烏兎の庭 第一部
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2.22.03

非連続の時代、出井伸之、新潮社、2002

昼食を一緒にした人がもっていたので、借りて走り読み。

ソニーは、クオリア(Qualia)を提供する会社だという。クオリアとは、数式や言葉では定義できない感動。「人間の原始的な感覚に訴える感動」のこと。

心地よい音楽を手軽に聴ける機械や、迫力ある映画を鮮やかな画面で見ることが出来る機械を提供されることは、消費者としてはありがたい。ただし、感動はそのままではただの感動であり、何もしなければ忘れられてしまう。消えていく。そこで感動を内面的に結晶化する作業が必要になる。


クオリアの説明を聞いて思い出すのは、森有正がいう「純粋感覚」辻邦生がいう「感覚のかたまり」。どちらの言葉にも原初的な感動という意味合いがある。そうした感動は、そのままにしておくだけでは人間の存在にとって意味のある「経験」に深まることがないと森や辻はいう。

「経験」に深める必要はない、そうしたい人はともかく、原初的な感動をそのままにしておいてもいいではないか、という反論もあるかもしれない。要するに、そこまで深刻になることはないではないか、という意見。

原初的な感動をそのままにしておくことはよくない、と私は思う。「経験」の問題は、思想の問題にとどまらない。ビジネスの問題にさえ関わる。なぜなら、クオリアが単なる快楽、単なる感動で終わってしまえば、その感覚は生活の必要部分の外に、結局のところ押しやられてしまうから。

そうなると、ボーナスがないので美味しいものは食べない、財政が苦しいので文化に予算は出せない、景気が悪いので感動、クオリアなどと言っていられない、などという論法につながってしまう。


クオリアと似たような響きをもつ言葉が、二十年ほど前に大流行した。それは、アメニティ。心地よさや、快適さなどを意味するこの言葉は、経済成長を極めたバブル期に、住宅、家電製品からファッションまで、あらゆる分野でずいぶんともてはやされた。

ところが景気が悪くなった途端、アメニティは聞かれなくなった。まるで心地よさや快適さを口にするのは罪悪であるかのような雰囲気にのみこまれ、節約、勤勉、忍耐、そんな言葉ばかりが強調されるようになった。

音楽を聴いたり、映画を見たりすることは、ただ楽しいからするのではない、人間の生に必要不可欠だからである、と言わなければ、クオリアは景気の変動で浮き沈みする小舟となってしまう。それでは、景気が悪いときには、クオリアを提供する機器を誰も買わなくなってしまう。

そうさせないためには、クオリアを単なる原初的な感動ではなく、個人にそれぞれに生活に不可欠な精神として受けとめさせなければならない。それが、クオリアの内面的な結晶化ということ。

クオリアをより多く、より深く感じさせる機械をつくることは、さほど難しいことではない。技術が進化すれば、より性能が向上した製品が次々と出てくる。ところが、クオリアを結晶化させる過程は、孤独で内面的な行為。だから、ともすれば悲壮で苦行めいたものになりやすい。そうした行為じたいを、クオリアに満ちた体験となるように補助する機械は作れないものだろうか。

そういう製品がソニーから発売されるなら、ぜひ買いたい。



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