「これは……粘菌の死骸だな」
アスラード博士らにより採集されたサンプルを、持参した顕微鏡で観察し、臭いをかぎ、指先で感触を確かめていた生物学者クレイズ・オーサーは、無言でじっと待っている〈リグニオン〉のスタッフたちにそう告げた。
「粘菌……?」
「ああ。それも、特定の惑星にしか生息しないやつだ。情報のやり取りのために電気と音波を発生する。何度か電子機器の破壊に使われたこともあるな」
それが、ゼクロスの回路に信号を送っていたのだろう。原因が判明すると、一同は安心すると同時に新たな不安にかられた。
いつ、粘菌が侵入したのか?
「調整者が関わっていることは言うまでもない……粘菌と言えば、あの輸送船のゴミをひっかぶった時か?」
『その可能性は高いでしょう……その前に、私自身に細工をされていますから、粘菌を侵入させるくらいはわけないはずです。私自身に何をされたのかがわかればいいのですが……』
調整者は、どんな細工をしたのか。
大きな不安を残しながらも、その日、ゼクロス内部の粘菌は完全に取り除かれ、洗浄された。それを見届けると、大学院の講義の準備があると言い、クレイズ教授は地上に戻った。
さすがにそろそろ限界だったのか、起きっぱなしだったスタッフのほとんどが仮眠をとる。しかし、状況は彼らにとっても少しも安心できるものではない。
オリヴンを流れるニュースは、彼らにとってもどれも喜ばしいニュースではなかった。病院には次々と発見された重傷者が運び込まれ、その全員が危篤状態だった。
何より、彼らのよく知る人物が消息不明のままだったから……。
ゼクロスは、ずっとニュースを監視していた。その、聞き馴れた名前が、どこか片隅にでも現われないか……その時を待って。
だが、『その時』は来ないまま、一夜が過ぎていった。
そして、朝が来て。昼が過ぎる。
「そろそろ眠くならないか?」
毛布をかぶり、ニュースが流れるモニター画面に見入っているオペレーターのエイシアに、アスラードが紙コップ入りのコーヒーを手渡した。エイシアは赤い目を向け、半ば上の空で礼を言う。
「眠れるものですか……。ベッドに入った瞬間に、今この一瞬のうちに彼女のことがニュースで流れてるんじゃないかと思って、飛び起きる。そのほうが疲れるわ」
「でも、もう3日徹夜だぞ」
博士は肩をすくめた。彼自身も、数時間仮眠を取ったくらいだが。
「何かあったら、すぐに起こすから。ゼクロスも、眠るんだ」
『起きたままでいさせてください……』
ゼクロスは力なく、やはりどこか上の空で応じた。情報収集に全力を集中しているのだろう。
「また所長に怒られるぞ。それに、キイが帰ってきた時、きみが少しも回復していなかったら、なんと言えばいい。〈リグニオン〉の面子も丸つぶれだな」
アスラードは、ゼクロスのシステムに接続されているコンソールに手を伸ばした。パネルからコードを打ち込む。
『博士……』
「大人しく眠るんだ、ゼクロス。起きた時には、必ずキイがそばにいる。約束するから……」
炎が舞っていた。崩れかけた艦内に残され、置いて行かれ、残されているのは自分だけ。だから、彼女が現われたその時、彼は本当に嬉しかった。
夢。そこには、会いたいと思う願望が映し出されているのだろう……と、ゼクロスは自己分析した。センサーの、カメラの前にいる少女は、よく知っている人物に似ていたからだ。ベレー帽をかぶっていないし、束ねられた黒髪も、肩までしかないが。
悲しい目を向ける少女。
あなたに会えてよかった。
夢の中での感情が、夢を見ている今の感情に重なる。
そう思いながらも、彼の声が伝えることばは、悲壮なものだった。
『私を……破壊してください』
その少女に、彼は言った。少女は何を言われるか知っていて、ただことばを待っていたようだった……悲しげな、そして優しい、漆黒の目で。
『強力なASの使い手……あなたなら、できるでしょう。破壊してください』
少女はセンサーに、カメラに向かって手を突き出した。宙に光が走り、レイブレードにも似たそれを、握り締める。そして、光の槍は振り上げられた。
その手の中の光は一刀両断を狙い、筋を残しながら下へ流れ――
……どうやら、時間は夕方に差しかかったころのようだ。〈リグニオン〉内に注意を向けると、つけっ放しのモニターの前で、エイシアがうずくまっていた。その上に、毛布がかけられている。
彼女のそばに、ひとつの小柄な人影があった。
「やあ、ゼクロス、調子はどうだい?」
彼女は、ぼんやりしている人工知能につながるセンサーのひとつに声をかける。
『大丈夫……ですよ……?』
センサーが捉える、ベレー帽にリボンのついたシャツ、ベージュのベストの姿。その聞き馴れた、少年の声のようでもある音声。
それが示すもの。
『キイ……キイ!』
何を言っていいのかわからない相棒の声に、キイは苦笑し、唇に立てた人差し指を当てた。
