日付は新しい日記が下に続いていく構成です

■日本史がだいっ嫌い
【2003.4.30】
「祇園精舎の鐘の音(声)、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理あり(をあらわす)」だったかな?こんなことがぺらぺらっと言えたらかっこいいよね、なんてずっと思っていた。とにかく高校のときは日本史がだいっ嫌いで、通信簿の赤字の2(これは落第点という意味)しか取ったことがなかった。というのも担当の女の先生が理由もなくだいっ嫌いで、ぜんぜん勉強しなかったからなのだ。では、どうしてその女の先生がだいっ嫌いだったかというと、ただ顔が嫌いだったからなのだ(今思うとほんとに失礼な話です)。顔がブタに似ていて眼鏡をかけているところへもってきて、笑わない、澄ましている、でちょっと更けた教育ままそのものという感じだったのだ。それはさておき、そんなわけで今になって急に日本の昔に興味が湧きまくりで、昔のことが書いてある本を読みあさっているという始末。とにかくなんにも知らなくて真っ白しろの白紙なものだから、見ること、聞くことがみんな目新しくて何と新鮮なことか。こんなに面白い対象を残しておいてくれたなんて、今ではあの日本史の先生に感謝の気持ちで一杯です。
ところで最初の「くだり」に話を戻すと、これはご存知、平家物語の始まりのところで(ん?待てよ、これは日本史というよりも古文だろうか?そう言えば古文も嫌いだったっけ!)、先週、平家物語の現代語版(しかも1冊のダイジェスト版)を読破したのだ(すごい)。後の解説を読んだら平家物語は仏教文学だと書いてあり、そうだったんだと感心。これまでは平家が栄えてから滅亡するまでのいきさつを記述した歴史書だとばっかり思っていた。で、結局、この最初の文章にこの物語で言いたいことのすべてが凝集されていることもわかった。「ゴーンという鐘の音がうら悲しくて、世の中の無常を感じてしまう、華麗な花もいつかは色褪せてしまうように、栄えるものはみな滅んでしまう、あの平家のように」という意味なのだね。すばらしい!と一人感動している不勉強な私でした。こんどは源の頼朝か?!
■旧暦の謎(1)
【2003.5.31】
日本では明治5年までは太陽太陰暦を使っていた。これは今では旧暦と呼ばれているのだが、太陽暦を採用するか、太陽太陰暦を採用するかは各国の選択の自由であって「旧(古い)」呼ばわりする理由はないらしい。現にイスラム国家は今での太陽太陰暦を採用しているとのこと。で、なぜ太陰暦でなくて上に「太陽」がくっついているのかというと、実は太陰暦というのもあるのだけれども、これと太陽暦を折衷した暦が大昔(紀元前)から存在していて、これが優れた暦として世界中で使われ続けてきたのだ。
これを無理やり太陽暦に切り換えたのは、かのローマ帝国のジュリアス・シーザーだという。このとき自分の名前を月の名前に組み込んだりしてそれが7月(July)だそうで、その際、ときの皇帝アウグストゥスも8月(August)をもらったが、シーザーの月の7月を31日間にするなら自分の月の8月も31日間にして欲しいと駄々をこねて、結局連続で31日となってしまった。そのおかげで1年分の日にちが足りなくなってしまい、一番最後の月の2月に皺寄せがきて28日間となってしまったというのだ。こんなわがままな決め方で決められた太陽暦が、何の変更もないままに世界中で使われ続けていることが驚愕に値する。
ちなみにローマ時代以前までは1年の始まりは3月だったそうで、その名残がまだ残っていて、9月をSevenテンバー(7番目の月)、10月をOct(たこの足の8を表わす)オーバー(8番目の月)、11月をNov(Nine、フランス語でもNeuf)エンバー(9番目の月)、そして12月をDec(Decaは10のこと)エンバー(10番目の月)と呼んでいるのだ。これを変えたのもシーザーで、理由は良くわからない。でも考えてみたら旧暦でも1、2、3月は春で、正月は春だったのだ(だから初春と言う)。だから旧正月は現在の太陽暦の正月よりも1から1.5ヵ月ぐらい遅いのだ。「太陽暦だから」ではなく、シーザーがそうしたから冬のど真ん中に正月があるのだ。そうわかるとどうしてNewYearに変わる瞬間をそんなに喜ばなくてはいけないのか、馬鹿らしく思えてくる。
シーザーに恨みはないが、7月をJulyと呼ぶのは止めよう、8月と5月を30日間にして2月も30日間にしよう、正月(1年の始まり)は梅の花がほんとうに咲く2、3月か桜の花が咲く3、4月にしよう、とどうして誰も言わないのだろうか。ちなみにイスラム世界の1年の始まり(正月)は9月だそうです(ラマダンはそれから数えて9番目の満月?)。
旧暦の話は次回まわしとなってしまいました。
■陰暦の謎(2)
【2003.6.21】
太陽暦では地球が太陽の周りを一周するのを1年としているが、もちろんぴったり365日ではなくて365.2422日かかる。それで1年を一応きりのいい数字の365.2425日と近似して4年に1回1年を1日長くする。すると、ほぼ4年で地球が太陽の周りを4週する計算になるのだ(これをグレゴリオ暦という)。でも正確にはこれでも暦の方がほんのわずか(0.0003日/1年)長いからいつか1日減らさなくてはいけない日が来る?

