第三章 聖魔の鼓動


  八、幕開く舞台


 闇の中に、白い人影が揺れた。
 深い森の、木々が少し途切れた区域だった。周囲の木々も多くは枯れ、あるいは枝や幹が滑らかに切断されている。それも、すべては戦いの痕だ。
 人影は逃げることをあきらめたのか、肩越しに振り返るような格好のまま待っている。風もないのに、長い金髪が軽く揺れた。
「観念しましたか」
 もうひとつ、白い長衣に身を包んだ姿が追いすがり、足を止めると、無感動に言い放った。
「裏切り者は生かしてはおけない。可哀そうですが、あなたがあちらへ行くのは、大きな損失であると同時に、敵の力を大きく増すことでもある。逃がすわけには……いかない」
「可哀そう?」
 追っ手のことばに、白いドレスの女は嘲笑めいた笑みを浮かべた。
「あなたにそんな感情があるのなら、放っておいて欲しい。わたくしは、戦いなど望んではいない。ただ、あの人のそばにいたいだけ。わたくしとて、長年共に生きてきた人たちを傷つけたくはない」
「それがあなたの望みでも、セイリスはあなたの力を放ってはおかない。戦いはまだ続いているのです」
 追っ手の握った右手の中に、光の線が生まれた。それは、飾り気のない白銀色の剣を形作る。
「わたしとて、あなたと戦いたくはない。それでも、戦わなければならない。あなたがセイリスのそばに行ったとして、やはりあなたが戦いたくなくとも、あなたはわたしたちと戦わなければならない。同じことです」
 その声は淡々として、何の感情も込められてはいない。顔にも、表情らしいものは見当たらなかった。
 しかし、その双眸は――緋の月のごとき目は、ただ哀しげに女へ向けられていた。相手を責める色はなく、どんなに辛くともほかに道はないから戦うしかない、と覚悟しきったように。
 その視線を受け止めた女のまぶたが、わずかに下がる。
「あなたにほかに道がないように……わたくし……わたしにも、もう選択肢はない。覚悟は決めたわ」
 女の手に、曲刀が現われた。
「世界と引き換えにしてもかまわない。どちらかが滅ぶなら、わたしが、こちらを滅ぼしてでも……!」
 凄絶なまでの覚悟。
 その思いを込めたような重い一撃が、細い腕を伝わったように空を切り裂く。
 横に跳んだ追っ手の袖を、衝撃刃が切り裂いた。さらに、後方に飛んだ見えない刃が木々を切り倒していく。
 剣に力を込め、追っ手も剣を振るう。二度、三度と、ふたつの刃が立て続けに甲高い音を立てる。
「なぜ、そこまで……
 白銀の刃には迷いが映る。その攻撃に殺気がないことには、女もとうに気がついていた。
「愛とは盲目なものよ。わたしの世界には、もう、それしかないの。あの人のもとへ行けないのならわたしの存在はないも同然。なくなるだけ」
 彼女は一体、いつの間に、どのように愛を――許されるはずのない想いを募らせていたのか。それはわからないが、追っ手にも、相手の想いの強さは感じられた。
 もうこの人は、穏かで物静かな女神ではない。笑顔を見せてくれていたあの頃とは、外見は同じでも、中身は別のものだ。身体の中身は本能に満たされている。それを奪えば、あとには何も残らないだろう。
 彼は、一度間合いを取ると、軽く右手を上げた。
 女が不審に思う間もなく、起こる強風。枯葉や切断された枝、木の幹、土埃や岩などが巻き上げられる。巨大な竜巻が森を席巻した。
 普通ならば、立っていられないほどの風。だが、それも二人にとってはさしたる問題にはならない。しかし、多少の目隠しにはなる。
 ――!?
