<sp2-8>

「こんな時に妖狐の女と風呂で逢い引きか!貴様という奴は賊が狙っているのが自分の娘だという自覚が無いのか!」
 桔梗は凄まじい剣幕で声を張り上げる。全身の毛がびりびりと逆立ちそうになるほどの大声だった。
「ま、待てよっ! 賊ってのは、真狐だったんだろ、だから――」
「屋敷に入ったのはあたしだけじゃないわよ」
 月彦が抗弁しようとするのを、真狐があっさりと言葉を被せる。
「へ……?」
 と、月彦が今度は真狐の方を振り返った。
「三十人くらいに追っかけられちゃってさー、多分ツクヨミの手下なんだろうけど。相手するのも面倒だったから、ここに誘い込んでやったのよ。だから一応、賊の狙いはあたしってことになるわね」
「じゃあ、ホントに敵が……?」
 今になって、月彦はぞぞぞと背筋を冷やした。その後ろで、桔梗が呆れたようにため息をつく。
「貴様が呼び込んだのか……。まあいい、何にせよ娘は見つけた。今度は逃がすなよ」
 何故か木の枝に引っかかっていたのだ、と桔梗は不思議そうに首を捻りながら、真央を月彦の方に放ろうとする。が、真央が両手両足で爪を立て、桔梗の袖にしがみついて離れない。
「こら……離れろっ……!」
 なんとか引きはがそうとするも、真央は必死に爪を立ててそれに抗う。まるで、眼下が切り立った崖かなにかになっていると思いこんでいるような必死さだった。
 桔梗がぶんぶんと袖を振るのを、月彦も真狐もどことなくばつが悪そうに見ていた。どちらも、『真央、こっちにおいで』と言えない後ろめたさがあるのだった。
「そ、そういや、屋敷に入ったっていう賊はどうなったんだ?桔梗がここにいるってことは、もう追っ払った後なのか?」
 気まずさに耐えきれなくなり、月彦が口を開いた。桔梗は真央を振り落とそうと振っていた手を止め、月彦の方を見た。
「私は貴様の娘を捜しただけだ。賊の相手は春菜様がしている」
「春菜さんがっ!?」
「別に驚く事じゃないでしょ。ああ見えて妖猫族の大御所、麗しの桜舜院サマなんだから」
 驚く月彦を尻目に、真狐が何を今更といった風に呟いた。どうやら初めから春菜に全部押しつけるつもりだったらしい。
「まー、春菜の馬鹿力ならぼちぼちケリがつくでしょ。あいつも伊達に年喰ってないから、いくらなんでも雑魚の三十人相手に―――」
 と、そこで突然真狐の笑いが止まった。同時に、ピッ……と、なにやら紅い三本線が縦に、真狐の頭から胸へと引かれた。 よく見ると、真狐の前の湯面も後ろの岩も全て、レーザーでも当てられているように一直線に赤い線が走っていた。そして、一気に―――
「う、わ……!」
 凄まじい音を立てて湯面が、岩が線にそって割れた。湯はモーゼよろしく、底が見えるほどに割れ、傍に居た月彦に津波のように被さり、岩もずぅんと飛沫を上げながら左右に割れながら崩れ落ちた。一連の出来事はそれこそ瞬きほどの間に起きた事だったが、月彦にはまるでスローモーションか何かのように感じられた。
「真狐っ……!」
 とは、月彦は叫ばなかった。一瞬、ほんの一瞬だが、岩や湯面が裂けると共に、真狐の体が線にそってズレた。が、ズレたそれはふっ……と湯気に溶けるように消え失せたのだ。逃げたのだとすぐにわかった。
「―――人の年をどうこう言えるほど、貴方も若くはないでしょう?」
 声と共に、何かがすっ……と降り立つような気配。見ると、別の巨岩の上に春菜がそっと佇んでいた。笑みを浮かべているが――ここ三日ほど体が溶け合い混ざりそうな程に寝食を共にし続けた月彦にはハッキリと解ったが――明らかに気分を害している笑みだった。
 その右手に、なにやら紅い靄《もや》のようなものがまとわりついていた。春菜がそっと手を翳すと、それは半透明で巨大な赤い爪のような形になる。巨大なネコの前足のようにも見えるそれを、

 ―――ザンッ!

