第三章 聖魔の鼓動


  四、動乱の角笛


 空は霧がかかったようにぼやけていた。
 否――霧ではない。砕け散った岩や木々の欠片が、塵ほどの粒となって舞い上がっているのだった。
 塵のベールの向こう側に、ぼやけたシルエットがいくつも動く。それは、人の目には捉えきれない速さで視界を駆け抜け、剣を突き出した。
 かちり、かちりと何度も乾いた音が鳴る。何度も突き出される剣先を、曲線を描く刃が受け止めた。無駄な力が入っていないことと余りに動作が速いことから音は小さいが、一撃一撃に込められた力が町ひとつ滅ぼすほどのものであることは、それを受け流している者にもわかっていた。
 これ以上の追撃は無駄と見て、青年が剣を引く。
「さすが、一対一じゃあ勝てねえな、魔王さま」
 その顔には悔しさがにじんではいるものの、同時に、余裕の色を残している。
 一方、彼の攻撃を完璧に防いでいた白い法衣姿の雷魔王――セヴァリーは、その顔と法衣を、血で汚していた。
……お褒めに預かり光栄ですね」
 顔に薄っすらと苦笑を浮かべ、彼は光の大鎌をかまえる。
 その背後に寄り添うようにして、金色の毛なみを持つ獣が周囲に鋭い視線を向けていた。
「致命的な決断かもしれんが……ここは、退くの一手だな」
「退いても退かずとも、致命的な結果に変わりありませんからね」
 力を封じられた魔王に、聖獣王。いかに強大な力を持っているとしても、二人だけで五人もの魔族を相手にするには、分が悪過ぎた。
 周囲のシルエットを警戒しながら、セヴァリーは溜め息をついた。
「援護も期待できないようですし……帰りますか」
 塵に包まれ、陽の鈍い天を仰いでつぶやくなり、光が二つの姿を包む。
 周囲でそれを見送る魔族たちも、それを追おうとはしない。
「さて……向こうも少しは戦力をそいでくれるといいね」
 やや高めの少年の声が響き、一陣の風が起きた。塵の膜が吹き飛ぶと、金髪碧眼の美しい少年が、空を見上げていた。
 燃えるように赤く染まった、遥か西の空を。

「閣下!」
 屋敷の前で馬の足を止め、出迎えのメイドとことばを交わす司祭長とその護衛に、黒髭を口の周りに生やした青い神官服姿が駆け寄った。胸にはフィアリニア王国第二位隊長の紋章を着けている。
「ジェルム卿ではありませんか。いかがいたしました?」
 息を切らせて目の前に膝をつく神官戦士の様子に、司祭長レスターは、非常事態を予感したように目を細める。
「すぐに、大聖堂にお戻り下さい! 敵襲です……聖王都の南から、不死者と思しき一団が接近しています!」
「なに……
 驚きの声を洩らしたのは、アステッドだった。
 レスターは一度目を見開いたあと、普段の顔からは似ても似つかないほど表情を引き締め、栗色の髪のメイドの少女に目を向けた。
「ラチル、ロイエたちを捜して屋敷に呼んで。ジェルム卿、王城に使いは?」
「すでに使者は送っております」
「それじゃあ、聖堂に戻るよ。ジェルム卿も」
 アステッドが手を差し出し、ジェルムを自分の馬に乗せた。
 手綱を操って飛び出していく主たちを見送り、メイドの少女は急いで屋敷内に引き返していく。
 少しずつ、トロイゼンの街は騒がしくなり始めた。
 自体が完全に把握できるまで、人々に混乱をもたらすような情報を洩らしてはならないというのは、不文律である。ただ、門からの出入りが禁止され、神官戦士たちの見回りが強化されたことで、人々も何事かが起きていることを知り、王城からの報せを待つ。
 大部分の者は日常を続け、少し不安な者は、家で状況の変化を待つか、神殿に身を寄せた。
 危うさを含んだ風が、聖王都の家々の間を駆け抜けて行く。
