プロローグ - 希望と絶望の始まり

 頬を撫でる生暖かい風を感じて、少女はまぶたを持ち上げた。
 どこか、非現実的だ、と彼女は思う。体重が軽くなったような、五感が鈍くなったような、曖昧な感覚だ。それに、彼女の漆黒の瞳が捉える光景も、その現実味のなさに拍車をかけていた。
 赤茶けた砂埃が乾いた風に巻き上げられ、ひび割れた大地の上を吹き抜けた。焦げた植物とも、建物の一部だったらしいガレキともつかない物が散乱した辺りを見回し、少女は腕をさすった。ジェケットを着込んでいるが、それでも風は冷たかった。
 建物が建っていたらしい名残の、1メートルほどを残して崩れ去った壁の角を見つけ、その内側に入って風を防ぐ。崩れないようそっと壁に背中をもたせかけ、座り込む。
「どうなってるのかな……
 赤黒い雲に埋め尽くされた空を見上げて、そうつぶやいてみる。少しだけ答を期待したが、聞こえるのは、風が吹きすさぶ音だけだった。
 少女は溜め息を洩らし、うずくまる。
 しかし、じっとしていても身体が冷えていくだけだと思い、やがて意を決したように、立ち上がる。壁の陰から出て、風邪が荒れ狂う中、よりガレキの山が多い方向へと歩き出す。
 少し歩くと、稜線の向こうに、崩れかけた、それでも何とか家の形をとどめた建物を見つける。歩みを速めて近づくと、小屋の向こうからは地面がひびだらけのアスファルトに覆われていて、より大きなガレキの山や、幹が途中から折れ飛んでいる枯れかけた木の列が見えた。向こう側は、元は住宅の密集していた場所なのだろう。
 彼女はまず、小屋をめざして歩いた。強い風とともに吹きつける砂が時々目に入り、顔を上げていられない。足場も悪く、ゆっくりと進むしかなかった。
 ガレキを迂回し、踏み越え、横からの風にバランスを崩さないよう抵抗しながら、ようやく、壊れかけたドアの前に辿り着く。
 ドアは、取っ手付の引き戸だった。少し乱暴に扱えば取れてしまいそうな戸を、慎重に引き開けようとする。
 少しだけ引き開けようとした彼女の意志に反して、ドアは跳ね飛ばされるようにして開いた。内側から。
「なに?」
 右手に弾かれるような衝撃を感じた時点で、少女は取っ手を放し、後ろに跳んでいた。目を見開き、現われたものを凝視する。
 闇に包まれた室内から身を躍らせたのは、蛇のようなものだった。ただ、その深い緑色の身体は大人の男の腕より太く、威嚇するように開いた口に並ぶ牙は猛獣の肉も噛み切れそうなほど長く、鋭い。
 奇声を発しながら、ズルズルと長い身体を引きずり、蛇がにじり寄ってくる。少女はそれに合わせて、1歩、2歩と後退した。
 そして、3度足を後ろに退いたとき、かかとにガレキが当たり、バランスを崩す。それをチャンスと見て、蛇が襲いかかる。
 刹那の間表情を引きつらせた少女が、一転して無表情に変わり、身をねじって横に転がった。蛇の顎がそばを通り抜けると、さらに地面を一回転しながら、右手を左の袖に入れ、身を起こすと同時に、取り出したナイフを投げる。
 それは、蛇の頭を貫いた。
 のどが張り裂けそうな咆哮が風に流れた。緊張と風の音で何も聞こえず、ぼうっと座り込んでいた少女は、蛇がのたうちながら近づいてくるのを見て我に返り、慌てて這うようにして後ろに退いた。
 彼女は、じっと蛇を見ていた。よろよろと立ち上がったのは、蛇が動かなくなって、さらにしばらくしてからである。
 気力を奮い立たせて、蛇の頭部からナイフを抜いた。持っているナイフは1本だけではないが、大事な、精神的『保険』のようなものだった。多ければ多いほうがいい。
 蛇の身体にナイフの血をこすりつけ、血の臭いに顔をしかめながら小屋のほうへ目をやる。
 外れかけたドアがほとんどぶら下がるような形でついている入り口の奥に、まだ、蛇の身体が続いていた。
 慎重に近づいて、気配を探る。どうやら、もう動くものはいないらしい。
