第三章 聖魔の鼓動


  五、負の世界の住人


 いつもは静謐な空気に包まれている大聖堂は、今は緊張感のある喧騒に包まれていた。賑やかさとはまた違う、胸の騒ぐような音の重なりだ。
 鎧の擦れる金属音と、馬のいななき、慌てたような足音。どれも、その場でじっとしているのが難しい張りつめた空気を演出する。
「確かに、手助けしていただくのはありがたいのですが……皆さん、屋敷でゆっくりしていただいても大丈夫ですよ」
 騒乱の中にあって、司祭長レスターは、いつもの通りの笑顔を見せた。会議室には、指示も一段落したのか、彼と護衛のアステッドだけが静かに次に動くべき時を待っている。
 屋敷から駆けつけたシリスたちは、相手ののんびりした様子に、少しだけ拍子抜けした。これでは、リンファが依頼料の上乗せを言い出すこともできない。
「戦力的には余裕なの?」
 胡散臭げに尋ねる弟に、レスターは満面の笑顔を浮かべ、
「それはもちろん。ロイエがいるこのトロイゼンを、危険にさらすわけがないじゃないか。大群ではあっても、しょせん、相手は知恵もない存在。負の魔力に操られた連中になんて負けないよ」
 精緻な模様が刻まれたカップをもてあそび、余裕の態度で答える。
 肩透かしを食らったのとほっとした気分が半々で、少しの間黙っていたシリスは、それでも、行動を変えるつもりはなかった。
「戦力は充分でも、多ければ多いに越したことはないよ」
「じっとしてるってのも退屈だしな」
 となりで、ザンベルが重そうな大剣の鞘を叩く。
「ぼくは、アートゥレーサさまの意志に従う。面倒だけど、トロイゼンを守るのもそれが理由さ」
 ロイエが、表情まで面倒臭そうに言う。背後で、とにかく白馬を要望するナシェルなど、意志を確認するまでもない。
 ただ一人、リンファだけは腕を組んで考え込んでいた。ここで戦ったところで、無駄に疲れることにしかならない。シリスやザンベルらと違い、彼女にとってはそうとしか思えないのだ。
 それも、やがては仕方がなさそうに口を開く。
「しょうがないわね……その代わり、滞在費はそっち持ちよ」
「そうですね、宿代はいくらでも出しましょう」
 渋い顔の魔術師に、一見世間知らずそうにも見える司祭長は、優しげな笑顔できっぱりと言ってのけた。
 部屋を出て、大聖堂の出口へ向かう通路にて。
「あの司祭長、なかなかやるわね……
 リンファは一人、肩をすくめたのだった。
 それから間もなく、旅人たちは神官戦士たちの部隊編成に加わる。
 監視のための小さな部隊を送ったあと、レスターはトロイゼンの南門の外に部隊を集めていたらしかった。白馬に跨り白いプロテクター付の聖衣に身を固めた神官戦士たちが整然と列を成している。その数、千騎ほどか。
 最後尾に、いくつか、馬車の姿もあった。そのうちの一台に、シリス、リンファ、ザンベル、ロイエが乗り込んでいた。乗馬の心得があるらしく、ナシェルは希望が叶えられ、白馬の手綱を握っている。
「余裕って割には、すぐに飛んできたじゃねえか。慌しいなあ、おたくの指揮官たちはよ」
 ザンベルが馬車の幌から顔を出し、司祭長の馬の横に愛馬を並べるアステッドに向けて大声を上げた。神官戦士は振り返り、顔に苦笑いを浮かべる。
「軍の動きに関わるものにゃ、色々面倒なこともあるのさ。お前も、軍規を確認しておけよ。大声も酒飲みも大喰らいも禁止だからな」
「おいおい、聞いてねえぞ、それは」
「ほんの半日もない間だろうに。ほんと、迷惑人間だよね」
 大げさにわめくザンベルの後ろで、ロイエがあきれたようにぼやいた。
 馬車の中だけが少々騒がしく、じっと出陣のときを待つ神官戦士たちの間を、南から、一騎の軽装の神官戦士が駆け入って来た。その胸に掛けられているのは、伝令の者であることを示す紋章である。
 伝令は旗を目印に司祭長の前まで駆け寄ると、手綱を引き、馬から下りて頭を垂れた。伝令の報告を聞き、レスターはうなずく。
 むろん、神官戦士たちはその場から微動だにしないままだが、彼らの意識は確実に、今まで以上に司祭長に向けられていた。
 伝令の者が馬車に誘導され、馬が世話係に引き渡されるのを見届けると、レスターはすらりと、司祭長が受け継ぐ刀身が円筒状になった聖剣を抜き、天に突き上げた。
「我々フィアリニア神聖国軍は、できるだけトロイゼンから離れた位置で負の世界の住人たちを殲滅することを目的に、これより南方の草原に向け出陣する。我ら勇敢なる女神ルテのしもべたちに、勝利の加護を!」
「勝利の加護を!」
 剣を天に向けてかざし、神官戦士たちが唱和する。
 白と青に彩られた部隊が、緑の草原を、ゆっくりと進み始めた。