「え……
 何かに呼ばれたような気がした。
 誰もいない部屋で目を覚まして、シリスはベッドを降り、窓の外を見る。
 一見、明るく美しい、普段と変わりない聖王都の街並みだ。ただ、道行く人の足は何かに急かされるように速く、巡回中らしい神官戦士の表情も、少し、硬く見えた。
 記憶が抜け落ちていることを不思議に思いながら、机の上に置いてあった荷物を持って、部屋を出ようとする。
 ドアを開けたところで、見慣れた、類まれな美しさをかたどる顔と顔を見合わせる。
「目が覚めたみたいね。丁度今、呼びに来たところなの」
「呼びにって、何かあったのかい? 街の空気がおかしいようだけど」
 並んで歩きながら、二人はことばを交わした。
「ええ、レスターの屋敷から使いが来たの。詳しい話はまだだけど、何かあったみたいね」
 リンファはまるで、他人事のように淡々と告げる。
 ほかの皆が待つ食堂に向かいながら、シリスは考え込んだ。
「オレたちを呼んだということは、危険が迫っているのを回避させるためか……あるいは、危険に対処するためにオレたちの力を借りようってことか」
「それなら、依頼料は割増しね」
 表情のなかったリンファの顔に、薄っすらと笑みが浮かぶ。
 その様子に苦笑しながら、シリスは通路の先にあるドアを開けた。
「よお。具合は悪くなさそうだな」
 待ち時間に骨付き肉をかじっていたザンベルが、脂ぎった手でシリスの頭を軽く叩いた。
「ああ。すっかり休ませてもらったよ」
 苦笑を浮かべたままのシリスの顔色を見て、ナシェルはあきらかに、ロイエのほうもわずかに安堵した様子だった。
 しかし、ロイエは今にも店を飛び出しそうに、出入口に立ったままである。アートゥレーサに与えられた彼の使命のためにも、少しでも状況の変化があれば、早くその場に近づきたいのだろう。
 それに、兄の動向も気になるのかもしれない。
「みんなそろったなら早く戻ろう。食欲に負けた人は置いて行ってもいいよね」
「おいおい、オレはいつでも全開状態になれるぜ」
 残る肉をかじり取り、最後の骨を皿に放ると、巨漢の剣士は立ち上がった。
 代金はすでに払ってある。ほくほく顔の店主に見送られて、五人は店を出た。
「屋敷からの使者は先に戻ったのかい?」
「神官戦士が来たけど、すぐに出て行ったわよ。軍の召集がかかってるのかもしれないわね」
 来たときに比べて人通りの少ない辺りを見回し、シリスが問うと、リンファは平然と答える。
 軍の召集と聞いて、緋色の輝きを宿す目が見開かれた。
 単なる魔物たちの襲撃なら、ここまで聖王都全体が警戒することもない。しかし、軍が必要なほどの大部隊となれば、南の町から警告の使者がやってくるはずだ。
 そもそも、敵はどこから現われたのか。魔物の多いマドレーアから魔物たちの一団が北上して来たなら、マドレーアの王国軍がいち早く察知するに違いない。
……敵の正体が気になるな。急ごう」
 屋敷までは、そう遠くない。
 大聖堂の尖塔を横目に、早足で司祭長の屋敷に向かう。徐々に増えてきた神官戦士の姿を視界に捉えて間もなく、二階建ての大きな屋敷が見えてくる。
 屋敷の前の通りにも、馬にまたがる神官戦士たちが列を成していた。
 屋敷の門の前では、メイドの少女が周囲を見回している。
「ロイエ様! それに、シリス様、リンファ様、ザンベル様、ナシェル様ですね?」
 レスターに話を聞いているのか、栗色の目と髪の少女は、一行の姿を見つけるなり慌てて駆け寄って来た。
「ああ、ラチル。ほかはともかく、この図体が大きいだけのに様はいらないよ」
「お前なあ……
 ザンベルがあきれた声を上げる横で、吟遊詩人はもどかしいものを感じたように首を振った。
