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 ツクヨミの幼年時代はお世辞にも平穏とは言い難かった。当時、人間界では乱が多発しており、戦が続いていた。そして、まるでそれに呼応するように妖界もまた乱れ、ツクヨミの産まれた里も近隣の妖狸族の軍勢に攻め滅ぼされた。
 妖狸。ただでさえ妖狐と仲の悪い狸族である。妖力こそ妖狐に劣るものの、こと肉弾戦闘に置いては遙かに妖狐のそれを凌ぐ。
 たちが悪いのは、妖狸の男は犬狼族以上に性欲旺盛、精力絶倫であり、おまけに女は多産系ということであった。その数は軽く妖狐族の十倍に届く。
 妖狸の社会は極端な男尊女卑。女が市で売り買いされる―――そんな社会だった。その“市”にいつからか、他の種族の女が混じっているという噂が、どこからともなく流れ始めた。
 それも、元来美女が多いとされる妖狐、妖描族の娘達ばかりである。時を同じくして、妖狐、妖描の国では年頃の娘が消えるという事件が多発していた。
 噂が先立ったのか、蒸発事件が先立ったのか、その辺りの是非はこの場合どうでもよかった。ただ、重要だったのは、“噂はどうも本当らしい”ということだった。
 真っ先に腰を上げたのが、当時から既に歴代最強と謳われていた妖描族の首領、虎鉄であった。虎鉄は方々に檄を飛ばし、兵が集まるのももどかしいとばかりに僅かな手勢を率いて自ら妖狸の国に乗り込んだ。
 奇襲であった。宣戦布告も何もない、突然の他種族の領国侵入に当然妖狸族も激怒した。
 こうして、妖猫族対妖狸族の戦が始まった。
 戦いの序盤は、妖描族の圧倒的優勢であった。奇襲効果が残っていたというのもあるが、何より首領自ら先陣を切って敵軍に切り込んでいく様に、本来気分屋な妖描達も鼓舞され、恐怖を忘れて戦ったというのもある。その勢いや烈火の如し、瞬く間に妖狸族の領土の半分を支配下に置いた。
 だが、その後、徐々に妖描族の軍勢は押され、撤退戦を余儀なくされた。理由はいくつかあるが、最も大きな理由は圧倒的な人口比であった。
 つまり、妖描族は妖狸を攻め、その領土を取れば取るほど個々の里を守る人数は手薄になる。その手薄になった箇所を津波のような狸の軍勢が襲い、揉み潰せば当然近隣の里が援軍を送る。さすれば援軍を出した町も手薄になるという具合である。
 妖描族の兵士に例え十人斬られようと、十一人目が勝てばよい―――そういった戦術が出来るほどに、妖狸族の数というものは圧倒的だった。至極、妖描族は徐々に撤退していくしか無かったのである。
 この時、妖狐は何をしていたか、妖狸の“市”で得られている娘というのは妖狐の娘も多数居た。当然、攫った妖狸族に対して激怒し、妖描族に習って挙兵をするのが普通である。―――が、ここが妖狐族の、最も妖狐族らしいと言える所であった。
 狐は、群れることを好まない。
 当時、妖狐の里というのはいくつものそれが各地に散らばるようにして点在していたが、その里々に里長と呼ばれる者が居る以外には統一の首領という存在が居なかった。否、自らを妖狐の首領であると名乗っている者は居たが、そういった腕自慢は幾人もおり、そして支持をするのは同郷の狐のみという状態であった。
 至極、妖狐族全体の総意というものなどは無く、妖描族対妖狸族の戦においても傍観を決める里もあれば妖描族に荷担する里、または妖描族には協力をせず、妖狐族のみでの戦を仕掛けた里、はたまた妖狸に尻尾をふる里という具合にバラバラであった。
 妖狐の一番の悲劇は、やはり各個の里々でバラバラに動いたという点にある。特に、己の里のみで妖狸と戦おうとした者等は哀れであった。
 薄汚い狸など己一人で十分だと豪語した六本狐の某に始まり、各里の腕自慢の狐達は山のように黒々とした狸の軍勢に各個撃破された。
 そう、例え万の力を持った大妖狐といえど、10の力を持った万の兵と戦えばどうなるか―――妖狐対妖狸の戦は万事が万事、そうであった。