太陰暦は月が太陽の周りを一周するのを1ヵ月とする暦だ。しかしこれも29.53日とやはりぴったりした数字ではない。それで29日の月(小の月)と30日の月(大の月)を設けることによって微調整しているわけだ。それでは太陰暦の1年はどうやって決めるのか。1年が12ヵ月でなければいけいという理由は何もないのだが、29.53日を単純に12倍すると354.37日となって365日に一番近くなる。つまり地球が太陽の周りを一周する間に月は地球の周りを12週ちょっと回っているということなのだ。しかし、小の月と大の月で微調整しても1年は354日となって11日早く進んでしまう。そこで工夫されたのが太陰太陽暦というわけだ。

月の1年は太陽の1年に11日足りないわけだから3年経つと33日、すなわち約1ヵ月もずれてしまうのだ。それならば3年に1回、1年を13ヵ月にすればいいというのが太陰太陽暦の考え方だ。しかしもう少し正確に調整するためには19年に7回の割合で1ヵ月増やせばいいらしい。この増やされた月を閏月(うるうづき)といい、閏月の入る年を閏年(この年は1年が384日になる!)という。で、1年のどこに閏月を入れるかはその年によって一定しておらず、季節がずれないようにある法則に従って決定される(詳細省略)。月の呼び方も12月の後ろに13月を作るのではなくて、例えば8月の次にもう一度「閏8月」が入ったりする。

旧暦(太陰太陽暦)でもう一つ大切なことは季節との関係。「旧暦は新暦のひと月遅れ」というイメージがあるが、それは旧暦時代の日本の春が1、2、3月であったから、逆に言えば1年の始まりを春にしていたからだ。地球の太陽周回軌道(これを黄道という)360度を24等分してこれに季節の用語をつけたものがある(二十四節季)。基点0度は春分(昼と夜の長さが同じ)で、90度が夏至(昼の長さが一番長い)、180度が秋分(昼と夜の長さが同じ)、270度が冬至(昼の長さが一番短い)で、このほか立春、立秋、小暑、大暑、小寒、大寒などなど。で、旧暦の閏月を決めるときの法則に、「春分は2月、夏至は5月、秋分は8月、冬至は11月に必ず入るようにする」という決まりがあったのだ。だから必然的に1月が春になるわけだ(これは太陰暦にはない、太陰太陽暦ならではのもの)。

旧暦では月の15日はいつも満月で、このときは満潮になっている関係からか、出産も犯罪も多いという。このように月を基準にした暦は人間のバイオリズムに同期している。さらに二十四季節を使って季節のずれも調整しているので、自然のバイオリズムにも合っている、体にやさしい暦なのだ。旧暦の欠点は単純な繰り返しでない点で、これがIT(コンピュータ)時代にそぎわない唯一最大の理由なのだろう。ちなみに明日(6月22日)は夏至。(参考文献:松村賢治著「旧暦と暮らす」ビジネス社)。

おまけ:太陽の直径は139万キロ、地球の直径は太陽の100分の1(1.3万キロ)、太陽と地球の距離は14700万キロ(太陽の直径の100倍)、月の直径は地球の4分の1(3000キロ強)、月と地球の距離は38.4万キロ(月の直径の10倍強?)とのこと。

