第四章 光亡き世界に求めたもの


  一、深淵の中


 何かが近づいている。
 視覚を失っている彼女だからこそ、感覚は研ぎ澄まされていた。その上、最近は何かと異質なものが周囲を飛び回り、あるいは潜んでいるような気がするのだ。
 少し気を張り詰めていたものの、長くそうしていると疲れてしまう。だから、彼女は余り長く緊張することはやめていた。それで気をすり減らし、寝込んででもしてしまったら、また妹や友人に迷惑を掛けてしまうかもしれない。
 それにしても、今回の気配は、今まで感じたもの以上に鋭く深い気がした。
「ピーニ、ひとつ頼みがあるのだけど」
 お茶の用意をしていた妹は、弾かれたように振り返ると、満面の笑みを浮かべる。それは姉には見えないが、声に笑みは表われている。
「何でも言ってよ、姉さん」
 姉が頼みごとをするなど、滅多にないことだ。だから、少女は頼られると喜ぶ。それに、ただでさえ最近は、大きな収入があったおかげで機嫌がいい。
「花の種を買ってきて欲しいんです。種類は何でもいいし、あなたが好きなのをお選びなさい。できれば、鉢もあった方がいいのだけど……
「花を育てるの?」
 こんな陽のささない場所で育つのか。それに、姉に世話ができるのか? もちろん、彼女が望めばピーニは自分が育てるつもりだったが。
 色々と疑問は浮かぶが、少女はせっかくの姉の頼みを断るつもりはなかった。
「わかった。花の世話をするなんて、姉さんには良く似合ってるよ。すぐ買ってくるね」
「気をつけるんですよ。……ありがとう、ピーニ」
 いつものことばの後に、なぜか彼女は、心の底からの礼を付け加える。
 それを少し不思議に思いながらも、ピーニは軽い足取りで墓地を駆けた。

 薄い霧が周囲を包んでいた。
 その霧に、前進する巨大な影が映る。重なり合った影はまるで、全身をうごめかせる蛇のようにも見えた。気の弱い者は自らも内包するその影に肩をびくつかせる。今にも影の中から、生命亡き者――ゾンビやグールといった不死者が飛び出してくるのではないかと。
 神聖フィアリア王国からエーリャ公国に派遣された調査団五十八名は、草の枯れかけた草原を、一路首都バックナントへ向けて前進していた。
 周囲には生き物の気配はなく、昼間だというのに晴れた空もどこか薄暗い。静か過ぎるのが不気味で、馬もたびたび神経質そうに、ぶるる、と鼻息を洩らす。
「不死者の気配もなさそうだね……
 馬上から慎重に周囲を見渡しながら、調査団の団長を務める司祭長レスターが言う。
「そうですね……魔物の気配もない。油断はできませんが……
 となりで、地味な茶色の神官服に身を包んだ金髪碧眼の青年が、少し不安げに言う。レスターほどではないが、まだ少年の域を脱しきれないくらいの、若い青年だった。マドレーアの七星騎士団〈ミーティア・ナイツ〉の一角を成す魔法兵団の団長、クワイトだ。マドレーアにおける司祭長の息子だという。
「そろそろ、バックナントが見えてくる頃だが」
「どうするよ、建物のひとつも残らずなくなってたりしたら」
 アステッドのことばに、馬車の中からザンベルがおどけたような声を出す。
「みんなで地面でも掘るか?」
「確かにザンベルなら掘るのも簡単だろうね。せいぜい大きな穴を掘りなよ。あんたのでかい身体がちゃんと入るような」
「お前、何する気だよ」
 傭兵と少年魔術師の気楽そうなやり取りに一瞬頬がほころびそうになるが、神官戦士たちはすぐに気を引き締めた。緊張し過ぎるのもいざというときに行動の障害になるが、気を張り詰めておかなければ油断が生まれる。
「まあ、掘るようなことにはならないみたいだよ」
 前方を眺めていたシリスの言うとおり、霧の向こうに、城門の影が浮かび上がった。
 ここまで近づいても魔物の気配はしないということに、心のどこかで安堵する一方――人の気配も感じないことに、皆は違和感を強くする。見晴らしの悪い状況とはいえ、フィアリニアとマドレーアの旗を掲げた五十人余りもの軍隊が近づけば、慌しい気配の少しも感じるはずだ。
 それなのに、街は死んだように静かだった。
「全軍停止。斥候を出そう」
 レスターの出した指示は、少数精鋭だけにすぐに全体に伝わる。
「で、誰が行く?」
 アステッドが口を開くとほぼ同時に、白馬にまたがる少年が大声を上げた。
「ぼくが行きます! 中の様子を把握するなら、ぼくが必要なはず」
「大声出さないで……まあ、ナシェルさんには行ってもらうつもりだったけど」
 レスターが少し眉をひそめて言うと、ナシェルは感動したように拳をつくる。が、一応大声で喜びを表現するのはやめたらしい。
「それじゃあ、オレたちも行こうか。その方が身軽だろうし」
 と、提案したのはシリスだった。
「そうね。国の体面としても、まずは無関係のわたしたちが入った方がいいもの。むしろエーリャ公国に、国の体面が残っているといいけどね」
 リンファのことばに、レスターも同意する。
「では、よろしくお願いします。状況が判明したら、あるいは援軍が必要な状況になったら合図をお願いします」
「ええ、わかったわ」
 シリス、リンファ、ザンベル、ロイエが馬車を降りる。ナシェルはよほど気に入ったのか、白馬の上のままだ。
 仕方なさそうに馬車を降りて歩き出そうとするロイエに、その兄が心配そうな目を向ける。
「ロイエ……気をつけていくんだよ」
「わかってるよ……そういうレスターこそ、せいぜいゾンビに食われないようにすることだね」
 心配しているのかいないのか。少年魔術師はあきれたような声で答えながら、先を行く者たちの背中を追った。