 一瞬の判断だった。
 女はすぐに、魔法で気配を誤魔化すための幻獣を数匹放つと、人智を超えた速さで駆け始める。世界を滅ぼす覚悟はあるが、今ここで、追っ手に勝たなければいけないということではない。今の第一の目的は、あくまで想い人のもとへ向かうこと。
 ――わざと、逃がした……
 彼女が追ってくる様子のない追っ手の真意に気がついたのは、完全に森を脱出したあとのことだった。

 神聖フィアリニア王国軍が襲撃者を退けてから、翌朝。司祭長レスターは、エーリャ公国調査団の編成準備に追われていた。南方の友好国マドレーアの魔法兵団長も交え、短い間にいくつも指示を飛ばす。
 本来なら、結界が解かれてすぐに、エーリャ公国近隣の国の調査団が派遣されるなりするところだが、隣接国で唯一それなりの組織を持つマラフ=シーネラ連邦も、未知の地域へ分け入るだけの勇気と戦力は持っていない。それに、目的地は人智を超える魔法により隔離されていた国だ。中央四国の人々も、魔法へ対する畏怖心は強い。ここはフィアリニアの者たちに任せるのが安全、という判断であり――魔法大国フィアリニア自体を恐れてもいるため、水を差すまいという理由もあった。
 そのフィアリニア王国軍も、先の戦いで多少は消耗している。調査団の構成も少数精鋭、が前提のものとなる。
「国とか軍とか、組織のやることは遅すぎる。これだからイヤなんだよ」
 少年魔術師が文句を言いながら、晴れた空を見上げた。
 司祭長の屋敷の庭のテーブルに、ティーセットとクッキーが詰まれた皿が並ぶ。メイドのラチルが、忙しなくそれらに気を配っていた。
 ロイエの空色の目に、ぼやけた影が映る。それが悠然と空を横切り、地上に大きな影を落としていく。すでに、見慣れた光景だ。
「このまま、遊覧飛行を楽しんでくれてるだけならいいんだけどな」
 ザンベルがつまらなそうに、彼にとっては小さ過ぎるクッキーを放り上げて口に入れた。
「そんなわけないだろ。今、あそこから魔法で岩でも落とされたら、ぼくたち死ぬね」
「確かに、そいつはゴメンだな」
 言って、傭兵はたくましい肩をすくめた。
 ロイエは椅子に座って本をめくり、ザンベルは芝生に直に座っている。その周囲にいるのは、ラチルと警備の神官戦士のほかに、もうひとり。
「とにかく、早く調査団が決まるといいですね」
 庭の隅で木に手綱を結った白馬の身体を洗っているのは、少年騎士ナシェルだ。馬小屋からわざわざ白馬を連れてきて、世話係を困らせながらも自ら世話をするこだわりはいつもの通りだが、その口調にはいつもほど明るさがない。
 エーリャ公国は、彼の故郷だ。早くその地を踏みたいという思いは、ロイエ以上に違いない。
 浮遊大陸は、彼らの上空を横切り、聖王都トロイゼンの端から端まで影を這わせたあと、彼方へと消えていく。
 それを、司祭長たちは大聖堂の窓から、シリスとリンファは屋敷の窓から見送った。
「なぜ、あの場が必要だったのかしら。誰にも邪魔されない場所でするべき何かがあったのか、それとも、スプリルルガ自体の機能が目的のひとつか」
「遺跡で見たときには特別な機能があるのかどうかはわからなかったな。何か、戦闘用機能があってもおかしくない」
 竪琴の弦をいじりながら、シリスは窓際の椅子に座る魔女のことばに応じる。
「魔法の大砲で地上を焼き払うとか……でも、そんな単純な目的なら、わざわざ源竜魂ひとつ使ってまでスプリルルガを使う必要もないと思うの。もともと高位の魔術師がいるのだし、源竜魂の魔力を使いさえすれば、破壊は難しくないはず」
 実際、源竜魂を手に入れた魔族たちは、すでにいくつもの町を破壊している。スプリルルガならより安全地帯にいながら世界を滅ぼすことはできるだろうが、リンファには、それに意味があるとは思えなかった。
「それに、なぜ今までに破壊された町が選ばれたのか……なぜ、エーリャ公国なのか……それが気になるの。それに意味があるのなら、今相手がスプリルルガで行っているのは、何かの実験か、研究か」
 エーリャ公国。
 研究。
 そのことばに、シリスはふと、懐の違和感を思い出す。
 手を入れて手触りを確認すると、彼はくしゃっと丸まったそれを、丁寧に広げた。
『エーリャ公国バックナント市東区、ナード医院のレモンド医師へ。注文の薬はすべてそろえました。あなたの研究の成功を祈ります。大公さまが申し出を受けてくれると良いのですが。陰ながら応援しています』
