川家康による江戸への遷都はすべてこの天海の指揮のもとに行われた。
陰陽道とは古代中国で生まれた占術・呪術である陰陽五行説(いんようごぎょうせつ)に単を発している。すべての現象を陰と陽、そして地球上の五つの元素である木・火・土・金・水で解説しようとする思想だ。この五元素を示す五色が白・赤・黒・黄・青で、これらの色は古来より聖域を守護する魔除けとして用いられてきた。さらに8つの方位、すなわち東・南東・南・南西・西・北西・北・北東ですべての現象を解説しようとするのが八卦の思想で、これも陰陽道に由来しているのだ。
天海は江戸遷都を指揮した際に鬼門封じを行ったが、この鬼門とは東北の方位のことで、鬼が出入りするとして古来より忌み嫌われた。また南西の方位も裏鬼門として恐れられ、これを結ぶ線を鬼門軸という。東と南が「陽」で西と北が「陰」だから、鬼門軸は陽と陰が転化する不安定な方角というわけだ。天海はこの鬼門封じのために江戸城の鬼門の位置に寛永時を建立し、同じく鬼門に位置する浅草寺を祈願所とし、神田神社を鬼門軸上に移した。裏鬼門には増上寺をに移し、比叡山の守護神日吉大社の文祀日枝神社を移した。
また平安京の守護神である五色の目を持つ不動明王にならって江戸にも五色不動が設けられた。これが江戸五色不動の由来だったのである。ちなみ日光東照宮を彩るさまざまな色も単に悪趣味で極彩色を使用したのではなく、霊廟を悪鬼から守る魔除けの役割を果たしているからなのだ。現在、台東区にある目黄不動は真新しい祠に押し込められている(台東区銭湯めぐりより)。
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■月の湯のおばちゃん
【2002.11.09】
杉並区内の銭湯もまだ踏破してないのに、このところは杉並区周辺の中野区や練馬区の銭湯めぐりに追われる日々であった。見て回るだけならこれらの地域の銭湯も半分以上訪れたことになり、さらに今週は新宿区や文京区に足を伸ばした。
練馬区では春日町の鹿島湯に入ったが、ここはげ魚のある昔ながらの銭湯で大満足であった。また、このあたりは通過したことはあってもゆっくり歩いたことはなかったが、春日町通りは豊島園を通って練馬、豊玉に抜ける昔の臭いのする昔道であった。
高田馬場あたりの銭湯の廃業が相次いでいるので、このあたりの銭湯をチェックして、最後に以前より気になっていた目白台の月の湯に入湯することにした。途中、訪れた有馬湯では解体作業中の現場に出くわした。このあたりでも屈指のレトロな雰囲気だったようで、とても残念な思いにかられた。瓦礫のなかから旧さくらの下足錠を発見して持ち帰ることができた。
月の湯のあたりは言わずと知れた文教地区で、月の湯は新築予定の和敬塾の真向かいの一角にたたずむむかしのまんまの銭湯だった。番台の上から気さくに話しかけてくるおばちゃん。客一人でも風呂上りに世間話をしながらくつろげるのは、こういう銭湯ならではのことなのではないだろうか。
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■名古屋の銭湯
【2002.11.16】
名古屋に行ったが銭湯に関する情報を全く持って行かなかったので、まず電話帳をチェックしてみたら50箇所?ぐらいの銭湯が掲載されていた。とりあえずデジカメにキープして、次に本屋に直行した。なるべく詳しい市内地図をゲットして、銭湯の位置をかたっぱしから地図に記入。おもしろい名前の銭湯や魅力的な名前の銭湯は特に赤丸チェックした。すると名古屋駅の西側の中村区にたくさんの銭湯が集中していることがわかったので、この地域の銭湯をチェックして回ることにした。
予想通りというか、外観的には何の変哲もない銭湯が大半だったが中村大門のそばに結構レトロでそそられる銭湯発見した。その日はそこに入ることにすぐ決定したが、どうしても電話帳で目にした「中将湯温泉」を見ておきたくて、時間の関係もあってタクシーで直行。タクシーの運転士さんも協力してくれて、四苦八苦で中将湯温泉発見できた。運転士さん曰く「いつもこのあたりを通るけれど、銭湯があるとは知らなかった」と・・・。名古屋の銭湯は煙突は低いし、外観は地味で、おまけに結構路地の埋もれたところにあるから、本当に地元の人でもわかりにくいようだ。そんなわけでやっと発見した「中将湯温泉」、これまたレトロなよさそうな銭湯だった。