太陽が地球の100倍で、距離がその100倍。これは何となく納得できる?
で、月が地球の4分の1で、距離がその100倍以上(地球の直径の30倍)!というのは意外。月ってそんなに大きいの?!それにそんなに離れている?
■江戸時代の時刻は・・・
【2003.6.22】
今度は江戸時代の時刻の数え方についての話。「八つ」と言ったり、「丑三つ」と言ったりどうなっているのだろうか。その答えが、以前にも紹介した岡本綺堂著の「風俗江戸東京物語」(河出文庫)に書いてあったので紹介。

まずは深夜から順に約2時間ごとに時刻の数字が名付けられていて、九つ(今の午前0時ごろ:以下同じ)、八つ(午前2時)、七つ(午前4時)、六つ(午前6時)、五つ(午前8時)、四つ(午前10時)ときて正午で九つに戻る。さらに正午から深夜までも同様だ。なぜ、数字が九から始まって小さくなっていくのかというとその理由は意外と簡単だった。「易の陽数の九」が基本の単位となっていて、それを2倍(十八)、3倍(二十七)としていって十の位を捨てるというわけだ。

ところで時計なんかはもちろん普及していなかったわけだから、どうやって時刻を決めていたかというと、日の出と日の入りをそれぞれを明(あけ)六つと夕(ゆう)六つと決めて、それを基本にして昼と夜を6等分して時刻を決めていたというのだ。そんなわけで、昼間は明六つ(日の出)から、五つ(午前8時前後)、四つ(午前10時前後)、九つ(正午)、八つ(午後2時前後)、七つ(午後4時前後)ときて、夕六つ(日の入り)までとなるわけだ。ところで、当然昼と夜の長さは季節によって違うわけだから、一時(いっとき)がいつも同じ長さ(2時間)ではなくて、2時間20分になったり、1時間40分になったりしたわけだ。何だか不便な気もするが、日の出はいつでも明六つだし、日の入りはいつも夕六つのわけだから、分かりやすいと言えば分かりやすい。

ところで、この数え方では「三つ」はないのにどうして「丑三つ」と言うのか?丑とはどういうことか?というと、実はやはり別な数え方があったのだ。それは時刻を十二支に割り当てて呼ぶ方法だ。やはり深夜から始まって約二時間ごとに子(夜九つ)、丑(八つ)、寅(七つ)、卯(明六つ、つまり日の出)、辰(五つ)、巳(四つ)、午(昼九つ、すなわち正午!)、未(八つ)、申(七つ)、酉(夕六つ、つまり日の入り)、戌(五つ)、亥(四つ)となる。で、時の鐘を鳴らすときに用いていた水時計には48の刻みがあったことから一時(いっとき)には四刻みあり、それを一つ、二つと数えていたらしい。そうすると、丑が午前2時だから丑一つは2時半、二つが3時で丑三つは午前3時半ということになる。また、このほかに一時(いっとき)を3等分して上刻、中刻、下刻と言う呼び方もあったらしい。ところで江戸城の周辺にあった「見附」では明六つの太鼓がなると門を開け、夕六つの太鼓がなると門を閉めていたらしい。
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■沖縄の歴史(1)
【2003.7.22】
沖縄の魅力は何だろうと考えてみると、きれいなサンゴ礁の海、マングローブの森などの亜熱帯気候の大自然がまず目に浮かぶが、さらには泡盛やチャンプルー、沖縄ソバなどの沖縄料理、エイサーなどの沖縄の踊り、島唄などの沖縄独特の民謡、首里城蹟などの名所旧跡。しかし、この辺まで思い浮かべてくると、やはりその昔は「琉球王朝」というものがあったことを考えないわけにはいかなくなってくる。それはわかっていたことなのだけれども、「琉球王朝」ってどんなものだったのか、沖縄のひとの祖先はどういうひと達だったのかということになると、これまでほとんど知らずじまいできた。そこで、これを機会に「沖縄の歴史」について勉強してみることにした。そんなわけで、読みあさってみた本は3冊:「沖縄の歴史と旅」(陳舜臣著、PHPエル新書)、「沖縄チャンプルー事典」(嘉手川学編、山と渓谷社)、「沖縄 時間がゆっくり流れる島」(宮里千里著、光文社新書)。忘れないうちにわかったことをまとめてみることにした。

歴史となるとどうしても太古の時代から入るのだよね。で、具志頭村(ぐしかみむら)で発見された「港川人」(みなとがわじん、港川は地名)化石人骨は2万年ぐらい前のもので、日本の縄文人とは異なって中国は華南の「柳江人」に似ているとのこと。どうやらこの時代は世界中の海面が今より140メートル低くて、沖縄は中国南部と陸続きであったらしい。