 仮に、件の六本狐や白狐の五本三兄弟云々が結託し、共同戦線を張ればどうであったろう。少なくとも、ああも容易く、無惨に負けてその皮を剥がれ、狸の尻に敷かれることは無かったのではあるまいか。
 だがそこは鼻っ柱の強い妖狐族。特に、己が強ければ強いほど他者を見下そうとする彼らは結局は結束できなかったばかりに敗れた。
 ツクヨミの生まれた里も、その一つだった。小さな里は突然やってきた黒い津波に瞬く間に飲み込まれ、壊滅した。
 生き残ったのはツクヨミ一人だった。彼女は戦いの怒号が聞こえ始めるやいなや一人里から逃げ出した。途中、狸にも襲われたが、銀狐の力が彼女を守った。―――そう、この時こそが、ツクヨミが自分の中に眠る力に気づき、行使した始めての瞬間だった。
 幼年期のツクヨミは、決して妖術の達者な方ではなかった。むしろ、同期の中でも最下位と言ってもいい程に、術を使うのが下手だった。
 変化、狐火、憑依―――妖狐はこの三つの術を使いこなして始めて一人前と認めてもらえる。だが、ツクヨミはできなかった。それこそ、同期の子らが一人前となっていく中で、そして自分より何年も後に生まれた者達に追い抜かれていく中で。
 陰口を言われた。なまじ銀色の毛並みを持って生まれただけに、落ち零れた時の中傷も一際酷かった。
 やがて成長するにつれ、陰口の内容がただ術が巧く使えないという理由では無いと言うことが分かった。出生、詰まるところツクヨミの母親と父親に関する陰口だ。そこで、ツクヨミはしょっちゅう家を空ける母親が何をしているか、そして自分の父親が人間であるということを知った。
 ろくな母親ではないということは、ツクヨミ自身感じてはいた。口は悪く、いつまでも術の使えないツクヨミをいつも手ひどく罵った。
 たまに馳走を作ったかと思えば、十中八九幻術だった。ツクヨミは何度も土を噛まされ、その都度馬鹿だと罵られた。―――いつしか、ツクヨミは常に幻術看破の目で物を見るようになった。
 それでも、母親らしいことを全くされなかったわけでもなかった。まだ、物心つくかつかないかの頃にもらった首飾り。着替える時も、風呂に入るときも決して外すなと、珍しく真面目な顔で言われた。ツクヨミはその戒めを遵守し続けた。
 時が流れ、ツクヨミも外見的にはすっかり一人前になった。だが、依然術は使えぬままであった。もはや里の狐達もツクヨミを罵るのに飽き、まるで空気の如く彼女を扱った。
 あくまで構い続けたのは、母親だけだった。しょっちゅうツクヨミに絡んできては口汚く罵り、喧嘩になった。が、ツクヨミは一度も勝てなかった。当然といえば当然、ツクヨミは初歩の初歩である狐火すらまともに使えないのだから勝負にならなかった。
 負ける都度、ツクヨミは術の鍛錬の時間を増やした。いつか強力な術を身につけて、同郷の妖狐達を、そしてあの母親を見返してやるのだと。―――だが、それが叶う前に、戦が起きた。
 ツクヨミの里と妖狸族との戦が始まった時、母親は家を空けていた。心細かった。銀狐でありながら、里一番の落ちこぼれの烙印を押されたツクヨミには他に頼る大人も、親しい友達も居なかった。
 だから、ツクヨミは逃げた。一人で居る恐怖が極限に達した時、わけも分からず逃げ出した。何処をどう走ったということは憶えていない。気がついた時には、無数の妖狸の男達に囲まれていた。
 男達は汚らしい舌を覗かせながらツクヨミに近寄ってくる。ツクヨミは半狂乱になって抵抗した。狐火を出した―――が、ロウソクのそれのように頼りなげな炎は男達の嘲笑こそかったものの、恐怖、撤退させるには至らなかった。
 瞬く間に間合いを詰められ、土の上に転がされた。男達の吐く生臭い息が顔中にかかり、吐きそうになる。男の一人が、衣類を剥ぎにかかった。首飾りの紐ごと、着物の上着が破り捨てられた―――悲鳴を、上げた。