 フィアリニア軍が進軍を始めて、せいぜい三、四時間が経過したころだった。
 先陣を切る部隊の神官戦士たちは、異様なものを目にする。地平線の上で、地面から生えた何本もの黒ずんだ茶色の木が、踊っているかのような姿。
 部隊を率いるジェノムが慌てて伝令を出すが、伝令がなくとも、それは本陣の司祭長らにも見えていた。同時に、斥候部隊が駆け寄ってくるさまも。
 斥候たちに話を聞くと、レスターは全軍に指示を出す。陣形を、横に広がる扇鴎の陣に変更するためだ。接敵することなく、魔法で相手を浄化しよう――できなくても、まずは魔法で戦力を削っておこうという狙いらしい。
「これでカタがついたら、オレたち出番なしだぜ」
 呻くザンベルの横から、傭兵を邪険に押しのけて、ロイエが顔を出した。彼もまた、魔法の一斉砲火に参加するのだろう。
「魔法攻撃準備」
 レスターの指示が飛ぶ。
 整然と並び、呪文を唱え蒼の月の力を導く神官戦士たちの前で、半ば崩れかけた亡者の群はズルズルと身体を引きずり、不気味に近寄ってくる。
 むろん、鍛えられた神官戦士たちの精神集中は、そんなことで途切れはしない。澄んだ鐘の音を合図に、一斉に魔法を解放する。
「〈セントフレア〉!」
 蒼い光が、目の前でうごめく群に収束していく。神聖なる光が、身体を大地に、魂を天へ還す――優しき浄化の魔法だった。
 相手は大群とはいえ、ゾンビは、それほど強力な存在ではない。少なくとも、千騎の神官戦士の魔法を受けて、余力を残せるほどの戦力ではなかった。
 レスターら、神官戦士たちは魂の束のように天へ立ち昇る光を見上げ、ザンベルとナシェルは、結局出番はないのか、と天を仰いだ。
「これなら確かに、わたしたちがいなくても余裕だったわね」
 リンファはすでにあきらめたように、自分で入れた冷たいハーブティーを飲んでいた。
「怪我人も出ないなら、それが一番だよ」
 シリスがほほ笑み、不死系の魔物の痕跡など何もなくなった草原を確認して、馬車の奥へと戻る。
 途端に、幌を隔てた外から、おぞましい女の悲鳴が上がった。
 ただの悲鳴ではない。頭の中に冷や水をかけられ揺さぶられたような衝撃に、シリスは膝をつく。リンファがカップを落とし、ザンベルもよろめいたように上体を揺らしながら、足を踏ん張った。
 立て続けに起こる悲鳴。
 激しい目眩をこらえ、耳を塞いで、シリスは馬車から飛び降りた。ロイエは意識がないのか、草の上に倒れこみ、ナシェルも耳を塞いで倒れた馬の横でうずくまっている。
 悲鳴が起こると、そばにいた神官戦士の一人が目を剥き、口から泡を噴いて馬ごと倒れこんだ。
 悲鳴の元に近づくと、目眩と吐き気が酷くなるが、シリスはまず敵の姿を確かめようと、素早く視界を確保する。つい先ほどまでなかったはずの強い邪気のため、相手の位置は簡単につかめた。
 そこに、見たことのない姿があった。
 まるで、何百もの死体を凝り固めて作ったような、大きな人型。その身体を構成する死体には、幼い子どもや赤ん坊とも見える姿もあり、痛々しさと異常さを増している。
「あれは、魔界から召喚された狂王ザドムよ」
 耳に詰め物をしたらしいリンファが、シリスのあとを追ってくる。
「この世界に器を用意し、ザドムの魔霊を召喚したの……でも、魔霊など、そう易々と扱えるものではないのに」
「よほど強力な魔力を持った者がいるんだろうね」
 耳を塞いでも聞こえる悲鳴に、脂汗を流しながら、シリスはうなずいた。
「この悲鳴も、狂気を与えるもの……このままじゃまずいと思うの」
 リンファの言う通り、すぐに対応できた者は耳を塞ぎ、何とか耐えているものの、精神的に強い神官戦士のなかでも、多くの被害が出ていた。特に、最前列は馬も神官戦士もほぼ壊滅状態に見える。
 司祭長らのいる本陣の大部分は無事だが、ここから全体を立て直すのは時間がかかるだろう。その間に、ザドムの化身が新たな攻撃に出ればひとたまりもない。
「狂気を振り払うには……
 考えて、シリスは思いつく。
 背負っていた竪琴を左手に抱え、悲鳴が途切れる間に右手を弦に添え、大きく息を吸い込んだ。間もなく、阿鼻叫喚の戦場に不釣合いな歌声と音色が流れ出す。

