第四章 光亡き世界に求めたもの


  二、狂乱への序曲


 近づくにつれて、霧の奥から建物の輪郭が明らかになっていく。
 エーリャ公国の施政者たちは、成金趣味ではないらしかった。しかし装飾の少ない暗い銅色の建物は質素でも重々しい威厳があり、丈夫そうでもあった。
 それほど広くはない宮廷の脇には、四階建ての塔がそびえている。学校や研究所の入った学術塔だと、ナシェルが説明した。少年騎士もお気に入りの白馬を降り、扉が開け放たれたままの門につないだ。
 辺りは静まり返り、周囲を漂う霧とよどんだ空気のため、生物の気配も感じられない。
「中はゾンビでいっぱい、何てことにならないといいな」
「それだと、ここまで臭いがするはずだよ。大丈夫でしょ」
「ああ、臭いはないな」
 ザンベルのことばにシリスが返し、獣の姿だけに鼻は利くらしいゼピュトルが同意した。
「じゃ、早速確かめるとするか」
 ナシェルと並んで、ザンベルが両開きの扉を開けた。その横で、シリスがすぐに中が見える位置に立ち、背中の槍に手をかけている。
「大丈夫みたいだ」
 扉の向こうは玄関広間になっていた。内部は薄暗いが、高い天井近くに並ぶ小窓からの明かりで、歩くのに不自由はなさそうだ。ザンベルが扉を全開にして、全員が中に入る。扉にはもともと備え付けられていた突っ掛け用の鎖をつなげ、閉じないようにしておく。
「合図を送っておきましょう。ここまでは来ても危険はないし」
 リンファが懐から玉を取り出し、それに明かりの魔法をかけて扉の脇に置いた。
「なんでえ、ここで待つのか?」
「いや、ぼくらは先に行くべきでしょ。ここから先には、軍隊なんてジャマだし」
 拍子抜けした顔のザンベルに、ロイエが杖の先で、奥に三つ並ぶ狭い通路への出入り口を示す。ほかの皆も、同じ考えのようだ。
「ナシェル、ここより広い場所に心当たりは?」
 潰しでは時間がかかる。シリスがきくと、少年騎士は少し考えて、一番左の通路を指さした。
「謁見の間です。近道はあちらです。食糧庫も近いし、食糧が残ってるならあちらに違いないかと」
「まずはそこだな」
 緊張気味の少年をとなりに、ザンベルが歩き始めた。それにシリスとリンファ、ロイエ、セヴァリーとゼピュトルも続く。
 周囲は静まり返り、人の生活していた痕跡も感じられない。床の上には薄く埃が積もり、壁に備え付けられた燭台も最近使われたような形跡は見られなかった。どうやら、この宮廷が本来の目的に使用されなくなってからそれなりの時間が経過しているらしい。
 通路の壁に窓がいくつかあるが、そこから見える外は霧で真っ白だった。
 しばらく靴音だけが響く時間が過ぎたあと、小さな空間に出る。壁際に長椅子や水瓶が並ぶ空間の奥、左右と正面に短い通路があり、通路の突き当たりにはドアがあった。
「正面です」
 ナシェルが言うと、ザンベルが正面のドアに駆け寄って押し開こうとする。
「無用心だなあ、罠があるかもしれないのに」
 ロイエが言うと傭兵は表情を変えるが、すでに取っ手を握ってひねってしまったものは仕方がないと、力を込めて押し付ける。しかし、金属製のドアは小さくきしんだ音をたてたきりだった。
「鍵がかかってるな」
「ということは、何かありそうだね」
 シリスが盗賊七つ道具を懐から取り出した。本来は職業盗賊、いわゆるトレジャーハンターがギルドや師匠から譲り受けるものだが、長年旅をしている者が手にすることもある。
 ナシェルが身を引き、入れ替わりにドアの前に出たシリスが針金で鍵穴をいじり、間もなく、ガチャ、と音が鳴る。
「余り褒められた特技じゃないけどねえ」
 小声で言い、軽く取っ手を押すとドアは滑らかな動きで開いていく。
 広い謁見の間が見えた。天井付近に装飾付の窓があり、今までよりも明るい。さすがにこの部屋は豪奢な造りを目ざしたようで、シャンデリアも大きく鮮やかだ。
 奥は少し高くなっており、絨毯も玉座も高価なものがしつらえられている。
「ここも誰もいないのか?」
 ザンベルが残念そうに足を踏み込んだ、そのとき。
「伏せなさい!」
 セヴァリーが叫び、傭兵の本能か、ザンベルは疑問を差し挟むこともなく巨体を沈ませた。その後ろから青い光が放たれ、玉座から飛来した赤い球体がそれにぶつかり、同時に消滅した。
 武器を手に、全員が室内に入る。ザンベルも素早く跳び上がって大剣を抜いた。皆の目が向かうのは玉座だ。赤い光弾がつらぬいたらしい背もたれの中心からは、細い煙が一筋昇って消えた。
 隠すことをやめたらしく、二つの気配が玉座の裏から歩み出て姿を現わす。
「こんなところまで来るとは、本当に物好きな連中だ」
 エメラルド色の長髪の青年に、杖を手にした牧師のような服装の黒髭の男が進み出る。
「シルベット、って言ったかしら」
 リンファが抜き放ったレイピアの切っ先を長身の青年に向けた。それにとなりの、どちらかと言えば小柄な男がことばを返す。
「わたしはロメンドだ。そして、もう一人いる」
 言うなり、彼のとなりに可憐な姿が浮かび上がる。長い金髪のはかなげな雰囲気をまとった美女だが、その目は虚ろで、何も映してはいない。
「きみは……
「また、あなたですか」
 目を見開くシリスと、眉をひそめるセヴァリーの声が重なる。
 お互いそれがどういう意味なのか、尋ねる余裕はなかった。間合いを探るような時間などなく、美女が持ち上げた指先から赤い光の束を発射してくる。
 四散して攻撃をかわすそこに、二振りの曲刀を抜いたシルベットが踊りかかった。異なる動きをする刃を受け止めたのは、シリスとザンベルだ。
 美女は、一心に元雷魔王へ。
 ロイエは背後にナシェルを庇い、防御壁を張る。リンファとゼピュトル、ロメンドはすでに呪文を唱えていた。
「〈マナグランド〉」
 リンファはレイピアに魔力を宿し、玉座の横の老魔術師を見る。そのとなりにゼピュトルも並んだ。
 数では圧倒している。相手は魔族とはいえ、元魔王であるセヴァリーも聖獣王ゼピュトルもいるのだ。彼らはそれほど切迫した状況にはならないだろうと読んでいた。
 だが、それは相手にもわかりきっていたことだ。
「〈コールドプリズン〉」
 聞いたことのない魔法に、リンファは危機感を覚え、ロメンドに駆け寄ろうとした。
 しかし、すぐに足を止めずにいられなくなる。
 その手のひらから這い出た何本もの黒い帯のようなものにより、円柱形の黒い檻が魔術師の前に編み出される。人ひとりが入る程度の大きさのその内部には、身なりの良い、白髪の男が座り込んでいた。
「だ、大公さま……?」
 ナシェルが茫然としたように口を開く。
「そうだ。この国の唯一の生き残りだ。さあ、お前たちの行動如何によっては、この国の人間はひとりもいなくなるぞ」
 唯一の生き残り――
 そのことばに、皆、特にナシェルは衝撃を受けた。
 もちろん、ロメンドは知らないのだろうがナシェルもこの国の者であり、大公が唯一の生き残りというわけではない。それでも、彼と大公ただ二人を除く残し全員が息絶えたということを、少年はすぐには信じられなかった。
「武器を捨てろ」
 シルベットが声をかける。それを合図にしたように、美女も攻撃をやめる。
 人質の気配は本物だった。シリスが槍を捨てる。
「オレたちに何かさせるつもりか?」
 赤の他人のために全滅するぐらいなら、人質を犠牲にする選択もあるかもしれない。少し迷って、ザンベルはゼピュトルとセヴァリーに目をやり、剣を捨てた。
 元魔王は大鎌を消し、ゼピュトルは伏せの状態で戦意喪失を表現しているが、ふたりとも、形ある武器は必要としないため、いざとなればすぐにも戦える。
「仕方がないわね。大公は解放してもらうわよ」
「約束は守る」
 シルベットが言うと、魔術師たちも手にした得物を捨てた。最後に、ナシェルがやっと気がついて剣を投げる。
 そのさまを見て、ロメンドは笑った。
「いいだろう。もうしばらくじっとしていてもらう。我々がここを去るとき、この者も解放しよう」
「どういうことだ……?」
 聖獣王の問いかけに、魔族は答えない。
「てっきり、不死者の軍勢にでも加えられるのかと思っていたけのだけれどね」
「時間稼ぎか……
 リンファのことばに同意して、シリスはこれから何が起きるのか少しでも手がかりがつかめるかと、五感を研ぎ澄まして周囲の気配を探った。
 しかし分厚い霧が邪魔をするように外を囲み、内側のよどんだ空気だけを感じさせる。何の手がかりもつかめない。
 ただ、彼は良く当たる、嫌な予感だけを感じ続けていた。