 その時だった。今まで感じた事のない力が体の奥底から満ち満ちてきた。不思議な高揚感だった。ツクヨミは遮二無二、そのわき上がってきた力を右手の平から放った。
 次に悲鳴を上げたのは男達の方だった。ツクヨミを囲んでいた男達は皆が皆、紅蓮の炎にその身を焼かれ、七転八倒していた。
 騒ぎを聞きつけて、瞬く間に数十、数百の妖狸の兵が集まってきた。だが、それらはツクヨミの炎の前に瞬く間に灰にされた。まるで紙人形をたき火にくべたように、容易く。
 一体何が起きたのか、ツクヨミはその答えを出すためにしばし茫然自失とせざるを得なかった。ただ、すぐに分かったことは今の自分の力なら妖狸の群など容易くなぎ払えるという事だった。
 ツクヨミは、何の気なしに振り返った。里もまた、妖狸の軍勢に攻められ、その城郭は焼け落ち、怒号と悲鳴に満ちていた。すぐに踵を返せば、自分の力で妖狸の軍勢を追い払えるかも―――そう思った。
 だが、ツクヨミは戻らなかった。千切られた首飾りを探して拾うと、そのまま里に背を向けて歩き出した。
 いい気味だ―――とまでは思わなかった。ただ、助けたいと思うほどには気持ちが高ぶらなかっただけの話だった。
 ツクヨミはそのまま、各地を転々と流れた。特に行きたい場所があったわけではなかった。否、生まれた里の外の世界のことなどは全くと言っていいほどに無知だった。ただ、“落ち着けそうな場所”を求めて、歩き続けた。
 途中、幾度となく妖狸に出くわした。いずれも小規模の部隊だったから撃退するのに難儀はなかった。
 数年、そうして彷徨ってたどり着いた先が、御那城山の里だった。当時の里長は穏健派であり、戦の中も傍観―――否、幾分妖狸に協力的とも言える立場を取ることで里の安全を保持し続けていた。
 だが、それも危ぶまれ始めた。というのも、開戦以降沈黙を保ち続けていた犬狼族が対妖狸の宣戦を布告したためであった。義侠心の厚い犬狼の民は蹂躙されるがままの妖狐族や、撤退戦に追い込まれ、ジリジリと領土を削られる妖描族に同情的であり、他種族同士の戦には不介入の姿勢をとり続けてはいたが、まだ血気盛んな若い将の幾名かがもう我慢ならんとばかりに動き出したのがきっかけであった。
 犬狼族の戦線介入は妖狸族を大いに戦慄させた。元来、狸というのはただでさえ犬の類が苦手である。それに加えて、例え首をはねられても三日三晩戦い続けると言われる妖狼の伝説は妖狸の兵達を怯えさせるには十分過ぎた。
 怒濤のように攻め入ってくる犬狼の軍勢に妖狸の民は恐々とし、その挙げ句に出した結論が強力な妖具をもって犬狼の軍を打ち破るというものだった。通常戦闘においては鬼神の如く戦い、集団戦においては無敵とまで言われる犬狼達だが、事、妖術戦に関しては一歩退かざるを得ない。その唯一無二の弱点を突くために目をつけられたのが御那城山の宝剣だった。
 だがしかし、御那城山の妖狐達にしてみれば山の地下に眠る宝剣は命の源とも言える物である。それを差し出すと言うことは近い将来には御那城山の里を捨てるということである。妖狸のこの要求にはさすがの穏健派の妖狐達も戦意を奮い立たせた。 
 が、勝算があるかと言えばそれは限りなく無に近かった。そもそも、戦って勝てると思わせるほどの猛者が居れば、妖狸に尻尾を振るフリなどはしなかったのだ。
 戦えば負ける。だが、戦わねばならない―――それば必ずしも里の総意では無かったかも知れない。御那城山の里を捨てても、命さえあればと思った妖狐も居た。だが、結果的に御那城山の妖狐達は妖狸に対して戦いを挑んだ。
 第一戦目は、それこそ大敗と言って良かった。背水の陣を敷く妖狐達が必死であれば、宝剣を手に入れねばならない妖狸達も必死であった。もともと僅かしか居なかった兵の六割を失い、次攻められれば待つのは壊滅―――誰も口には出さなかったが、御那城山の妖狐は皆が皆、そのことを自覚していた。 
 そんなときだった。里に、ふらりと一人の妖狐がやってきたのは。銀色の長髪に、ボロボロの衣装。だが何処か神々しさの香る女の妖狐だった。