ずっと時代は下って紀元前1000年以上前のこと(柳田国男の「海上の道」という定説が有名らしい)。とにかく、有史上確認されている中国最古の王朝「殷」帝国で貨幣として使われていたのが「子安貝」で、この子安貝のアジアにおける最大の生息地が宮古島であった。で、子安貝採りに来た殷人が稲作を沖縄に伝えるとともに、沖縄さらには九州人の祖先となったという説である。

以後、長くに渡り「沖縄貝塚時代」が続き、12世紀前後に始まる「グスク時代」へと移行していくが、沖縄貝塚時代の記録はなんと沖縄には残っていないという。なお、沖縄を中心として奄美から先島にいたる地方にはグスクと呼ばれる城塞的遺跡が点在していて、これらが造られた時代をグスク時代と呼ぶらしい。
そしていよいよ伝説の時代から現実の人物が琉球に登場する「按司時代」(12世紀末)へと入る。ちなみに「按司(あじ)」とはこの時代の琉球の権力者の総称のこと。この先の話は次回へ。

付録:
「琉球」をはじめて記したのは中国の「隋書」。607年に隋の皇帝は海師を「流求」に派遣した・・・云々。古来日本では九州南方海上の島を南島といい、はじめの大きな島の「屋久(やく)」や「種子(たね)」で代表させたりしていたらしい。小野妹子は屋久のことを「夷邪久(いやく)」と言ったが、「流求」を中国古音で読むと「いやく」に似ているという。ちなみに「琉球」の文字がはじめて使われたのは14世紀以降のこと(明の洪武帝の時代の銀印)。日本の記録では「日本書紀」「続日本書紀」にタネ、ヤク(夜久)、アマミなどの記載があり、「唐大和上東征伝」の753年の記載に「阿児奈波(おきなは)から益救(やく)を経て薩摩に入る」という記録がある。これが文献上、はじめて「オキナハ」ということばが使われたものらしい(すると「ナワ」は「ナハ」と同じ?)。江戸時代までは文字よりも言伝がコミュニケーションの中心だから同じ音に対して後で違う漢字が当てられることはよくあることだよね。
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■沖縄の歴史(2)
【2003.7.23】
群雄割拠で数多くの小さなグループに分かれていた時代から全島の統一が行われるまでの過渡期に三山時代がある。琉球史上最初の実在の人物は「舜天(しゅんてん)王」である。舜天は諸按司に推されて天孫氏という有力な按司の家系の後継者となった。舜天の家系は3代続いて「英祖(えいそ)」に位を譲り、英祖系は5代続いた(中山系)。これらのほかにも有力な按司がいて、舜天らの中山(ちゅうざん)のほかに南山(なんざん)、北山(ほくざん)があり、この三山が覇を争っていた。

中山系ではその後、「察度(さっと)」が政権を掌握(2代続いて「尚巴志(しょうはし)」に滅ぼされる)し、中国の明国と初めて冊封(さっぽう)関係を結んだ。冊封とは「皇后、皇太子、諸侯などを任命すること」であり、琉球は明国の属国として諸侯の扱いを受けるようになったということである。それは明国の冊封体制の中では冊封を受けなければ明国と交易ができなかったからである。しかし、これはもちろん平等な関係の交易ではなく、「属国が宗主国に貢物を献上し、宗主国はそのお返しに高額の物品を下賜(かし)する」という形で行われた。このような中国に対する表向きの従属関係が全島統一後も続けられ、なんと明治維新に日本に併合されるまで続けられたのである。

中山に続いて南山、北山も明国に入貢して馬や硫黄(火薬用)などの軍需品を貢し、鉄器や陶器、船などを下賜されていた。それで明帝は三山に和解をすすめたため、表向き和解していることにしつつ、抗争は続いた(後日、琉球が薩摩に支配されたときにも表向きは中国に対して独立した琉球王国のふりをして交易を続けたとのことである)。そのうちに明帝は下賜品ばかりでなく、特技を持つ人々(福建人)をも下賜するようになった。琉球に下賜された福建人(三十六姓:多くの苗字のひとということ)はおもに船舶関係だったが、進貢関係の文書を作成する仕事、通訳などもいて、多くは久米村に居住していた(唐栄)。