「私は自分の名前はよく知っているつもりだよ。大きな声を出さなくても耳はいいから大丈夫」
言って、エイシアを起こさないように気をつけながら、馴れ親しんだXEX機内、ブリッジへ。ゼクロスは外部スピーカーを切って、機内にだけ意識を集中した。しかし、そうして何を言うべきなのか、するべきなのか、わからない。
『キイ……』
「よしよし、きみはよくやったよ。私が死んだとでも思っていたのかい? その時にはまだ早い」
艦長席に腰を下ろし、からかうように言う。
いつもの光景。いつもの調子。
だいぶ時間がたってから、ゼクロスはやっと言った。
『……お帰りなさい』
「ただいま」
キイは笑う。いつもの不敵な笑み。
そして、彼女は何のことはない素っ気ない調子で、切り出した。
「早速で悪いんだけど、行く場所ができてね。そこに行かないと、オリヴンの人々を助けられないんだ」
『オリヴンの人々……? 子どもたちを助けられるんですか!?』
「ああ。でも、それにはきみの力が必要なんだよ。でも、きみの力は調整者に封印されている。だから――」
彼女は、右手をコンソールに伸ばした。
いつもはしない、手動でのキーボード入力。パネルを叩き、座標コードを設定する。そのコードは、当然機内のすべてのシステムの中枢、ゼクロスにも伝えられる。
コードが示す場所……それは、間違えようもなかった。
『それでは……!』
ああ、と、キイは笑みを浮かべたままでうなずいた。
「フォートレットへ――」
誰かが呼んでいる。
それを感じ、ラティアは思わず立ち上がった。ルーギアの数少ないレストラン。店内の客の視線が、ガタッと音を立てた女性に集まる。
「どうしたの?」
友人でありGPの刑事兼技師であるテリッサが、驚いたようにケーキが載った皿の上から視線を移す。
「い、いえ、何か呼ばれた気がして……」
赤面しながら、腰を下ろす。
デザイアズは遠方の事件調査のため遠征、付近には特に大きな事件もなく、平和である。オリヴンの事件のことは伝わっていたが、今のところGPがやることは輸送船の分析くらいだ。そのほとんどは、専門家に委託してある。
ルーギア自体は、いつもより静かなくらいだ。
「テレパシーでも感じたの? なんて言われた?」
テリッサはフォークをくわえたまま言った。彼女は、決してラティアを馬鹿にしているわけではない。興味津々できいてくる。
「テレパシーねえ……きっと空耳よ。意味のあるようなことじゃないわ」
そのことばの語尾に、サイレンの音が重なった。
「事件!?」
刑事らしく、いつもののんびりした様子と違い、テリッサは素早く立ち上がった。食べかけのケーキが載った皿を手に載せてはいるが。
デザイアズが留守なのだ。何か大きな事件があれば、ランキム、そしてそのクルーである彼女に任務が与えられる。
しかし、召集の放送はなかった。
彼女たちが間もなく知ったのは、ランキムが無断で本部を出たことだった。
いつかは……思い出して。
そのことばは、長旅の途中にあるルータにも届いていた。
「今の……聞こえたか?」
ブリッジの仕事を休憩中の副長、ラッセル・ノードの問いに、ルータは驚いたように答えた。
『はい。しかし、他に聞いた者はいないようです。一体何なのでしょう?』
「独り言ではない……気がするな」
何か懐かしい気持ちになりながら、彼はむしろ、そう願った。
キイは、攻撃を受ける直前、結界を張ろうとしたが、間に合わなかった。できたのは、受けた直後の、人々の時間を止めることだ。そうして人々は瀕死のまま、眠り続けることになった。その間に助かる者は助かるだろう。
しかし、即死の者は助けられず、医学にも限界があることから、さじを投げられるものはいる。ASがあればそれも救えるかもしれない。だが、ゼクロスはASの力を失っていた。キイは、人々の肉体の時間を止めている間、消耗し続ける。それを止めること。そのために、彼らは敵がひしめく、フォートレットへ向かう。それ自体が陰謀だと知りながら。
なぜ? なぜそうなったのか?
エルソンの宇宙ステーション。最大にして最高と呼ばれる頭脳は、真実を導き出していた。
『博士……』
カント・スターリン博士は、次にかけられることばを覚悟している様子だった。その姿は、ここしばらくのうちに、疲れきったように老いが進んでいるように見えた。
ステーションの中枢――シグナは、酷なことだと知りつつ、言わずにはいられない。
『あなたは……ゼクロスを調整者に売った!』
「このステーションのためだ」
博士の後ろから、アルファが姿を現す。長い赤毛に、憂いと決意を含む目をした、調整者の少女。
「私たちだって、こんなことはしたくなかった。しかし、仕方がない状況だったのだよ」
『しかし……』
「心配ない。キイはやられはしないし、ゼクロスも必ず戻ってくる。必ず……」
確信を持って、少女は言う。だが、その目には同時に、祈るような色が隠されていた。
それは、子を思う母のような色だった。