 御那城山の妖狐達が真っ先に思ったのは“一体どうやって里に入ってきたのか”という事だった。里の周囲は黒々とした妖狸の兵にぐるりと囲まれているのだ。よそ者が入ってこれる道理など無いはずだった。
 銀髪の妖狐―――ツクヨミはただ一言、“蹴散らした”と言った。妖狐の一人が慌てて物見に走ったところ、里を囲んでいた妖狸の軍が一夜のうちに壊滅している事が確認された。。
 突然の救世主の到来に、御那城山の里は大いに湧いた。当のツクヨミ自身、里の皆の歓び様を見て始めて、自分が行ったことの凄さを認識したという感じだった。
 途方もない歓待を受けながら、ツクヨミは里長の老狐に素性を聞かれた。その時になってツクヨミは自分の本当の素性を知る者がもう誰もこの世に生きていないのではないかという事を思った。
 咄嗟に、出任せが口から出た。自分は金毛白面九尾の狐の唯一の子孫、長く深山に籠もって修行をしていたが、同族の危機を見るに見かねて下山してきたのだと。
 当時、自分こそ九尾狐の子孫であると嘯く輩は大勢居た。が、この時のツクヨミほどの説得力を持った者は恐らく居なかったに違いない。
 里の妖狐にしてみれば、自分たちが全く歯の立たなかった妖狸の軍を事も無げになぎ払い、さらには天の使いとも言われる銀色の毛並みをもった銀狐がそう言うのであれば十分に信じうることであった。
 こうして、ツクヨミは安住の地を得ると共に生まれて初めて、他者から尊敬され、敬われるということの心地よさを知った。その代わりに、とばかりにツクヨミは御那城山の里を良く守った。犬狼族の戦線介入という事もあって、さすがの妖狸も御那城山の里だけに大兵力を割くわけにはいかないということもあり、ツクヨミは時折思い出したように送られてくる手勢を軽くなぎ払うだけで良かった。
 戦は、妖狸の降伏、妖狐族、妖描族との和平という形で幕を下ろした。それぞれの領土は開戦前のそれと同じく、既に壊滅してしまった妖狐の里については希望者を募って移住という形になった。
 この頃になると、ツクヨミは実質的に御那城山の里の長になっていた。よそ者の台頭に初めこそ御那城山の妖狐達は難色を示したが、しかしツクヨミが里の窮地を救ったというのも事実である。それに、里長が銀狐というのもいかにも周辺の里に対して睨みが利くと、そういった政略的な打算もあってツクヨミは里長に推挙されたのだった。
 一方、ツクヨミ自身はといえば、この度の戦の中での妖狐族の在りようを憂えていた。妖狐は数こそ少なかったものの、その総合的な戦力としては決して妖狸に劣ってはいなかった。ただ、互いのプライドが邪魔をして戦力分散の愚を重ね、悉く撃破されたのが悔やんでも悔やみ切れぬ所であった。
 ならば―――と、ツクヨミは思った。妖描族以上に気分屋で、猜疑心が強く、鼻っ柱が強い妖狐族を有事の際に一致団結させしめるにはどうしたらよいか。今後、またいつ妖狸との戦が始まるとも知れない、その時に同じ愚を犯さない為には、誰かが妖狐を支配せねばならないと。
 自分になら、それが出来るかも知れないとツクヨミは考えていた。既に銀狐としてのその名は轟き、長になってからというもの修行の類は欠かさず行い、ひたすらに鍛錬し続け尾の数は既に四本にもなっていた。そしてさらに、自分には対妖戦闘の切り札とも言える“力”もある。
 そう、自身の内に眠るもう一つの力。霊力の存在もツクヨミの自信の要の一つだった。自分以外の誰も使えない力。もちろんツクヨミはその力を見せびらかしたりはしない、あくまで奥の手として、誰にも、御那城山の妖狐達にさえ秘密にし続けた。
 星の数ほど居る妖の中で、自分にしか使えない力。それは少なからずツクヨミに優越感を抱かせ、支配者たらしめるには十分だった。