 石造りの家々が並び、露店が店を開けたまま放置されている。
 リンファが近づき、露店に並ぶ蔓を編みこんだザルを覗いた。置かれた当初は新鮮だったであろう野菜は、黒く変色して嫌な臭いを放っている。
「だいぶ長い事放置されているようだけど……嫌な感じね」
「そりゃそうだろう。そんな物、いくらタダでも食えたもんじゃねえぞ」
「そうじゃない。虫一匹いないじゃない」
 ザンベルにそう返して、リンファはさらに、露店の商品を調べにかかる。
 彼女の言う通りだ。人間にとっては口にできたものでなくても、虫にとっては良い温床となる物がゴロゴロしている。だというのに、羽虫の一匹も飛んでいない。
 そして、肝心の人の姿もない。
「遺体があちこちにあって、虫が湧いてた方が良かったか?」
「それも嫌だけど、そっちの方がわかりやすかったよ」
 ロイエが答え、何かを恐れたように周囲を見回しているナシェルに目をやった。
「それで、どうなのさ。人々が避難するような場所に、何か心当たりはあるの?」
 声を掛けられ、少年騎士は我に返ったように、慌ててうなずく。
「え、ええ、あります。中心部に大きなミュレーア神殿があって、何かあるとそこに集まっていました」
「それじゃあとりあえず、そこへ行ってみようか」
「ほかにあてもないものね」
 シリスの意見に同意して、一行は警戒を解かないまま歩き始める。
 外ほどではないにせよ、街中も霧がかかっており、視界が悪い。ナシェルは確かめるように周囲を見回しながら、皆を先導した。
 しかし、それだけではない、と、シリスは思う。
 ナシェルは、この街の賑わう姿も知っているのだ。いや、それどころか、彼にとってずっと慣れ親しんできたのは、普段のバックナントである。この変わってしまった街並みに、一番衝撃を受けているのも彼だろう。
 せめて、どこかに隠れている者がいればいいが、と、希望を込めて近づいてくる神殿の方へと顔を向けると、遠くに薄っすらと、人影が見えた。
……人がいる?」
 信じられない風に言って、ナシェルは手綱を引いた。
 どちらかというと小柄な人影は、通りの向こうからゆっくりと近づいてくる。霧の奥から浮かび上がってくるのは白い服だ。
 それがはっきり見えてくる頃合になると、相手は申し訳なさそうな声を上げた。
「すみませんね、バックナントの者ではなくて」
 白い法衣に身を包んだ少年の姿を持つ魔王。背後から、金色の聖獣王も姿を現わす。
 期待していただけに少々気落ちしていた部分もあるものの、その一方で、シリスは安堵していた。
「いや、二人が一緒の方が心強いよ。ちゃんと合流できてよかった」
「不死者や魔族が出て来るよりマシよね」
 リンファがそう付け加える。
「それにしても、先にバックナント入りしていたの? あなたたち、人を見かけた?」
 この問いには、座り込んだゼピュトルが応じた。
「我々も、つい先ほど着いたところだ。人は見なかったし、気配もない……神殿へ行くつもりだったのだろう? 誰もいなかったぞ」
 彼のそのことばに、一行、中でもナシェルは大きく肩を落とす。
「まだ、判断を下すのは早いでしょう。一ヶ所だけ、調べていない場所があります」
 少しだけ元気付けるような声色で、セヴァリーが顔を上げる。
 その目線の先には、霧に浮かび上がる、大きな建物のシルエットがある。ナシェルはそれが何であるか、すぐに察したらしい。
「エーリャ公国宮廷……ですか。確かに、あそこなら……
 多くの民を避難させるだけの場所も、食料の備蓄もある。
「何が出るか、それとも何も出ないのかわからないが……行ってみるか」
 ザンベルが何かを予感したように、大剣の鞘を叩いた。