 と振り下ろす。びっ……とその直線上に赤い線が走ったかと思えば、先ほどと同じように湯が割れ、石が砕けた。……その、割れた石の辺りから、ひゅんっ、と影が一つ飛び出してくる。くるんっ、と空中で鮮やかに一回転し、やや離れた巨岩の上に降り立ったのは真狐だった。
 既に服を着て、髪も降ろしている。腰には先ほどの短刀と、何故かひも付きの瓢箪をぶら下げていた。
「あっぶないわね、当たったらどーすんのよ!」
「相変わらず避けるのだけは巧いのね」
 がーっと大口を開けての真狐の抗議も何処吹く風。春菜はふふふと微笑を漏らしながら煙でも払うような仕草でそっと手を振った。右手の先にまとわりついていた紅い靄は空気に溶けるように霧散し、すぐに見えなくなった。
 その春菜の足下にしゅたんと影が飛びつき傅いた。桔梗だった。
「春菜様、お怪我は―――」
「大丈夫。でも、裏手の方がだいぶ散らかったから、明日はみんなで大掃除ね」
 ふふふと笑いながら、困ったような口調で最近の若い人は体が脆いのかしら、というようなことを呟く。一体何が散らかっているのかは、月彦は想像したくなかった。。
 桔梗はいち早く春菜の意志を察して伝令に走ろうとするが、相変わらず真央が離れない。仕方なくそのまま走り出していってしまった。
 ついと、春菜は真狐の方に視線を戻す。
「貴方も降りかかる火の粉くらいは自分で払ってほしいものね」
 微笑を称えたまま、しかし忌々しげに春菜が呟く。その体を中心にピリピリとした空気が辺りを包み、月彦は僅かに後ずさりをした。
「生憎、あたしは頭で勝負する派なの。労せず敵を排除する方法があるなら、それを利用しない手はないでしょ」
「それならその頭を使って、さっさとツクヨミを倒してきたら如何? 尤も、今のまま行っても、勝負にならないでしょうけど」
 くすくすと、着物の袖で口元を隠すようにして春菜が笑う。彼女は、真狐の妖力が普段の通りであると見抜いているようだった。
「それはどうかしら、あたしだって今まで遊んでたわけじゃないのよ?」
 と真狐が、その腰にある瓢箪へと手を伸ばす。その栓をキュッと開くと、おもむろに月彦の方へと向けた。えっ、と月彦が声を漏らした時だった。突如、轟音が鳴り響いた。
 ズガァァァンッ!!―――激しく飛沫をまき散らしながら、真狐が乗っていた大岩が崩壊する。その場所には当然のように真狐の姿は無く、そして春菜の姿も消えていた。
「なっ、なななっ何だ―――!?」
 がぁんっ、ごぉん! そんな音を立てながら浴場の岩という岩が片っ端から壊れていく。あくまで普通の人間の月彦にはそれは不可視の怪物か何かが暴れているようにしか見えず、かといってむやみに動くのも巻き添えを食いそうで身動きが全くとれなかった。
 突然背後に何かの気配を感じた時、月彦は咄嗟にその気配の主が真狐であると悟った。即座に振り返った―――その目の前に、件の瓢箪がつきつけられていた。
「“紺崎月彦、入れ!”」
「へっ、なっ―――真狐、何をっっっ……!」
 途端、月彦の体が白く輝く粒のようなものに包まれた。かと思えば、しゅるしゅると瞬く間に体が縮み、瓢箪の中へと吸い込まれていく。真狐がキュッ、と栓を閉めていると、その体にザッ…と赤い斬撃が走った。が、既に真狐は逃げた後であった。残像だ。
「……どういうつもり?」
 苛立ったような、春菜の声。瓦礫と化した大岩の上にやや腰を屈ませ、両手を交差させるようにして下げ、身構えている。その両手の先には、半透明の赤い爪が鋭く伸び、ジリジリと紅い光を放っていた。
「月彦はツクヨミ崩しに欠かせない手駒なのよ、悪いけど返してもらうわ」