 闇に光を照らし まどろみに希望の火を
 目覚めのラッパが吹き鳴らされ
 角笛が出発を告げる

 ジェッカの導くままに
 還りなさい あなたのもとへ
 澄んだ空気 清らかなる水 命育む大地
 めぐる光をその身に宿して……

 歌はなおも、騒がしい戦場に響き渡る。ザドムの悲鳴を上回るほどに。それも、ただの歌ではない――精神を正常に戻し、強く保つ効果のある呪歌だ。
 意識のある者は、歌を耳にして、少しずつ正気を取り戻していく。
「伝令を! 全軍、防御壁展開!」
 周囲の神官戦士たちにも聞こえるよう、レスターが声を張り上げた。その声を耳にした、正気を留めていた者から順に、魔法の防御壁を展開していく。大きな範囲を守る分壁は薄くなるが、それも数百も重なれば、充分な強度になる。
 防御壁用の呪文を唱える神官戦士たちの間で、レスター本人は別の呪文を唱え始める。
「やっと出番が来そうだな」
 ザンベルにナシェル、起こされたらしいロイエも、シリスとリンファのもとに駆け寄った。
 彼らとフィアリニア軍の前で、ザドムはのっそりと身を起こし、様子をうかがうかのように、目鼻も口もない顔を左右に動かす。非現実的で、人形じみた滑稽な動きだった。
 見回すような動きをやめると、ザドムは左手をわずかに上げる。
 そこへ、レスターが聖剣の先を向けた。
「〈クライムホリーズン〉!」
 天が割れ、そこから洩れ出した太い光の柱がザドムへ、その巨体が立つ大地へ突き刺さる。神聖系魔法でも、使い手は数えるほどいないという最高位のものだ。
 これで倒せなければ、今後の戦いは厳しくなる。
 神官戦士たちは祈るような目で、それ自体が眩しい光を放つ、白い柱を見上げていた。
 やがて、光はふっと消えうせる。
 異質なものが、そこに存在していた。赤黒い、まるで血でつくりあげた檻のようなものが、ザドムの身体の表面を網の目のように覆っていた。
「そうでなきゃ、やりがいがないぜ」
 リンファが呪文を唱え始め、ザンベルが剣を抜いて駆け出していく。それを、慌ててナシェルも追いかけた。
「軍規も何もないね、あんなんじゃ」
 あきれの声を上げてから、ロイエも呪文を唱え始めた。
 魔法は通用しないと見たレスターも、動ける者を中心に部隊を編成し直している様子だった。それを尻目に、傭兵は長大な剣を軽々と振り上げてザドムに向かう。
「〈マナグランド〉」
 ロイエの魔法が飛び、ザンベルの剣に光が宿る。
「よっしゃ、行くぜ!」
 まるで鼓動のような震動を繰り返す赤黒い帯の網の目を狙い、剣士は、体重と勢いを乗せた突きを放った。剣圧で、空気がブン、と大きな音を立てる。
 刹那――
 後ろから駆け寄ろうとしていたナシェルは、跳ね上がった巨躯を目にして、慌てて馬の足を止めた。