尚巴志(しょうはし)は中山の覇を奪ったあと、北山を併合し、さらに南山を併して三山を統一した(1429年:第一尚氏政権。7代続いたあと、家人の金丸が世子、尚円となって跡を継ぐ)。尚巴志は王府をこれまでの浦添から首里に移して首都を建設した。なお、中山王が奄美五島を掌握したのは16世紀の後半(1571年)になる。続きは次回。
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■沖縄の歴史(3)
【2003.8.16】
初めて明に入貢したのは南山の察度。それ以来、思紹(ししょう)(尚巴志の父で察度の子の武寧(ぶねい)の世子となり、形式上の第一尚氏政権の創始。以後、尚巴志、尚忠、尚思達、尚金福、尚泰久、尚徳と続く)、尚円(尚泰久の重臣で尚徳の世子となったが、血縁関係なし。第二尚氏政権の始祖。尚宣威、尚真・・・と続く)と王統は三たび変わっているが、明では琉球は入貢以来父子相伝の同じ王統とみなしていた。尚という姓は明からもらった「賜姓」であると言われているが、諸説がある。

舜天王以来の琉球の政権は、舜天王系(三代73年)、英祖系(五代90年)、察度系(二代56年)、尚巴志系(7代64年)といずれも短命で、100年を越えた王統はなかったが、尚円の王統は1470年から始まって廃藩置県に至るまでの十九代410年間も続いた(ちなみに徳川の江戸幕府265年、中国の明275年、清269年で、李氏朝鮮が約500年であった)。尚巴志以降の六代にわたって10年を越えた統治者はいなかったが、12歳で王位に即した尚真王に至って、ついに50年の治世(琉球王朝で最長)が実現した。

護佐丸(ごさまる)・阿麻和利(あまわり)の事件:尚泰久5年(1458年)、泰久王の娘を妻とした阿麻和利が謀反を起こし、これを妻の家臣の大城賢雄(おおぐすくけんゆう)らが鎮圧した。この事件で尚巴志の妃の父である護佐丸が阿麻和利に討伐された。きっかけは妻と大城の恋愛とか、泰久王の豪族つぶし策とか、泰久王の腹心の金丸の画策などと言われている。

尚家のもとで海外交易が盛んになり、蘇木(そぼく)と胡椒を求めて東南アジア各地に進出した。首里城正殿にかけられていた「万国清梁(しんりょう)の鐘」の銘文には「琉球は蓬莱の仙境であり、船をもって万国の架け橋(清梁)にしよう」と決意が述べられている。このような南海貿易によって支えられた思紹、尚巴志の時代から第二尚氏の尚真王の時代までが琉球王朝の全盛期であった。
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■沖縄の歴史(4)
【2003.8.17】
第二尚氏政権の尚真王の時代(15世紀、1477年よりちょうど50年間)は琉球王朝の黄金時代と言われ、人々は「嘉靖(かせい)の栄華」と呼んだ。この時代に尚真王は琉球の内政面の整備を行った。全島の按司(あじ)たちを首里に集め、按司たちの領地には代官を派遣した。武器を携帯すること、殉死を禁じ、首里の大族を王府にとりいれた。宮古・八重山を完全に王府の支配下に入れた。神女の力が非常に強かったが、政教分離によって神女勢力を抑えた。

明国をはじめとして日本や朝鮮との往来も盛んで、南蛮貿易は盛隆を極めていた。しかし、このような尚真王の時代も後期になると翳りを見せた。1498年にヴァスコ・ダ・ガマがインド航路を発見し、中継貿易を得意とする西方諸国の東アジア進出が始まって、琉球は大きなダメージを受けるようになった。

日本が勢力を増大させていった時代とも重なって、日本は琉球をしだいに属国視するようになり、秀吉は応仁の乱の後に褒美として亀井某に勝手に琉球を与えて、亀井琉球守などと任命した。朝鮮出兵のあとには今度は実際に島津が琉球に侵攻し、尚寧王も駿府・江戸へ参内させられるようになり、琉球はこれ以降、島津のそして江戸幕府の支配下に置かれることになった。そんな状況の中でも島津の同意の下に、王統の継承と明国への朝貢国としての立場は継続され、名宰相の蔡温(さいおん)に補佐された尚敬王などの近世の名君を輩出して第二の黄金期を築くこともあった。