 ツクヨミは多少強引な方法も用いて、まずは周辺の里々から支配下に置き始めた。犬狼族のように忠義心が強いわけでもなければ妖描のように気分屋ながらも血族が大事にして“家”を作っているわけでもない妖狐の民をまとめるには、絶対的強者による恐怖政権を確立するのが手っ取り早かったのだ。
 ツクヨミには、幾千の妖狐を従わせるだけの力が十分にあった。そもそも、名の聞こえた猛者の多くは戦乱時に打ち取られており、さらにそれ以上の七本、八本狐の某といった大妖狐達は政治権力には一切興味のない輩ばかりで誰一人としてツクヨミのやることに敵し得なかった。彼らは戦乱時に置いてさえ同族の蹂躙を傍観し続けた連中であるから、このことは当然と言えた。
 とにもかくにも、ツクヨミは妖狐を一つにまとめようとした。目的は勿論、有事の際に妖狐族が一致団結できるようにということなのだが、そこにツクヨミの征服欲といったものが全く混じっていなかったかというと嘘になる。
 自らの力を誇示し、他者を強制的に従わせる。それに伴う快楽は一種麻薬的だった。なまじ、ツクヨミはそういった快楽とは無縁の幼年時代を送ったが故に、夢中になって“支配”をした。
 だが、時々酷く虚しくなることがあった。否、虚無とも少し違う、どちらかというと喉の渇きに近い感覚だった。それは不思議とツクヨミの力がますます増大し、傘下に入る里が増えれば増えるほど増していく様だった。
 そんなときだった。ツクヨミは風の噂で母親が生きているという事を知った。名こそ違うものの、千里眼で確認したその姿、素行は間違いなく母親のそれだった。 
 一瞬の安堵、その後に襲ってきたのは凄まじい不安だった。母親―――真狐はツクヨミの事を当然知っている筈である。そして、その素性の実態も。
 既に妖狐の首領としての地盤は盤石に近いとはいえ、もし“真相”がバラされたらどうなるか。表向きは何も変わらないであろうが、きっと自分のことを良く思っていない妖狐達は陰口を叩くに相違ない。今まで尊敬と畏怖の顔を決し崩さなかった者達も、腹の底では蔑笑し、薄ら笑みを無理矢理かみ殺したような顔で自分に拝する様になるのだ。
 ツクヨミは恐怖した。幼年期の頃の記憶が蘇った。誰彼からもまるで空気の如く扱われ、蔑視を向けられ、後ろ指を指されながらひそひそと陰口を叩かれる、あの恐怖が、また―――。
 口を封じねばならないと思った。だが、ツクヨミ自身がわざわざ出向いたのではあまりに不自然であるし、何より目立つ。
 だから、適当な理由を作って捕縛させしめる事にした。だが、事は遅々として巧く行かなかった。使者は追い返され、強引に捕縛させようとすれば返り討ちに遭う始末だった。よそ者の傭兵崩れまで雇って捕らえようとしたが、これも失敗した。
 あくまで目的は口封じ。説得して駄目ならば、何らかの封印牢に閉じこめるのもやむを得ないという所までは考えたが、殺すつもりは無かった。―――そう、実際に顔を合わせるその時までは。
 変わっていなかった。相変わらずの、人を食った様な態度、口の悪い所まで昔のままだった。
 言葉を交えれば交えるほど、耐え難い憎悪の念が沸々とわき上がってきて抑えきれなくなった。
 そもそも、この母親が、眼前の女が全ての苦しみの元凶なのだ。
 本来ならば銀狐として里中の妖狐から尊敬の眼差しを送られ、畏怖される筈であった自分が里一番の落ち零れにされてしまったのも件の首飾りのせいなのだ。出生を隠さねばならなくなったのも、そして今なおその露見を危ぶんで歯の根の合わない思いをしなければならないのも全てこの女が原因なのだ。
 ツクヨミの脳裏に、走馬燈のように駆けめぐるものがあった。
 毎日、日が昇る前から日が暮れた後まで、ひたすらに鍛錬し続けた日々。ひとえに、この母親を見返してやらんが為、ただそのためだけにツクヨミは血を吐く思いで耐え続けた。
 その時の思いが、今こそ遂げられる。何度挑んでも歯が立たなかった相手に、今ならば、今の自分の力ならばと。
 事実、戦いは常にツクヨミ優位のまま進んだ。多少の苦戦はあったものの、それでも最終的にツクヨミの勝ちには変わりが無かった。
