この世界では、風に色がある。
吹きすさぶ風と同じ赤茶の光景を見渡して、少女、ミュートはわずかに眉をひそめる。一瞬、目の前の街並みが、血染めの絵に見えたのだ。
それも、目の錯覚に過ぎない。彼女の視界のなかには、はっきりと意志を持って動く命がいくつもあるのだから。
その姿うちのひとつが、少女に歩み寄ってきた。
「お嬢ちゃん、しばらく前に宿に行った旅の人だね? 眠れないのかい?」
最初に市場を訪れたとき、彼女に声を駆けて来た老女だった。彼女の姿を見ると、ミュートは白い服の内側のさらに奥から、髪飾りを取り出す。
「少し、街を歩いてみようと思いまして……それと、これはお返しします」
服と引き換えにするはずだった、銀の髪飾りだ。ロズたちはこの街にとって有効な物をかなり持っていたらしく、それとの引き換えで、ティシアがミュートの服も手配してくれた。そのため、髪飾りは必要なくなったのである。
老女は大切そうにそれを受け取ると、深いしわが刻まれた顔に苦笑を浮かべる。
「おや……それじゃあ、お返しを考えないといけないねえ。あの缶詰、おいしかったよ」
「気にしないでください。親切にされて、嬉しかったですから」
「そうはいかないよ……後で何か持っていくから、楽しみにしててちょうだい」
本人が一番楽しみにしているような調子で言い、老女は軽い足取りで自分の店に戻っていく。
まるで、孫に渡すプレゼントを考える祖母のようだ、とミュートは思う。彼女にも、薄っすらと、実の祖母と過ごした遠い日の記憶が残っている。
束の間、思い出に浸りながら、少女は市場の店の間を歩いた。売られている物は、新品同然の物から、どこかから掘り出してきたような、赤茶色の土がついた物まで、様々だ。
時折声をかけられ、適当に相槌を打って聞き流しながら、彼女は、街の反対側に入る。
白い布を巻きつけた板を天井にした、家とも言えないような建造物がいくつも並んでいた。人一人が中で眠ることができるだけの広さのいびつな形が、狭い通の左右に乱立する。なかには、数人用らしいものもある。
瓦礫と白い小屋をよけながら目指す先は、壁にヒビを走らせながらも何とか立っている、灰色の建物だ。数少ない、倒壊を免れた建造物らしい。
「あら、ミュート……?」
不意に、横から聞き覚えのある声がした。振り返る前から、少女は相手が誰なのか、気配で感じ取っている。
「ティシアさん、ここにいたんですか。宿にいないから、心配しましたよ」
長いブロンドの、白い顔に柔らかなほほ笑みを浮かべた女性は、音を立てないよう気をつけながら、ミュートに歩み寄ってくる。
「何だか、眠る気になれなくて」
眠ること。それが、一時でもこの世界を忘れることになれば、気が楽になるかもしれない。そうは思っていても、どうしても考えてしまう。この世界に突然放り込まれてから、そしてティシアが劇団の仲間たちを失ってから、まだそれほど時間は経っていない。
「それに、宿にいると邪魔になるかもしれないでしょう?」
「そんなことは……」
「ううん、私がいても、役に立つわけじゃないもの。とても難しい話をしているようだったから」
ミュートが宿を出てきたとき、ロズたちとルータは、この世界を脱出するために必要な装置について議論していた。ティシアよりは知識があるものの、ミュートもただ聞き役になっているのを退屈に思い、議論の場を抜け出して来たところだった。
しかし、残ったほうが気が晴れたかもしれない、と彼女は思う。元の世界に戻るための希望が見えたのかもしれないのだから。
「だから、ちょっと気晴らしに散歩をしていたの。そうしたら、この建物……」
ティシアは歩いて、建物の正面に回った。それに、ミュートも続く。
