2006年の大雪

『中井久夫との対話』の著者、心理学者、村澤和多里さんがTwitterで紹介していた本。

非常に意欲的な研究で、スリリングな読書体験だった。

「八甲田山雪中行軍遭難事件」については、映画も観て原作となった小説も読み、感想も残している。一言で言えば、忘れがたい作品。

その「雪中行軍を民俗学的に研究する」とは、どういう本なのか。興味をもって読み出したら止まらなくなり、一気に読み終えた。

本書の企図はまえがきの注にある次の一文に集約される。

本書では、遭難の衝撃が語りや行為、表象やモノを生み出し、それらを通じて社会のなかで遭難と言う出来事が記憶されていく過程を明らかにし、その際に作業する政治的な力学を解剖していこうとする。

この企図は、現地に建てられた後藤伍長の銅像について書かれた部分でより具体的に説明されている。

二十世紀の日本の歴史のなかで、後藤伍長の銅像は「勇士」「軍人精神」の象徴から、敗戦によって「軍国主義の遺物」として無視されることになる。そして「観光名所」として再発見され、さらには「文化財」として評価されるに至った。
(第5章 仮死の記念碑 4 遭難記念碑の二十世紀)

「文化財」となる、ということは政治的な意味合いを剥奪されるということを意味する。「文化財」として愛でられる一方、「雪中行軍遭難事件」は記念碑の文字にだけ残り、その実態は忘れ去られていく。

一つの出来事が「事件」として報道されて、公的に記憶されて「正史」となる。しかし、「事件」の風化とともにやがて忘れ去られ、「歴史」の中の一つの「挿話」となり「歴史」から消えていく過程。本書の企図を私はそう読み取った。


しかし歴史は繰り返す。一つの出来事が政治的な意味を帯びて実態をかけ離れて人々の心に影響を与える、著者はそうした操作が「軍神」などの言葉によって、日露戦争から太平洋戦争まで活用されてきたことも指摘している。

そういう事態は現代でも起きているように見える。

9.11でハイジャック機を奪還した乗客などが一例。「事件」は「勇者」を生み、やがて「事件」の風化とともに「忘却」されている。

ビキニ環礁で水爆に被爆した「第五福竜丸」も一例としていいだろう。被爆して有名となり反核運動の象徴となるも、その後、忘れられるために見捨てられ、現在は記憶を残すために展示されている。そうしてかろうじて「事件」の風化を押し止めている。

著者の危機感はここにある。歴史を繰り返さないためにも、「出来事」が「事件」として報道され「正史」になり上がり、やがて単なる「挿話」になり下り、「忘却」される過程を「解剖」しなければならない。


「雪中行軍」を一気に全国的に知らしめた新田次郎の小説『八甲田山 死の彷徨』と映画『八甲田山』についても、「雪中行軍」が「見世物」と化した極点として紹介されている。

言葉を換えれば、映画では「雪中行軍隊」は勇士でもなければ被害者でもない。エンターテインメントの役柄になってしまっている。

ここにも、「事件」→「報道」→「正史」→「風化」→「見世物」→「忘却」のサイクルが展開している。

この小説と映画の比較では、私が感じたことと同じことが書いてあり、うれしい気持ちで共感した。


本書のもう一つの読みどころは、靖国神社合祀の恣意性を詳しい資料と丁寧な論述で解き明かす「第6章 遠い靖国」。

遭難事件当初、犠牲者は軍や政府、皇室からも手厚い扱いを受けた。その仕上げが「靖国合祀」だった。多くの遺族は「靖国合祀」をもって子息の不幸を納得した。

しかし紆余曲折の末、合祀はされなかった。

著者は遭難者たちが合祀されなかった事実から「靖国合祀」の恣意性を明らかにする。

   むしろ合祀をめぐる議論から見えてきたのは、そもそも祭伸の資格についての首尾一貫した基準など存在しないということである。
(4 合祀否決)

その経緯は本書の熱のこもった詳述に譲るが「合祀された」と広く信じられていたこと、そのことが遺族を安堵させたという事実に靖国神社の影響力の強さを感じる。

靖国神社をそれこそ神格化したい人たちには、「祭神の資格の恣意性」を畳み込むように論じている本章をぜひ読んでもらいたい。そして公正で不偏不党の慰霊地が建設されることを願う。


ところで、本書のあとがきには、本研究が困窮のなかで進められたことが吐露されている。苦労の一部が本文にも忍ばせてあり、本書を読み物としても面白くしている。人文学系の博士課程は経済的に厳しい。このまま改善されなければ、やがてこのような画期的な研究も世に出なくなってしまうだろう。


すでに述べたように、「事件」が「政治化」して公的な「正史」となり、時の政権に利用されることは「雪中行軍遭難事件」に限ったことではない。

歴史を繰り返さないためにも、熱意をもって丁寧に「正史」を「解剖」していく本書のアプローチはよい手本となると信じる。


さくいん:『八甲田山』