後でタクシーの運転士さんに聞いて知ったのだが、大門とは元はといえば遊郭の大門で、あの一帯が全部遊郭だったともこと。東京の吉原大門みたいなもんだなと納得。確かに吉原近辺も銭湯が多いから・・・。料金を払った後でタクシーの運転士さんがサービスで大門近辺に残っている昔の遊郭の建物を回って案内してくれた。大門の銭湯「くるわ湯」も期待通りのいい銭湯で、ラッキーな銭湯行脚だった。
■銭湯めぐり
【2002.11.23】
このところ銭湯参りも加速がついてしまって、週6日入湯ペース。銭湯に行かなかったのは2週続けて月曜日だけで、休湯日っていう感じかな。入湯2000をめざしているわけではないが、つかささん達はどのくらいのペースで入湯しているのだろうか。
ところで今週の1週間は盛りだくさんだった。気になっていた明神湯が見たくて洗足池から旗の台、荏原町界隈の銭湯めぐりに行ってきた。始めてこのあたりを歩き回って、自分の知らない東京の町並みに改めて感心することしきり。銭湯の方はというと明神湯の建物もさることながら、荏原町(住所は中延)の亀の湯に感動。とにかく雰囲気が鎌倉の瀧の湯に似ているんだよね。木桶と中央に配置の浴槽にもびっくりさせられた。ここは好きな銭湯リスト入り(そんなのはないけど、作ってみるのもおもしろい?)かな。
原宿湯屋展も行ってよかった。なにげに銭湯マップ積まれていて意外。ミニチュアのペンキ絵を販売しているのも驚いた。思わず「購入しようか」などという気持ちがこころをかすめる。おねえさんに「写真撮っていいですか」と確認して、デジカメのシャッター押しまくるもおねんさんの写真を撮り損ねた。
おねえさんといえば沼袋の梅の湯のおねえさんは本当に美人だった。あそこまでいくと裸になるのをちょっとためらった(ちょっとだけね)。天狗湯さんの外からペンキ絵が見えるからくりにもあっと言わされた。練馬のかた田舎の須賀乃湯も良かったな。練馬大根が欄干に干してあったのが印象に残っている。1010特別号の記事になっていた野方の朝日湯も偶然見に行った。8角屋根の湯気抜き天井があってユニーク。いつかは入りにくるぞと思う銭湯の数が増える今日この頃だ。
■銭湯の屋号
【2002.11.30】
いろいろな銭湯を訪れて、何となく同じような名前の銭湯が多いなあと漠然と考えていた。そんな中でも特に松の湯という屋号の銭湯はやたらと多いと気になっていた。そこで思い切って銭湯の屋号について調べて見ることにした。
案の定、松竹梅の中では圧倒的に松の湯が多かったばかりか、その他のすべての屋号のなかでも松の湯は断突の一番人気であった。ところで松竹梅の真ん中の
竹の湯が少なくて松の次に梅の湯が多いというのはどういうわけなのだろうか?松が一番多いのは、うな重を頼むときについ一番安価な松を頼んでしまうという庶民感覚からきているものだろうが、松でないとすると「ええい今日は特上の梅にするか」という意気ごみなのだろうか。やはり真ん中の竹にするというのはあまりにも中途半端すぎるのだ。
東京のあちこちに富士塚があって、実際に晴れた日には東京のあちこちから
富士山が見えるから、東京人が富士山好きなのもうなずける(富士の湯、富士見湯)。それにしてもことあるごとに神社仏閣お参りして御利益にあやかりたいと安易に考えている東京人は、七福神の大黒さまや弁天さまも大好きだ(大黒湯、弁天湯)。花鳥風月を愛でるのは良いことだが(桜湯、燕湯、岩の湯、月の湯)、それもエスカレートしていくと普通の動物では飽き足らずに虎だの狸だのと言い出すのだ(虎の湯、狸湯)。ついつい遊び心が頭を持ち上げるのだろうか。
それにしてもどうしてそういう屋号にしたのか皆目
見当もつかない名前もいっぱいある。クラブ湯とはどういうことか?美人や乙女というのは男の気を惹くためか、はたまた美人になれるという振れこみか。人参湯とは変わっているが、何となくどんな銭湯なのかと興味を引かれて行ってしまう効果がある。歌舞伎湯というのもわけがわからないが、オリンピック人気にあやかってオリンピック湯という安易さ。東京浴場というのも大胆で、記念湯は何を記念しているのだろうか。煉瓦湯に煉瓦がなかったら腹が立つかもしれない。塩の湯には塩湯が、電気湯には電気風呂があるのだろうね。
これからはあちこちの松の湯に
ターゲットを絞って入りまくって比べて見るとか、風変わりな屋号の銭湯を集中的に訪れて名前の由来を問いただして見るとか、そんな銭湯行脚もおもしろいかもしれないと思う今日この頃だ。銭湯の屋号
■めぐりあわせが悪い!