 幻界ごと灼熱地獄と化す、終局の炎。
 そして、幻界そのものを無と化す白の閃光。
 ツクヨミの体以外には塵一つ存在しない世界が、そこにはあった。

 

 

 



 
 ―――妖界、御那城山の頂上。


 幻界ごと“破壊”した後、その場に戻ってきたのはツクヨミただ一人きりであった。
 屋根瓦の上にしっかりと降り立ったその瞬間、ツクヨミは目眩にも似たものを感じて片膝と右手を瓦の上に突いた。
「くっ………」
 酷い脱力感であった。さすがの五本狐といえど、幻界全土を灼熱の炎で包む荒技、さらにはその後の世界そのものの破局。言うなれば核爆発の中心地に居たようなものなのだ。それだけのエネルギーから自身を防御する事だけでも膨大な量の妖力、霊力が必要になる。
 ツクヨミは全く異なる力で構成された防御結界を幾層も連ね、さらに交互に反転させその間に生じる反発力すらも利用して耐えきったものの、さすがに限界、力は枯渇しかかっていた。
「尾が……」
 五つに分かれた尾がざわめき立ち、徐々に重なり合うようにして一本になる。妖力の消耗が限界に達した為の一時的な現象だった。妖力さえ回復すればまた尾は別れるのである。
「……勝った、…今度こそ……母上に……」
 呟く。
 だが、不思議と何もこみ上げてくるものだなかった。これで大丈夫という安堵感も無ければ、因縁の“敵”に勝利したという至福感も皆無だった。
「ッ………とにかく、休養を…」
 既に、体の自由さえ怪しくなり始めていた。ツクヨミは最後の力を振り絞り、僅かに浮揚すると己の部屋のテラス目掛けて舞い降りた。
 テラスには、給仕娘のモモが倒れていた。だが、死んでいるわけではない。既に呪いの影響は薄く、徐々に快方に向かっているようだった。
「…ッこれで………」
 よかったんだと、まるで自身に言い聞かせようとするかのように呟きかけた。だが、その言葉は途中で止まった。どこからともなく、くすくすと、女の笑い声が聞こえてきた。
「誰だッ……!」
 ツクヨミが声を張り上げると、笑い声は一層大きくなった。そのあまりの声に、ツクヨミは思わず両耳を塞いだ。が、笑い声は相変わらず聞こえてくる。
『さすがに、随分消耗したみたいねぇ、ツクヨミ?』
 今度は、笑い声ではない。“言葉”だった。それも、聞こえる筈のない言葉―――。
「なっ………………………」
 ツクヨミは絶句した。
 この女の声が聞こえるはずが無いのだ。間違い無く死んだ筈、その死体すら消滅し、塵すら残っていないはずなのだ。なのに―――
『さて、ここで問題。私は誰でしょう?』
 声の主は楽しくて仕方がないとばかりにふざけた質問をしてくる。母上………と、渇いた声で漏らしたのは質問に答える為ではなかった。
「何故だ…、一体どうやって………」
『あんたもつくづく馬鹿よねぇ。避難したのよ、“安全な場所”に』
「安全な場所―――」
 ツクヨミは戦慄した。まさか、と、乾ききった舌を漸く動かす。冷や汗が、こめかみを滴った。哄笑が、耳の内側に響いた。
『そ。アンタの体の中よ』

「馬鹿な…憑いたというのか、妾に…ッ!」
 わなわなと体を震わせ、ツクヨミは己の中にいる“敵”に問いかける。くすりと、まるでその問いに答えるように笑い声が聞こえた。
『普通なら、妖狐が妖狐に憑くなんて事は出来ない…でも、ツクヨミ、アンタは生憎と普通じゃなかった。何たってアンタには半分人間の血が通ってるんだからね』
 その“人間の部分”に真狐は憑いたということなのだ。ツクヨミは、既に顔が青ざめている。
『ツクヨミ、アンタは半分人間であるが故に最強の武器を手に入れた。でも、同時に最大の弱点も手に入れてしまったのよ』
「ッ…く…」
 不意に、右手が突然動いた。ツクヨミの意志に反して、右腕が勝手に上下し、指まで勝手に動き始める。次に、左手、足と、体の自由が徐々に奪われていく。