時代が変わって中国では明が亡びて満州族の清がこれにかわったが、琉球は新政権の清にも進貢を続けた。しかし、アヘン戦争の以後にもなると、清国も欧米諸国に開国を余儀なくされるに至り、琉球にもペリーが三度来航して琉米修好条約を結び、以後の日米修好通商条約へとつながって行った。そしてついに明治維新を向かえ、明治5年に「尚泰(しょうたい)を琉球藩主として華族に列す」との勅文を受け、さらに明治12年(1879年)の廃藩置県によって沖縄県となるに至って、琉球王国の終焉を迎えたのであった(終わり)。

ニライカナイの世界観:最後に沖縄の宝−沖縄の人の心について触れると、それはしあわせは海の向こうからもたらされるという「ニライカナイ」の世界観で、外来の人はしあわせをもたらす人とみて大切にすることである。このような「ニライカナイ」の協調思想を生かして、将来琉球が東アジア経済圏構想の核となる中継基地となって、「琉球の時代が再来すること」が夢みられている。
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■どのくらい銭湯へ行く?
【2003.10.7】
9月24日に銭湯のオフ会に参加してからというもの、また「銭湯ごころ」に追い討ちで火がついて、ジェット機が加速してしまっている状態だ。で、「ほかの人たちはどのぐらいの頻度で銭湯に行っているのだろうか?」というシンプルな疑問が沸き、その答えが知りたくてむずむず。
オフ会のときにはまずこの道の大御所、町田師匠に直撃インタビュー(蒲田温泉のロビーにて)。すると、「今は取材が多くて、一人で行くことは少ないですね。」とのお答え(ん〜、よくわかんないな〜)。それで、西の横綱のぐっちゃんにもお伺いを立てた。「東京の銭湯訪問は2順目に入っているんですよね。今は関東近隣の銭湯が多いんですか。」「そうですね。」(ん〜、聞き方が悪かったか?)それで、仕方がないので、つかささんが銭湯三兄弟と自称している方々の銭湯訪問の頻度を勝手に分析してしまうことにした(幸い、3人とも自分のホームページに銭湯訪問記録を掲載していることだし・・・)。

まずは3兄弟の中では最古参のやすさん(かつてのホームページのタイトルが「きむやすの銭湯日記」だったことを発見、今は「やすの銭湯日記」ですね)。
http://www.kimuralab.org/yasunori/sento/index.html
最初の銭湯リポートが荏原の三光湯(1996/3/10)。その年の入湯数は23軒、2年目の入湯数が49軒(計72軒)で、3年目の半ば、銭湯めぐりを始めて約2年半ごろにめでたく100軒目をなんとking of sentouの足立区の大黒湯で決めている!(このあたりに深いこだわりが感じられるぞ。パチパチ)。ペースとしては最初が2週に一回、その後が週一と意外にスローペースですね。結局、3年目は34軒(計105軒)と一旦ペースダウンするが、4年目は45軒(計150軒)ともちなおし、5年目にあたる年末の12月30日に200件目の入湯を何と日本堤の廿世紀浴場で決めたのであった(これまた、パチパチ、ひゅ〜ひゅ〜)。それで5年目は55軒(計206軒)、6年目は44軒(計250軒)で、杉並から門前中町あたりに引っ越されて6年目は31軒(計282軒)と足踏みをして、今年の8月末の時点で291軒目と元気を取り戻し、現在300軒を目前にしている。そうすると、やすさんの入湯ペースは週末毎?という感じなのでしょうか。

次がご存知(もちろん、知る人はご存知)のDEEP ACIDさんの番ですよ(ホームページは「DEEP ACIDの部屋へようこそ!!!」というものだが、この中に銭湯リポートがある)。
http://www.ni.bekkoame.ne.jp/be1773/sento/sento.html
やすさんに遅れること1年半、DEEP ACIDさんの銭湯めぐりの最初のリポートは、皇居ランナーにおなじみの千代田区のバン・ドゥーシュ(1997/10/1)で始まった。10軒目が2ヵ月後(12月)、20軒目がさらに3ヵ月後(3月)というペース(週1〜2回?)で始まって、1年目は55軒(週1回ペース)の成果。2年目の6月には奥多摩の麻葉の湯でめでたく100軒目を向かえ、2年目の終わりまでで年69軒(計124軒)とペースを上げている(このあと「東京銭湯マップ2002」の配布が始まったと記されている)。で、3年目終了直前の9月に横浜の菊乃湯で200軒目を向かえて、結局3年目は何と80軒(計204軒)、4年目は69軒(計273軒)とやや円熟期を迎えたものの(このあと東京マップの杉並区を制覇したとの記載あり)、5年目の途中の2月に群馬は桐生市のホテルきのこの森で300軒目を向かえ(記念すべき日の場所はこだわってないらしい)、晴れて5年目の終わりには年70軒(計343軒)とペースを保ったのであった(この直前に背景画によく描かれている能登半島は見附島の見学ツァーを慣行)。そして6年目の今年の七夕(7月7日)の日に東京は代々木の天神湯でめでたくも記念すべき400軒目を飾り、ちょうど6年目の区切りである9月下旬までに年91軒(計434軒)と過去最高のペース(週2回に近い)を記録している。