【2002.12.7】
ついにというかとうとう休湯日もなくなって、一週間に7回、つまり毎日銭湯に入る日々となってしまった。こんな日々をずっと続けることはできないと思うが、年内ずっと銭湯に入り続けると大晦日にちょうど記念すべき100軒制覇となる計算なのだ。1日でも欠けると年越しになってしまい、それがひどくプレッシャーになっているのだ。この「年内記録達成」に向けていくつかの問題がある。一つ目は大晦日に銭湯が営業しているかということだ。これに関しては確か去年は大晦日でも営業している銭湯があったような気がする。2つ目の問題は忘年会シーズンも近いということだ。仕事が終わってあたふたと忘年会に行かなくてはいけないような場合は銭湯に行く暇がない。へべれけに酔っ払っては銭湯に入るわけにはいかないし・・・。この大問題はいかに対処したらいいのか?!解決策その一としては、口実をつけて忘年会をパスする。しかし、人情からいってなかなかそういうわけにもいかないだろう。それなら忘年会に行ってもあまり深酒をしないようにして早めに切り上げるという手がある。しかしそれも何となくいけずではないか。となると残るは忘年会の途中で抜け出して銭湯に入ってさっぱりしてくるしかない。うむ、これはなかなかいい作戦かもしれない。トイレに行くふりをして入湯してくればいいのだ。問題は会場の近くに銭湯があるかどうかということだ。新宿や渋谷なら問題ないし、有楽町あたりでも何とかなる。六本木なら麻布十番があるし、とりあえずあり得ない話でもない。あとは根性があるかどうかということだ。しかし考えて見ると、そもそもそこまで根性を出す問題かどうかということだけれど、まあ「目標達成」とは別に宴会の途中にひと風呂浴びるなんて、なかなか風流かもね。とにかく、数えてちょうど大晦日に100軒目というのがいけない。そう、もう一つ最後の奥の手を思いついた。それは宴会のない日に銭湯をはしごすればいいんだ。二日酔いの翌日なんて絶好の銭湯はしご日和かもしれない。はたして銭湯100軒はいつの日になることやら。
訂正:先週の日記で梅が松より上等なように書いてしまったが逆でありました。お詫びして訂正です。
■金春屋敷
【2002.12.14】
新橋の金春湯を見に行ったら「金春通り」という古めかしい看板を発見。金春湯なんてあちこちにあるし、金春が通りの名前になっているとはどういうことか?そんな疑問をいだきつつ金春通りに入ると今度は「金春通り、煉瓦遺構の碑」なるものが出現。その遺構のサイドには何とパンフレットも置いてあるのだ(この新橋の街中に?)。以下、そのパンフレットから抜粋を・・・。
銀座八丁目の中央通りより一筋西側の通りを金春通りという。江戸時代ここに能楽金春流の屋敷があり、明治以降も金春通り、金春芸者などに名を残し、現在も金春湯にその名を留めている。江戸時代には幕府直属の能役者として、宅地や家禄を支給されていた家柄に金春・観世・宝生・金剛の四家があり、金春屋敷の拝領は寛永4年(1627年)で、金春家は最も伝統が古く、室町時代以降に栄えたという。金春の屋敷は、寛永の江戸庄図に金春七郎と記され、現在の銀座八丁目6・7・8番地全体を占めていたと言う。この屋敷は後に麹町に移ったが、金春の名はこの付近の芸者屋街の称として残ったとのこと。
なお、金春色(新橋色)というのがあって、ターコイズ・ブルー(青緑色)のことで、明治末期から大正にかけて新橋の花柳界で流行したために新橋色と呼ばれたとのこと。当時新橋の芸者屋が金春新道にあったことから金春色とも呼ばれたとのこと。