 そう判断して少しだけ気を抜きかけた彼女の耳に、小さな、聞き覚えのある声が触れた。
『そこにいるのは誰……?』
 合成音声だ。そう気づくなり、少女は愕然とする。
「シグナ!」
 声をかけて、小屋に飛び込む。
 窓もない内部は暗く、少女はもつれる手でポケットのペンライトを取った。頼りない光が辺りを照らす。
 棚や木箱が隅に並んだ小屋の奥まで、蛇の身体が伸びていた。そしてその先端は、奇妙な、場違いな物体に巻きついている。
 それは、ミサイルに似た、しかしもっと丸みのある、どこか愛嬌がある形をしている。少女は、それがおそらく小型のリモートコントロール型探査艇だと気づいた。
『シグナ……? 私はシグナではない』
 声は、その探査艇からだった。その探査艇を見たことのある少女は、今はもう、相手がシグナではないと知っている。
 それを口に出す前に、当の本人が説明した。
『私はルータ。エルソン最新の宇宙船に搭載された航法制御コンピュータ……外見は、今はこうなっているがね』
「本当にルータなの?」
『ああ……少し自信がない』
 そのことばに、少女は少し今までの緊張がほぐれたのか、口もとにほほ笑みを浮かべた。
「大丈夫?」
 彼女は蛇の長い身体を、探査艇から引き離してやる。
『少し苦しかったけど、さすがにエサだとは思わなかったようだね。しかし、痛覚があるということは、この小さななかに抹消神経回路もあるということで、どうも大きさが合わない……
「難しい話は、あとあと」
 重い蛇の身体をどかして、完全に小さな探査艇を解放する。ルータは、ふわり、と宙に浮いた。
『一応推進機関もあるのか……この場合のエネルギー源は何だろう? 本体がどこかにあるのかな?』
「本来の探査艇には、感覚なんてないんでしょう?」
 少女が紺色の滑らかな表面をつつくと、探査艇はくすぐったそうに宙で回転した。
『それじゃあ、この世界でのエネルギー源は……精神力?』
「私は、仮想現実にいるはずだと思ったんだけど。何か事故が起きたのかな?」
『事故……?』
 ルータの声に、わずかに焦燥の色がにじむ。
 仮想現実をも操る、現在最高の人工知能シグナは、ルータの兄として認識されていた。少女が彼とルータを間違えたのも、シグナが支配しているはずの空間にいるという状況のためだけでなく、声が似ていたせいでもある。
「よくわからないけど、こんなこと、今までなかったし。待っていて直るならいいけど、ここも余り安全じゃなさそうだね。精神的な死も、ありえるんでしょう?」
『ああ……いつもは制限があるはずだがね、今はおそらくそれもない』
 絶命した蛇の身体を見下ろす少女に、ルータが音もなく宙に浮いたまま答える。
『ところで……
 彼は、しゃがみ込んで蛇をひっくり返してみている少女に近づいた。
『きみの名前は? VRDの利用者だというのはわかったけれども』
 振り返った少女は、無言で、どこか意味ありげに笑った。からかっているような、不敵な笑みにも、どこか寂しげにも見えるほほ笑みだ。
「私はね……アイス・ミュート。そう、アイス・ミュートっていう名前だよ」
『変わった名前だね。アイス、って呼んでいいかな?』
「ううん……ミュート、のほうがいいな」
『じゃあ、ミュートで』
 少し明るい声になって、ルータは応じた。
 ただ1人だけで、わけもわからず奇妙な世界に放り込まれ、途方に暮れていた。そこに、ようやく同じ状況におかれた――自分の認識が正しいことを証明してくれる相手が現われた。多少は、不安が解消されたのだろう。
 そしてそれは、少女、ミュートも同じことだった。
「もう少しして、何も起きなかったら、他の人を探してみよう。私たちだってこうして会えたんだし、近くにいるかもしれない」
『ああ。少しは、風が弱まるといいけど』
 壊れかけた小屋の中で、2人は、旅立ちの時を待った。

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