そしてとりはもちろんつかささんです(ホームページはおなじみ「銭湯・温泉・サウナ王国」)。
http://www.kt.rim.or.jp/~tsukasa/sento/
つかささんの場合はとってもわかりにくい。というのも一番新しいリポートが一番上の1番ななっていて、最終番が一番古いのかと思ったらそうでもない。で、そこらあたりを見まくってみると、どうも2000年1月頃からはちゃんと順番になっているようだ。銭湯に通っていたのはそれからさかのぼること5年ぐらい前(レポートの一番古いのは1995年10月のアクア東中野となっているが、年月日の記載のないものもある)なのだが、ホームページの立ち上げは1999年8月20日となっている。とにかく翌年になって世田谷美術館で開催された「銭湯パラダイス」という企画で町田師と出会ってから急激に気合が入っているっす(つかさ風)。意外なことに銭湯巡りに参戦したのは比較的最近だということです、はい。で、ホームページを立ち上げてからの入湯ペースは、8月(6軒)、9月(9軒)、10月(9軒)、11月(8軒)、12月(8軒)とこの頃は結構かわいらしい感じです。そんなわけで、2000年1月からのペースをチェックしてみると、最初の年(2000年)からエンジン全開の年242軒(東京197軒+東京以外45軒)、2001年になると東京外の銭湯が激増して合計は年228軒(東京118軒+東京以外110軒)、2002年もその傾向は衰えずになんと合計で年259軒(東京154軒+東京以外105軒)で、今年も既に5月の時点で103軒(東京47軒+東京以外は東京を上回る56軒)という状態(なお、これらの数字には温泉・サウナ施設は含まれておらず、「銭湯」のみ)。結局、今年5月の時点での入湯した銭湯の総計は907軒であり、もうすぐ大関に昇格しようとしている(2000湯で横綱か?)。この間のペースとしては脅威の週5〜6回か?(よくわからん)。休肝日(酒を飲まない日)ならぬ休湯日が週一日という感じです。