「なっ…何故っ、あの時、妾に近寄る事すら出来なかった筈っ……一体いつ―――」
 怯え、パニックを起こしたようにツクヨミが声を上げる。既に、その体の首から上以外は殆ど真狐の支配下になっていた。
『そりゃあ、アンタが幻界を燃やす直前よ。その時に潜り込まなきゃ、さすがにあたしも焼け死んでたわ』
 くすくすと、笑う声が聞こえる。続いて声も。
『まだ分からないの? あたしを助けたのは、あんた自身なのよ』
「妾が、…助けた…?」
 どういう事だ―――ツクヨミはしばし、時を忘れて思案した。あの時、幻界を燃やす直前の出来事を思い出し、一つ一つ吟味していく。一体何が、“助け”となったのか。
『アンタに憑くにしても、まずはその周りの炎を防がなきゃならなかった。でも、あたしにはそんな力は無いし、妖刀に蓄えた力を使ってもまだ足りなかった。…ほんと、“アレ”が無かったら焼け死んでた所だわ』
「……首飾り…―――!」
 ご名答、と、真狐が呟く。
 そう、龍の髭で作られた首飾り。妖力抑制の力があるのに加えて、灼熱を吐く龍の髭は言わずもがな凄まじい耐火性能を持っている。真狐はこの首飾りと水の四宝剣の制御刀で防護膜を張り、一瞬のうちにツクヨミの懐に飛び込んで取り憑いたのである。
「そんな………そん、な……」
 皮肉といえば皮肉だった。全ての力を注いでの必殺の攻撃。だが、それを唯一凌ぎきる方法を示したのも自分だったのだ。ツクヨミはその場に崩れ落ちたかった。が、今の彼女にはその自由すら許されていない。
「妾の…負け、なのか………」
 戦いを始めた時点での戦力差は万対一以上。だが、蓋を開けてみれば、自分は妖力と霊力の殆どを使い尽くし、さらにその体の自由まで奪われる始末。これを敗北といわずに何というのであろう。
「ッ…くっ…殺せッ…!」
 ツクヨミは吐き捨てるように言った。妖力、霊力も失い、体の自由まで奪われた今、もはやツクヨミに抗う術は無かった。が―――
『殺す? ツクヨミ、あんた何言ってるの?』
 くすくすと、小馬鹿にするような笑い声が聞こえた。
『初めに言ったでしょ。“死ぬより辛い目に遭わせてやる”って』
「なっ………!」
 ツクヨミは言葉を失った。そして同時に、恐ろしい想像もした。
『アンタが妖力を取り戻して、あたしを追い出すまでの間、あたしが大人しく待ってると思う?』
 くつくつと、いやらしい笑みがツクヨミの頭に響く。真狐の言葉はただの威しではない、彼女が本気でそうしようとそれば出来ることなのだ。
 今はまだ、辛うじて首から上はツクヨミの自由にできる。が、時が経てば憑依は完全なものとなり、体は全て真狐の支配下に置かれることとなる。
 無論、時が経ち、妖力が十分に回復すれば体の中の異物を強引に弾き飛ばすなどわけもないことである。が、しかしその時は、ツクヨミのフリをした真狐がありとあらゆる悪さをしつくした後なのだ。
『そうねぇ、まずは里の男の綺麗どころを集めて、毎晩十人ずつ伽をさせようかしら。こっちから夜這いに行くのも楽しそうねぇ。ふふふふふふっ』
 真狐はさも楽しそうに、思いついた“悪事”を次々に呟いていく。余程人の嫌がる事を考えつくのが得意なのか、そのアイディアの羅列には終わりが無い。
『“ツクヨミ様ご乱心、公衆の面前でストリップショー!”なんてのも面白そうねぇ、そのあとは里の子供達を集めて実践形式の性教育とか…ふふふっ』
 次々に発せられる卑猥な思いつきをツクヨミは歯を食いしばりながら聞いていた。真狐がやろうとしている事は確かに、ツクヨミにとって“死ぬより辛いこと”であった。幸か不幸か、それが、“火種”になった。
「……くッ…ッ! 何も、かもが…貴様の、思う通りに…いくと思うなッ―――!」
 勝負は決した、自分は負けたと思っていた。だが、それは違った。確かに持てる力の“殆ど”を使い尽くしはしたが、それは“全て”ではない。まだ、戦う力は残っているのだ。それを、かき集める―――!