これを読んで、新橋の金春湯が数ある金春湯の総本山なのかと自分なりに納得(本当かどうかは不明)。まあ、何となく豪華で華やかな感じがするのは確かだし、そういうこともあって風呂屋の屋号によく使われるようになったのか。やはり能楽よりも新橋芸者のイメージ?何と言っても「きんのはる」だものねと妙に納得。白金台の金春湯、学芸大学の金春湯と相次いで金春湯が廃業となっているのはさみしい限りだ。
■カランのお湯
【2002.12.21】
文京区は新大塚の大正湯に一番風呂で入ったときのことだ。なぜか自分以外に入浴客は一人もいなかった。(ここへ来る前にすぐそばの大黒湯の前を通ったが、そちらには老人達がいっぱいたむろして待っていたのだけれども・・・)。さて、そそくさと服を脱いで早速洗い場に入り、緑椅子に腰掛けておもむろにシャワー、カランの湯を出して見たのだが、どちらも水のように冷たいのだ。ぬるめぐらいのときはあったけれども、今回のはあまりにも冷たくて限りなく水に近いのだ。とまどってどうしたものかと思案していると、窯場から若旦那が出てきて片っ端から順番にシャワーとカランのお湯を出して回っていくではないか。始めは何が行われているのかわからずにボーとその作業を眺めていた。そのうちに若旦那が近くまでやって来たので、「カランの湯がぬるいですね」と聞いてみると、「前の水が溜まってるんで、すいません」なんていう答え。
「カランの湯は循環式ではなく、しばらく水を出さないとあたたかいお湯が出てこない」ということは知っていたが、営業開始時に「カランやシャワーの水を出して回る」という作業が必要だったことを始めて知った。でも普通これは客を入れる前にやる作業なのだろうね?きっとこの銭湯ではいつも客の出足が悪いことを知っていて、店を開けてからこの作業をする習慣になっているのだろう。何しろ自分がいなければ客は他に誰もいなかったわけだから・・・。お陰で貴重なものを目撃することができたので、銭湯ファン(マニア?)としては嬉しくもそれは寒々とした体験であった。
今週のもう一つの感動は、東京都庁舎の見える西新宿に細々と営業している銭湯を見つけたときのことだ。都庁舎の高層ビルと銭湯の煙突が重なって見えるのだが、これがあまりにも象徴的なアングルで、一瞬胸がキュンとなる思いだった。
■冬の銭湯
【2002.12.28】
夜に外出するとこの頃はもう寒くて寒くて、すぐにでも暖かいお風呂に飛び込みたくなる。熱々の銭湯のお湯にでも浸かれば芯まで温まることができて、そのあとで寒さの中を歩いても体はぽかぽかでもうへっちゃらだ。ただ、あまり調子に乗って長く歩き廻っていると貯金を使い果たしてしまって、家に帰る頃にはもとの木阿弥に戻ってしまう。だから、入浴後の散歩もそこそこにしておかなければいけない。
仕事帰りに寒さの中を長々と家路につくのはほんとにつらいものだが、途中で銭湯に行くようになってからと言うものは家に着くまで寒い思いをしたことがなくなった。こんなにいい冬の外出対策はないものだとつくづく思う。「銭湯は冬こそ威力を発揮する」のだけれども、夏は夏で汗ばんだ体を銭湯で洗い流したらほんとにすっきりするけどね・・・。
今日を含めてあと4回でやっと銭湯100を達成するが、思いかえせばこの1ヶ月はなかなかつらいときもあった。特に雪の積もった日や空っ風の強かった日、そして激しい雨足の日など。そんな日々も何とか克服してついに大晦日には目標が達成できそうだ。今年最後の入浴、そして新年最初の入浴をどこの銭湯にしようかなどと考えるとなんだか嬉しい気持ちになって、早くも来年が楽しみな今日この頃だ。

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