プロローグ - 月面基地にて

 あちこちの荷物も区画も整理され、増員分の部屋もひとり残らず割り当てられ、GTGの月面基地は新しい体制に移行しつつあった。ただ、前司令官のアルキメデス・マーゴが負傷のため、司令官交代の儀は元以上に簡易的に行われ、正式なものはマーゴの回復を待って、と先延ばしにされたまま、エステル・ラーズは動き出していた。
 技術部の再編成とバリア強化や各損傷箇所の修繕、地球監視体制の強化に対外への釈明の準備。彼女がまず行ったのは、有事ではあるものの、有事が日常茶飯事である最近においては司令として当然のことばかりだ。
「昨夜の襲撃の様子は付近を航行中の航宙機や、それによる中継で各地にほぼリアルタイムに流された映像を見ていたかたたちも目撃されています。こちらの砲撃が正当防衛であることは納得いただけると思われます」
 新司令と同様に最近この基地に来たアーミラが、よどみのない声でレポートを読み上げる。
 しかし、エステルは余り気の晴れない様子でまだ座りなれない椅子に座り、白いデスクに頬杖をついていた。
「すっかり納得されたら納得されたで、問題が出て来るんだよねえ」
 彼女は溜め息交じりに、独り言のように言う。
 もし地球が攻撃を行ったことが公式に認められれば、銀河連合も対策を練るだろう。銀河連合軍が動員されるかもしれない。良ければこの基地の機能や人員がさらに強化されるかもしれないが、悪ければ軍に乗っ取られ、今いる者たちで軍属でない者はお役御免となる。
「まあ、ここを追い出されるにしても役目を果たしてからになるだろうけれど。軍が全容を把握するにはこの基地の皆の話が必要となる」
「ここはそれほど広くありませんから、来るとしても大部隊にはならないとは思われますが……
「それに、軍が動けば地球の方を刺激するかもしれない。実際にこちらに来るときになったら、最初は民間の輸送業者にでも偽装してやってくるでしょうね……まあ、それは置いておきましょう。少なくとも、3日間は猶予があるはず。その間にできることをしましょう」
 彼女はまだ、この基地内を見て回ってもいない。それもどうやら、手早く済ますことになりそうだった。
 司令室での仕事が一段落して昼食時に差し掛かった頃、ようやく新司令官はその機会を得た。
 この月面基地はかなり年季の入ったもので、地下3階まである。建物全体は卵形をしており、地上に出ている部分はドーム状になっていた。一時期は数千名の住人が地下街や居住区にひしめいていたものの、今はだいぶ人員が減らされ数百名の住処となっていた。
 地下に降りる前に、まずは1階を歩き回る。
「司令官、お疲れさまです」
「ええ、お疲れさま」
 行き交う者たちは司令官と顔を合わせると、挨拶を交わしてすれ違っていく。それを、司令官も注意深く見ながら歩いていた。彼女の目は胸のプレートの名前と相手の顔を確かめるように行き来する。
 ただ、基地内の雰囲気や部屋の配置を確かめるだけではない。新入りとして顔を覚えてもらうのも重要な用事だった。
 医務室や事務室、食堂や会議室などの付近を通り過ぎ、やがて、あまり使われることのない静かな通路に差し掛かる。
 その通路を抜ける途中で彼女は足を止めた。
 ゆるく右へ向かうカーブの途中に、ひとりの少女が座り込んでいた。ボサボサの髪に大きな黒い目で、歳は3、4歳と見える。可愛らしい動物のキャラクターが胸に描かれた白い上着と、少し汚れた桃色のスカートを着ている。
「大丈夫? おなかが痛いの?」
 その少女が余りにも小さくうずくまっているので、エステルは目線を合わせてそう問うた。しかし、少女は首を振って顔を上げる。
「両親とはぐれたの?」
 この問いには、少女は答えない。