 合図らしき魔力を感じ取ったレスターは、五名だけを残して調査団に進軍を命じた。未だバックナント市内がどうなっているのかは不明だが、リンファが問題なしと判断したことはわかる。そして、彼はリンファの判断を信頼していた。
「しかし、こう視界が悪いとかなわないな」
 アステッドがわずかに顔をしかめ、開け放たれた門に向かって馬を進める。
 全体がゆるゆると進む間に、先行していた斥候が戻ってきた。
「どうやら、騎馬でも問題はないようです」
 それにうなずき、レスターはそのままの市街への侵入を選択する。
 霧を抜けると、無人の街並みが広がる。道幅は広く、進行の妨げになるものはなさそうだ。
「不死者の気配はありませんが……ちょっと不気味ですね」
 マドレーアの魔法兵団長は、怖気をふるったように杖の柄を強く握った。
 全体が市内に入ったところで、レスターは一旦足を止める。
「別のものの気配はあるようだけれどね」
 彼はそう言って、薄く霧のかかる、遠くの空を見上げた。
「スプリルルガか」
 アステッドが息を吐く。
 全員が魅入られたように、霧の向こうに時折姿を除かせながら近づく浮遊要塞を見上げていた。それは徐々に霧の晴れたバックナントの真上に移動し、全容をあらわにする。
……あ?」
 誰かが最初にそれに気がつき、声を上げた。
 理由はすぐに明白になる。
 誰もがその目に、下へ向けられた巨大な大砲の口を目にしていたのだから。