突き出した大きな出入口に、おそらく窓が入っていたらしい、奇妙な形の切れ目の数々。それを目の当たりにして、ミュートは初めて建物の正体に気づいた。
「劇場……ですか」
「ええ。こうなる前からもうずっと使われていないそうですし、倒壊の危険があるから、中には入れないようだけど……この建物を見ていると、昔のことを思い出すの。昔、って、ほんの1ヶ月足らず前のことですけどね……」
独り言のようにつぶやくと、思い出したように、ミュートを振り返る。
「そろそろ、帰りましょうか。みんな、眠ったかもしれませんし」
「そうですね」
もともとティシアを探しにここへ来たミュートは、相手の落ち着いた様子に内心ほっとして、相槌を打つ。ついでに散歩をする目的もあったが、それもすでに充分果たしている。
2人は肩を並べ、市場に引き返した。露店の間を縫うように歩きながら、宿のある洞窟を目ざす。
ミュートは、あの老女の姿を捜したが、露店は商品もそのままに、空だった。別に礼の品を期待していたわけではないが、少し寂しい気分で視線を戻す。
唐突に、その視界の隅に他の姿とは違う動きを感じて、思わずそちらを振り返った。
「どうしたの?」
気配を察して、ティシアが足を止めた。
白い風景の中を、駆け抜けて行ったように思えた気配。その痕跡は、もうどこにも見えない。
「いいえ……何かが走っていったような気がしたものですから。気のせいですね」
「風のせいかも知れませんね」
苦笑しながら、ミュートも同意する。
赤茶色の砂が、2人の姿を追うようにして、市場を吹き抜けていった。
人の気配がすべて寝静まった洞窟の一室から、ひとつの気配が這い出した。
洞窟の壁に等間隔に置かれた灯に照らされ、長い影が地面に引かれた。しかし、その影の足もとから続くはずの色を持った姿は、どこにも見当たらない。
やがて、影は消えた。暗い外の世界に触れ、わずかな空気の動きだけが、そこに何者かが存在することを告げている。
そう、存在するのだ。そこに、1人の人間が。
彼は市場の端を駆け抜け、人の姿が見えない、瓦礫ばかりの一角に足を踏み入れてから、ようやく立ち止まり、姿を現わす。
『ずいぶん、手際がいいんだね』
現われた青年は、茫然としたように空を見上げていた。それを、彼が両手に捕まえている存在の声が現実に呼び戻す。
「うるさい……黙れ」
『話すことくらいしかできないのだから、それくらい見逃してよ』
AIの個性を表わしているらしい超小型探査艇の、この緊張感のなさは一体何か、と、青年――ユールは思う。あきらめなのか、余裕なのか。
彼が洞窟内に侵入し、単なる置物にも見える、探査艇に身をやつしたエルソン製の電子頭脳ルータを盗み出す間中、このAIは無言だった。眠っているかに思われたが、どうやら、最初から起きていたらしい。
『キミは誰? 名前くらい、教えてくれてもいいと思うけど』
「誰が教えるか」
『では、勝手に名づけさせてもらうよ? 〈へそ曲がり3丁目〉とか』
「やめろ」
『駄目? じゃあ、〈必殺臭気マロンちゃん〉と〈酢飯侍〉のどっちがいい?』
「殴るぞ」
そんなことばを交わしながら、ユールはさらに、町の中心部から遠ざかる。人の姿があると、彼は瓦礫を盾に身を隠しながら移動し、迂回した。だが、ルータには、大声を出して助けを呼ぼうという気もないらしい。
『一体、どこへ旅行に連れて行ってくれるというのかな。余り遠くへ行くと、おせっかいがうるさくてね』
ユールの足は、町の外へ外へと向かっていた。
しかし、その足取りはどこか頼りない。何かの訓練を受けたのか、足音もたてることなく素早く移動しているものの、行き先を見失っているかのように何度も立ち止まり、意味なく瓦礫の周囲を行き来している。