 まあ、この基地内でこういった小さな娘を持つ住人は限られているだろう――と、司令官は予想した。
「一緒に事務室に行こう。すぐにご両親が見つかるよ」
 そっと右手を出す。少女は少し迷うようにじっと相手を見てから、小さな手を差し出した。
 エステルは事務室に引き返す。少女の歩幅に合わせてゆっくりと歩いた。少女は何も言わず、大人しく自分の手が引かれるままの方向に足を踏み出し続ける。
 やがて、扉の開け放たれたままの事務室に辿り着く。
「司令官、その子……
 ブロンドをショートカットにした若い女が、手にしていたカップを置いて真っ先に歩み寄った。レル・シルビーという名の、ここでは古株に入る事務員だ。
「通路に座り込んでいたから連れて来た。たぶん、両親が近くにいるはず」
 話を聞いていた男性事務員が椅子をふたつ用意した。奥では、別の事務員がお茶の準備をしようと給湯室へ向かう。
「そういえば、まだ聞いてなかったね。お名前は?」
 少女が大人に手伝ってもらって椅子に腰掛けると、エステルは再び少女の大きな目を覗き込んだ。
「あたし……
 迷うように口をもごもごさせたあと、ようやく続ける。
「あたし、スーヤ。よにんめ、なの」
 その答を聞き、エステルはわずかに眉をひそめた。そのとなりで屈み込んでいたレルは何の気もなく細い顎をさすった。
「4人兄弟の末っ子なのかしら。この基地で4人兄弟は聞いたことがないけど……
「一応調べてみます」
 ジイル・ヤマキリというプレートをつけた男性事務員が端末のキーボードを叩く。基地内の全職員の名簿が管理コンピュータ内に記録されている。
 成果は、すぐに明白になる。モニターの明かりに照らされた事務員の横顔が渋いものになる。
「ありませんね……おかしいな。スーヤ、という名前の登録もない」
「スーヤというのは愛称で、本名は違うのかもしれない。……あなたのお父さんの名前は?」
「リューマ」
 再びジイルが手を動かし、首を振る。
「お母さんは?」
 とレルが訊くのには、少女は首を振った。
「知らない」
「そっか……ごめん」
 肩をすくめ、2人の女は顔を見合わせる。何の手がかりもない。少女が嘘をついている可能性もあったが、そう決めてかかるわけにもいかない。
「困ったね……
 まさか、この少女が密航をしてきたとは思えなかった。間近の船といえば、司令官も乗ってきたあの小型航宙機だ。隠れられる部分などない。
 悩んでいるうちに、足音が近づいていた。ポートの方からやってきた青年が気楽な調子で事務室に踏み込んでくる。
「よお、みんなお疲れさん」
 作業服の青年が言い、そこにいる顔ぶれを見て目を丸くした。小さな子どもに不思議そうに瞬きし、次に、まだ見慣れない新司令官に目を向ける。
……前に、どこかで会ったか?」
「いいえ……良く覚えてないけど」
 エステルが答える横で、レルが目を細めて睨む。また、美人と見れば誰でも口説いて――と、咎めるような視線。
「ずいぶん古典的な方法ね。司令官、こいつの言うこと本気にしない方がいいですよ」
「ばっ……そんなんじゃあ……
 不意に呼び出し音が鳴った。
『ラーズ司令官、司令室にお戻り下さい』
 アーミラの声である。どうやら、もともと短い休憩時間もここで終了らしい。
「その子のこと、頼むね」
 そう言い残し、彼女は急ぎ足で去っていった。
 
 宇宙の闇に溶け込みそうな、地味な宇宙船が月の軌道に近づいていた。その側面には、別の灰色の姿が太陽の陽を反射したように映る。
 至近距離で眺めることができれば、その側面に見える運送会社のロゴが、何かを隠すように貼り付けられたものであることに気がついただろう。
 船はゆっくりと、着陸態勢に入っていった。

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