で、最後に自分はというと2002年のほぼ1月頭から銭湯巡りを初めて8月末からエンジンがかかり始め、12月には月間33湯(32軒)とちょっと無理をして、晦日にやっと入湯100軒を達成したのであった。3兄弟のほかの2人が100湯までにそれぞれ2年半と1年半かかっていることを考えるとビギナーとしてはなかなかのペースだったことがわかった!(最近のナカムラさんのハイペースにはかなわないが・・・)。
「分析おたく」の自分としては、分析ついでにいつかはつかささんの「東京以外の銭湯」の訪問状況や「星付きの銭湯」について調べてみるか!
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■続・銭湯
【2004.1.23】
おととしは年末に入湯100軒を達成したのに、去年はどうやら200に届きそうにない状況だとわかった。それで12月12日以降はやっきになって入りまくり、12月29日にはなんと1年ぶりの銭湯の「はしご」もしたけれど、結局大晦日に180軒め。でも何とか200軒が見えてきたぞ。(今日現在で188軒、とはいえ普段は数字のことは忘れているのだけれど・・・)。
もうひとつは「杉並の銭湯」を歌っているわけだが、いよいよ杉並の銭湯も50軒中46軒を踏破して、残すところあと4軒と迫ってきたのだ(残念ながら50軒中1軒が廃業してしまったが・・・)。
そして最後にとっても寂しいことは、娘がとうとう10歳になってしまって、もう2度と一緒に男湯に入れないことだ(東京の条例で9歳までと規定されているので・・・)。12月31日にはきっと今日がその最後の日になるだろうと思い、記念すべき日にふさわしい名前の「桃の湯」でオーラスを決めたのであった。それにしても杉並の桃の湯がすでに廃業してしまっているのはとても残念なことだ。あの桃の湯のそばの女子寮に住んでいた若いおねえさんたちは桃の湯のことを「ピーチ」と呼んで親しんでいたという話なのだが。
それにしても全国的にも銭湯の廃業が相次いでいるようで、とっても残念なことだ。確か町田師匠が記念すべき2000湯目を飾った仙台の開福湯などはなんと大正時代の創業だったとか。一度行ってみたかったところの筆頭だったのに、残念なことに去年いっぱいで暖簾を降ろしてしまったのだ。
で、そんな反面、押し寄せる波のように時として小さな銭湯ブームが巻き起こることもあったりするわけで、去年にしても雑誌やテレビで何度も銭湯特集を目にしたものだ。そんなブームに乗ってか、このホームページも年末に「A to Z」という女性向けのフリーの雑誌にとり上げてもらったかと思ったら、昨日は毎日新聞の夕刊の編集者からメールをもらって、今書いている「梅」の記事の中で銭湯の屋号としての「梅」の話を差し挟みたいと・・・(去年の「1010」8月号の屋号特集は「東京レトロを行く」に掲載してあるデータをもとにしたものなので、「1010」を出典にしてもらうようにお願いした。で、その記事の掲載は1月26日付けの夕刊の2ページ目だとのこと)。
今年の目標、それは早く東京中の銭湯をすべて訪れてみたいということ(現在、銭湯の外観の下見だけなら500軒を越えているので・・・)。ちなみに「つかさ」さんによると、入湯200軒で新人王、1000軒でフリーエージェント、2000軒で名球界入りとのこと(つかささん、もうフリーエージェントになっているんでないの?)。私もせめて早く新人王を獲りたい。
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■杉並区銭湯全軒感謝!
【2004.2.20】
やっと杉並区内のすべての銭湯に入湯することができた。それは「杉並区内の銭湯めぐり」を開始しておおよそ2年目のことであった。ともかくも祝全軒入湯、そして感謝。
2年前の2002年の1月にはとりあえず家の近くにある梅月湯(下井草)、大師湯(上井草)、森の湯(下井草)あたりに入湯していた。杉並区内の他地域にある銭湯に初めて出向いたのは代田橋の弁天湯(2002年2月11日)で、これは廃業情報によるもの。3月も同様で西永福の大黒湯が廃業と聞いてぎりぎり最終日(2002年3月31日)に入湯し、初めて「銭湯が暖簾を降ろす日」の悲哀を味わった。その年のゴールデンウィーク開け、いよいよ本格的な杉並銭湯めぐりを開始。第一弾として「杉並のking of sento」と目される西荻窪の玉の湯に入湯(5月11日)。続いて懸魚の立派な高円寺の小杉湯へ・・・その後、8月に「銭湯マップ2002」が配布されるまでの間に先の大師湯(上井草)と新たに桃の湯(和田)、白山湯(富士見ヶ丘)が廃業となり、マップに掲載された杉並区の銭湯数は51軒ということになってしまった(さらに高井戸東の平和湯は長期休業中のままなので、事実上は50軒)。
その後の2年間、いろいろ思い出すこともある(ラベンダー湯にゆず湯、子供銭湯スタンプラリー、なみのゆでの町田師の銭湯談義、「杉並文化問題懇談会」のY.T.さんが作成した「区民がつくるすぎなみ銭湯まっぷ」などなど)が、たらたらと銭湯巡りを続けているうちに2003年12月の時点で残すところ7軒となり、年が明けた2004年1月に宮下湯、大黒湯、大和湯、ニュー石原湯、こがね湯と決めて、2月5日に吉の湯、そして2月14日(聖バレンタインデー)に代田橋の和泉湯で50軒目を飾った。この間に廃業したのは幸いにも本天沼の第二文化浴場だけということはなかなかすばらしいことだ(2年前の連続5軒廃業に比べれば・・・)。
実は期せずして(というか期したのだが)、杉並50軒目がちょうど全体の200軒目で、つかささんの名湯会入りの銭湯ランクでやっと「新人王」に達した(程度)なのであった。
因みに30湯は「高校球児」、1000湯で「FA宣言」、2000湯でやっと「名湯会」入りで、3000湯が「湯聖」、5000湯で「湯神」だそうだ(湯神ってもういるのかいな??)。これからも名湯会を目指してGO(なんて古い表現、わざと使ってみました)。で、とりあえず今日(201湯目)はどこにしようかというのが今の悩み。
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