 リンファがベッドに座るシリスのとなりに腰を下ろし、それを覗き込んだ。
「リンファ、気がついてたかい? フィリオーネさんは、人間じゃなかったんだ」
 何かが、頭の中でつながりつつあった。魔術師は、黙って耳をすましている。
「彼女に会ったとき……誰かに似ていると思ったんだ。昔、会ったことがあったんだよ。たぶん、彼女の母……メヌエに」
 長女ユリアとの戦いで死んだとされる女神、メヌエ。それが命を落とす前に、セイリスではない別の者と結ばれていたとしたら。
 そして、娘が生まれたのだとしたら。
 その男がメヌエを祭るスプリルルガを手に入れることも、娘の病を治そうとすることも、無理のない話しだ。
「レモンド医師が、彼女の父で、メヌエの夫ってこと……?」
「フィリオーネさんは、自分が外に出れば魔族に狙われる、父が人々に迷惑を掛けると言っていた」
 暗黒都市の隠れ家でフィリオーネと二人きりになったときのことを、シリスは自分の胸のうちにだけ仕舞っておこうと思っていた。しかし、今となってはそういうわけにはいかない。彼は、できるだけ記憶に忠実に、フィリオーネとの会話をリンファに伝える。
「『父以外の魔族がわたしを利用することもあ得る』……父は魔族か。セイリスの側近でしょうね。でも、それじゃあ次の目的は、娘の病気を治すことなのかしら?」
「そうだったなら、平和的だけれど……
 ことばを切って、吟遊詩人は、ドアに目をやる。
「誰か来たみたいだ」
 生まれた気配は、覚えのあるものだった。
 部屋の内部から注視されながら、ゆっくりとドアが開く。
「どうやら……あなたたちのほうも、だいぶ調査が進んだようですね」
 現われたのは、白い法衣の〈千年の魔術師〉――かつては雷魔王の二つ名を冠していた、セヴァリーだった。
「立ち聞きとは、趣味が悪いわね」
「あなたたちがどこまでつかんでいるか、知りたかったものですから。もはや、状況は相手の目的を探っていられる段階ではなくなりました」
 少年の姿をした元魔王は、リンファの余り気にもしていない風の嫌味に、薄っすらと苦笑する。
「スプリルルガの起動を止められていれば展開はまた違ったのでしょうが、相手のほうが戦力は上。郊外のゼピュトルとともに、しばらくあなたたちに同行することにしますよ」
「二人だけの行動に限界を感じたってわけ?」
「そうです。それだけ、相手が強力だということです。未だ魔族複数に、強力な魔術師……それも、いくらでも加勢を呼べる召喚士が、源竜魂を手に入れたのですからね」
「確かに、普通に戦っては力の差が大き過ぎるものね」
 リンファはやっと、肯定のことばを口にする。
「セヴァリーやゼピュトルがいてくれたほうが心強いよ」
 シリスのほうは最初から歓迎の笑顔を見せていた。その目が、ふと、窓の外の風景へ向かう。
「向こうも、準備はできたようだ」
 神官戦士の伝令が屋敷の前にとまった馬車から駆け込んできたのは、間もなくのことだった。

 多くの魔術師と神官戦士が、魔方陣を囲んでいた。それを前に、集められた調査団の馬車と馬が並んでいる。
 瞬間移動の魔法を強化した術が、大聖堂の中庭に描かれた魔法陣には施されている。そこから、目的地へ一気に転移するのだ。これほど大勢を一度に飛ばすなど、多くの魔術師を抱える魔法大国フィアリニアでなければできないことだろう。
「準備はいいかい?」
 自ら指揮を執る司祭長が、側近たち、それにロイエに声を掛ける。
「いいからとっとといきなよ」
 幌馬車のなかにいる弟が、素っ気ないことばを返す。
 司祭長は苦笑して、前進の号令を出した。彼のそばには、アステッド、それに彼に劣らず若いマドレーアの魔法兵団長の姿がある。少し離れたところに、白馬に跨る少年騎士もいた。
……そういえば、リーンは一緒に行かないのかい?」
 魔方陣の上に移動するのを馬車の中で感じながら、シリスがロイエに問う。
「さあ、一度戻ったあと、すぐいなくなったみたいだよ。ぼくは向こうのことなんてよく知らないけどね」
 少年魔術師は、どうでもいい、という調子で答えて、肩をすくめる。
「誰がいなかろうが、オレらで決着をつけてしまえばいいのさ」
「そのほうが、依頼料は増えるでしょうね」
 剣を磨くザンベルに、地図を確認しているリンファ。
 セヴァリーとゼピュトルの姿はないが、彼らなら、魔法陣がなくとも、自力で追いかけることはできるだろう。
「それならいいんだけれど」
 シリスが一抹の不安を感じた瞬間、魔法陣が放つ光が、周囲を白に染めた。