それは、時間稼ぎをしている風にも見えた。
『ほら、早くしないと、おせっかいたちが気づいて追いかけてくるよ』
「うるさい、おせっかいはお前だ」
できるだけ相手をしないようにしていたユールが、たまりかねたように自分が抱えた探査艇を見下ろした。
「だいたい、お前はなんなんだ? 自分の立場をわかってんのかよ」
『わかってるよ。誘拐された捕虜だろう』
「死ぬかもしれないんだぞ?」
『へえ。私を殺すつもりなの?』
無邪気にも、冷ややかにも聞こえる声で、ルータは問うた。
ユールは、彼が帰還した後に捕虜がどうなるのか聞いてはいない。しかし、ルッサから伝えられた命令と今まで耳にした情報で、大体は予想がつく。
「知らねえよ……でも、仕方がないだろ。お前らがあいつに会ったら、この世界は……」
思わず言いかけて、彼は口を閉じ、足を速める。
『世界が終わるとでも言いたそうだね』
一呼吸間を置いてルータが言ったことばに、ユールは反応しない。探査艇の光学センサーは相手の瞳孔を観察していたが、彼はそこを追求するつもりもないらしかった。
『やれやれ……しばらくは、自分で飛んで移動する必要もなさそうだね』
「囚われているのに、のん気なものだぜ」
あきれたようにぼやくユールの耳に、不意に、何かが触れた。
「囚われているのは、きみのほうなのではないのかい?」
吹きすさぶ風の音にも似た、誰かのささやき。
一瞬何が聞こえたのかわからず、足を止めて見回すその視界に、気配も感じさせない、景色のなかに浮き出した黒いシミのようなものを見つける。
それが人の姿であると認識できるまで、さらに一拍の時間を費やす必要があった。認識するなりユールが行った動きは、左手で軽く空を切る動作だ。
目に捉えられない何かが、黒い姿のそばを行き過ぎた。しかし、風に大きくマントをなぶられながら、一撃は、その裾をかすりもしない。
ユールは目を見開いた。あの姿は、つい今まで、もう少し左にあったはずだ。
「いきなりご挨拶だね、ユールくん」
黒衣の存在は、中性的な声で言い、肩をすくめた。口では軽く抗議しながらも、今の攻撃を意に介している様子はない。
「お前……なぜ、オレの名前を」
「知り合いから聞いただけさ。それよりきみは、兄の言いつけ通りにするのかい?
ずいぶんと兄弟思いなんだね」
「違う! オレは……」
なんのために?
風にのって、声にならない問いが、ユールの耳に届いてきた――気がした。
ただ、調整者として生まれ、育てられた。それだけで、やりたくもない任務を命じられ、兄に言われるがままの運命を歩んでいる。
そう思ったのは、初めてのことではない。
「無理だ。逃げられないんだ。永遠に囚われ続けるしかない」
彼のことばを証明するかのように、前方に気配が現われる。音もなく飛来した小型シャトルが、見えない台に支えられているように地上数十センチメートルのところで静止し、ハッチを持ち上げる。
2人の男が、宙を滑るように進み出た。2人とも、ユールにとっては見覚えのある顔だ。
端正な顔をした男は、その目を弟には向けず、油断なく黒マントをにらむ。
「どこで嗅ぎつけた……《時詠み》よ」
氷のナイフのような、冷徹で澄み渡った声だった。今にも、そのことばを本物の刃に変え、相手の心臓に突き立てそうなほどの殺意が込められた声。
一方の《時詠み》は、フードから覗き見える口もとに、ふっと笑みを浮かべる。
「ボクが何から情報を得ているのか、きみは知っているだろう? ルッサ」
「……では、何が狙いだ?」
この相手を責めても何も得るものはないと、調整者の青年は知っているらしい。すぐに殺意をおさめ、少しでも実用に足る可能性のある質問を投げかける兄の様子を、実に彼らしい、とユールは感じる。