「オレたちにだって様はいらないよ。堅苦しいのは苦手なんだ……それより、レスターはオレたちに、なんて?」
 ラチルは、間近に見て吟遊詩人と魔女の容姿に驚いた様子だったが、すぐに緊張感を取り戻して表情を引き締める。
「え、ええ……手を借りるかもしれないから、とにかく屋敷にいて欲しいって……ジェルム卿の話では、ゾンビの群が南からやって来てるみたいだって」
「ゾンビ……?」
 リンファの、形の良い眉がひそめられる。
「普通なら、不死系の魔物が大群で押し寄せてくるなんてあり得ないわ。誰かが操っているとしか……
「それじゃあ、魔族が……
 白馬を駆った若い神官戦士が、言いかけたシリスのことばを遮るようにして声を上げながら、屋敷の前に駆けつけてきた。
「敵軍、南の草原を抜け北上中! その他の敵影はないが、我々は北の門の警戒に向かう!」
「了解!」
 ルテの紋章を刻んだ剣を携え、プロテクターつきの青い聖衣に身を包んだ神官戦士たちが唱和して、指揮官らしい白馬の男に従い、通りを去って行く。
 ラチルは祈るように手を組み合わせ、見送った。
 ゾンビは、神官戦士にとって悪い相手ではない。それに、今出て行く部隊は、直接戦闘に参加する部隊ではなかった。
 それでも、異常事態に対応するには、覚悟がいる。空気に含まれた緊張感に、その場で見ている者にすら、背筋を伸ばさずにはいられない。
 その緊張感を、少年の声が揺らす。
「か……かっこい~!」
 神官戦士たちが去ったあと、それまで黙り込んでいたナシェルが、たまりかねたように裏返った声を上げた。
 ラチルは、ギョッとしたように、育ちの良さそうな少年を見る。同年代のこの少年は、見るからに普通ではないシリスとリンファ、傭兵然としたザンベル、そして身近でいて遠い存在であるレスターやロイエに比べ、自分に近い者に見えていた。
 それも、少年が口を開く前までである。
「我々だけ、ここでのうのうとしているわけにはいきません。師匠、ぼくらも戦いましょう! ぼくはとりあえず、白馬を要求します!」
「いや、要求されても……
「白馬はともかく、屋敷でゆっくり待ってられないっていうのには賛成だね」
 困るシリスの後ろで、ロイエが溜め息混じりに言った。
「そりゃ、戦いが起きてるのに、黙って待ってるなんて話はないだろ」
 そのさらに後ろでは、ザンベルが少々物騒な笑いを浮かべ、愛用の大剣の鞘を叩いた。
 リンファも答えも、聞くまでもない。戦えば、依頼料が上がるかもしれないのだ。
 ラチルは、少し迷った。主の言いつけは、旅人たちに、屋敷に留まってもらうことなのだ。
 しかし、止めようとしたところで、この五人は止まりそうにもない。ロイエがアートゥレーサの使命を最優先させることも、何度も見てきたことだった。
 それに――少しでも、主の負担を軽くしたい。
「それで、レスターはもう、南のほうに?」
 シリスも、皆を止める自信はなかった。彼自身が、できれば戦いの手伝いをしたい、そして敵を自分の目で見ておきたいと考えていたこともあるが。
「今ならまだ……大聖堂にいるはずです」
 心の中でレスターに謝りながら、少女は答えた。
 本当にこれでよかったんだろうか。答えた直後に湧き上がる疑念に、少女の表情がかげる。
 そんな彼女に、吟遊詩人はほほ笑みかけた。
「ありがとう、ラチルさん。レスターたちと一緒に、ちゃんと無事に帰ってくるよ」
 優しい笑顔を、当人はそうとは知らぬ間に少女の目に焼き付けて、彼は仲間たちと一緒に、すでに歩き出している少年魔術師を追う。
 その背中から目を離せず、ラチルは長い間、立ち尽くしていた。