『あら、抵抗しようっていうの?』
 無駄よ―――そう言って、真狐の嘲笑う声が聞こえる。同時に、ツクヨミの体にかかる“支配”がますます強まる。だが、ツクヨミは屈しない。体内に残る僅かな妖力を振り絞り、練り上げていく。
 ィィ…ィィィイイイイッ…!―――ぎこちない音を立てながらも、徐々に妖力が収束していく。
 不思議なことに、ツクヨミはこの苦境において、ある種の懐かしささえ感じていた。体の中にある、僅かな力、それをかき集める工程。そう、それはまさに幼年時代、自分が毎日のようにやっていたことではないか。
「くッ…あ、あア、…!」
 ツクヨミの体に、再び赤い、妖力の光が灯る。身体の自由を奪おうとする力は圧倒的であり、そして強大だった。それらは、妖力を集めることすらも妨害し、多大なる負荷をかけてくる。だが、それがどうした―――!
 今日初めてやることではないのだ。たとえ月日は過ぎ去っても、骨身に染みた事は決して忘れたりはしない。毎日、日が昇る前から日が落ちた後まで、何千、何万回ひたすらに繰り返した鍛錬は何のためだったのか。他ならぬ母親を見返す為では無かったのか。ならば、今、この時こそ―――!
「ぁァぁッ、あああァァァァッッッ!!!!」
 僅かに残っていた妖力。それらをかき集め、収束させていく。体内に巣くった“不純物”、それを押し出すように反発させて、一気に放出させる。パチィッ! そんな音を立てて、赤い塊がツクヨミの体から弾き出される。それは瞬時に人の姿になり、女になり、着物を着た―――真狐のそれになった。
「…憑依返しッ―――!」
 忌々しそうな、しかし何処か愉快そうな笑み。真狐は体勢を崩しつつも、両の足で着地をする。だが、その時には既に、ツクヨミの両掌には紅い光が収束していた。
「……毒婦めッ…最早、貴様には語る舌を持たんッ…!」
 眉間に深く皺を刻み、犬歯をむき出しにして吠える。同時に、右掌から赤い塊を真狐目掛けて撃ち出す。スイカ大のそれは楕円に撓み、カーブを描く様にして真狐へと迫る。
「ちぃ……ッ!」
 真狐は大きく舌打ちをすると、転がるようにして回避をする。テラスは決して広くはない、至極、逃げるスペースも限られる。その、“限られた回避スペース”目掛けて、ツクヨミが今まさに次弾を放とうとしたその時だった。

 ―――ドクンッ…!

 突然の衝撃。まるで、体中の血管という血管が萎縮してしまったような、そんな不自然な硬直だった。
「…ッ…ッ…く…は……!」
 目眩、頭痛、痺れ―――体中が悲鳴を上げ、立っている事すら危うくなる。振りかぶった左手の光は散り、ツクヨミはそのまま片膝をついた。
 一体何が起きたのか全く分からなかった。全身を襲う苦痛は呼吸をする都度―――否、心臓が脈打つ都度酷くなるようだった。血液の代わりに毒液か何かが巡っているのではないかという程に。
「あらあら…惜しかったわねぇ」
 ガンガンと耳鳴りがする中で、さも愉快そうな真狐の声が聞こえた。ひたひたと、ツクヨミの方に歩み寄ってくる。…その右手には、件の妖刀が青く光を放っていた。
「……それ、は…ッ!…何故……妾には、効かぬ…筈ッ…」
「それはアンタが“五本”だった頃の話。妖力を極端に消耗した今じゃ話は別よ」
 真狐はこれ以上無いというくらいの意地悪な笑みを浮かべて、ツクヨミを見下ろす。対するツクヨミも、歯を砕かんばかりに食いしばり、脂汗を浮かせながら真狐を睨み付ける。
 だが、それもやがて呪力に屈する時が来た。四肢の感覚がぼやけ、気怠さだけが募っていく。瞼が…閉じる
「………くッ……ッッ……!」
 体を支えられなくなり、テラスの床に伏せる。と、同時にまるで海溝に落ち込むような緩やかさで意識が薄れていく。
 途中、何か一言二言声をかけられたが、ツクヨミにはそれを理解することは出来なかった。



 


 


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