「彼を放してくれないか。どうしても、来てもらわなければね」
『来てもらう……?』
それまで黙っていたルータが、不審の声を上げる。だが、誰もそれに答えるつもりはないらしい。
「我々にとっては、この世界には使い道がある。お前たちの狙い通りにさせるわけにはいかない」
ルッサが、初めて弟を見た。その視線の感情のなさに、ユールは背中に冷たいものを感じる。
――兄が表情をなくしたのはいつからか。ふと、脳裏にそんな疑問が浮かんだ。最初から、こんな兄弟関係だったわけじゃない。昔は、優しい笑顔を向けてくれるときもあった……
彼の追憶を、もう温かみを感じることのない、聞き慣れた声が遮る。
「さあ、ユール。それを持ってこっちへ来い」
そうすれば、きみの運命は決まる。世界とは別の、何かが終わる。
風がささやいた。目を向けると、《時詠み》の黒曜石のような目と合う。それは笑っているようにも、からかっているようにも見えて――。
ユールは、走り出した。来た道を戻るように。
簡単に捕まると思っていたが、追っ手や攻撃の気配はない。瓦礫を避け、跳び越えて、全力で走る。いつ、背中に衝撃を受けるかと思いながら。
『ちょっと、ユール!』
左腕に抱えたルータが何か叫ぶが、耳には届かない。
「……すまない……すまない、オレは……」
何かに対して必死に謝り続けながら、息が切れ、ふくらはぎが痛んで動けなくなるまで、彼は全力疾走し続けた。
「何をした?」
それほど驚いた様子も見せず、ルッサは離れていく姿を見送り、黒マントとの距離を一歩詰めた。彼の背後にいた背の高い筋肉質の男が、彼より前に出てくる。
右手に握るのは、長大な剣だ。浅黒い顔には笑みを浮かべ、全身の筋肉をリラックスさせているように見えるが、いつでも攻撃に移ることができる戦闘態勢。
「何も。彼が選んだだけのことだ」
不意に、その右手が上がり、素早く、宙に妙な文様を描くような仕草をする。
袖口から、いつの間にか、鎖がのびていた。それが複雑な動きをして、網目状にからみ合う。
網が、剣を受け止めた。長身の男が一瞬にして間合いを詰め、膨大なエネルギーを与えられたように白熱する剣を振り下ろしたのだ。
さらに、鎖が剣の刀身に絡みつくようにうねる。危険を感じて男が飛び退く瞬間、音のない戦いの中、かすかな金属音が沈黙を終わらせた。
「風を斬るようなものだよ……帰ったほうがいいんじゃない?」
スパイク付の鎖を袖の中に収めながら、《時詠み》は剣士を見上げた。
剣士は、額に汗を浮かべながらも、笑う。
小さな金属音が鳴った。《時詠み》は、鎖の環のひとつが崩れるように壊れ、先の部分が切り離されるのを見る。ほとんど無表情ながらも、彼は感嘆を口にする。
「へえ……やるものだね」
剣士は、剣を肩にかけ、溜め息を洩らす。格好からはそうは見えないが、まだ戦いを続けたいと、周囲にまとうオーラが告げている。
それを無視して、ルッサが服の裾をひるがえした。
「お、おい!」
「退くぞ、フリオン。ここでこの男を相手にしても仕方がない」
振り返りもせずに答え、ルッサはシャトルの内部に姿を消す。
フリオン、と呼ばれた男はそれを追いながら、名残惜しそうに振り返る。《時詠み》はとぼけた様子で手を振った。
剣を担ぎなおし、男もシャトルに消え、シャトルもまた、音もなく真っ直ぐ上昇して厚い雲の彼方に消える。
「逃げろ、逃げろ……きみには彼を助けられないのだから。力なきことは、罪ではない」
残された《時詠み》は町の方向を一瞥すると、何かを待ち受けるように、そのまま立ち尽くしていた。
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