 真狐もまた別の瓦礫の上へと降り立ち、身構える。が、無論それは攻撃の為の構えではなく、春菜の攻撃をいなし、避ける為の構えだ。
「手駒? ただの人間がツクヨミの相手になると思って?」
「なるのよねー、それが。馬鹿と男は使いようってね」
「……話が違うわね。条件は“ツクヨミを倒すまで預かる”だった筈。貴方が一人で犬死にする分には構わないけど、月彦さんは置いていきなさいな」
 春菜の体から、赤い妖力が迸り、両手の爪がさらに長く、鋭く伸びる。刹那のうちに瓦礫を蹴り、真狐の立っている場所の寸前まで迫ると、右手の爪で一閃。ピッ……と空気の裂ける音を残して紅い光が一直線に迸り、湯を割り大岩を砕き、さらにその向こうの庭まで赤い斬撃が走っていく。
 ズガガガガッ!―――凄まじい音と共に湯飛沫、砂塵が舞い、輪切りになった木の幹が乱れ飛ぶ。……かろうじて直撃はさけたものの、その凄まじい光景にさすがに真狐も口を“いっ”の形に引きつらせた。
「あ、あんたねっっ……自分ちの風呂でしょおが! あんまり無茶すんじゃ無っ―――」
 春菜のかなり本気っぽい攻撃に、真狐は慌てて身をかわす。が、逃げる傍から間合いを詰められ、赤い爪で斬りかかられ、とうとうかわしきれずにバランスを崩し、真狐はお湯の中に頭から突っ込んだ。
 そこをさらに、春菜の斬撃が襲う。爆発でも起きた様な音を立てて、真狐が居た辺りの湯が爆ぜ、高さ十メートルはあろうかという湯柱が立つ。真狐はその湯柱の頂上付近から何とか飛び出し、再び瓦礫の足場に着地すると犬がするようにぶるるっ、と体の水気を飛ばした。
「……分かってると思うけど、手加減しているのよ? 月彦さんが入った瓢箪まで両断してしまわないように」
 くすくすくす。怪しい色を光らせる瞳を細めて、春菜が嗤う。真狐はぐっしょりと濡れてしまった髪の毛を搾るようにしながら、はあ……とため息をついた。
「ったく、サカリのついた猫は手がつけられないわ。……わかったわよ、そこまで言うなら、月彦は置いていくわ」
 このままじゃツクヨミと戦う前に消耗しちゃうじゃない―――真狐はブツブツと愚痴を垂れながら、瓢箪を右手に持つ。
「……妙な真似をすると、その右腕切り落とすわよ」
「疑り深いわねぇ、ほらっ」
 ぽーんと、春菜の方に瓢箪を放り投げる。春菜が両手の爪を消し、それを受け取ろうと手を伸ばしたときだった。
 突然、瓢箪が爆ぜ、中から目を刺すような白い閃光が溢れ、視界を染め尽くした。
「―――なっ!?」
 偽物かッ!―――春菜は歯を鳴らしながら両手に赤い爪を灯らせ、真っ白に埋め尽くされた空間を闇雲に薙ぐ。が、しかし手応えは皆無だった。
 白い閃光の中で、燗に障る笑い声だけが聞こえ、徐々に遠ざかっていく。漸く目が慣れた頃には既に真狐の姿はどこにも無かった。
「……あ、のっ、牝狐っっっっっ!!!!!」
 怒りに顔を歪め、手当たり次第に赤い爪を振るう。が、しかしすっかり荒れ果てた湯殿には彼女以外に動くものは無かった。

 そんな春菜の八つ当たりを、真狐は屋敷の外塀の上から見下ろしていた。腰にはもちろん、月彦が入っている本物の瓢箪をぶら下げている。
「あーあー、あんなに散らかして。よっぽどアンタに御執心だったみたいね」
 ちらり、と物言わぬ瓢箪に視線を走らせ、そのまま空を仰ぐ。上弦の月が静かに、灰色の雲に隠れようとしていた。
「さて、と。“切り札”も回収したし、ボチボチ出発するかな」
 真狐は一度、軽く伸びをしたあと、グッと体を屈める。そしてそのまま、瓦を蹴って一気に駈けだした。ツクヨミの本拠地、御那城山を目指して……。


 


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