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 妖界、と呼ばれる場所がある。
 通常空間とは異なる世界。時間の流れをX軸ととったときに、Y軸方向に幾分ズレた世界。人が生きる世界を人界と呼ぶなら、妖《あやかし》が生きる世界は妖界と呼ばれる。
 世界の在りようも、人のそれと大差はない。太陽があり、月がある。一日は昼と夜に別れ、大地もあれば海もある。ただ、人の代わりに妖《あやかし》が住んでいる点において違うと言ってもいい。
 二つの世界には、その名前ほど距離の差異はない。夕暮れ時の暗がり、森の木陰、廃墟の闇だまり――そういった場所が時として重なり、運悪く人間が迷い込む現象――それを古来より人は神隠しと呼んだ。 神隠しに遭った人間が元の住処へと帰れるかどうかは運の一言に尽きた。“向こう”で好意的な相手に拾れれば帰る事も出来、またその摩訶不思議な経験を書物に記し残した者も居た事だろう。
 妖狐族の里と呼ばれるものも、この妖界に存在する。何も大げさなことはない。人の世界と同じように緑々と茂った山を開き、家を造り、日々を営む。若い子狐達は親の目を盗んでは人の里にちょっかいを出したりして親狐に叱られる。このとき、親狐の叱り方が少し変わっている。
 親狐達は子狐達が人間にちょっかいを出しに行くこと自体は叱らない。そのことを自分たちに見つかったことを叱る。悪戯をするならば、親にもバレないようにしろと。ようするに悪知恵をつけろと狐の親は教育する。そうして、狐の子供はどんどんずる賢くなっていくのだが、大人になるにつれて次第にやんちゃの虫も収まり、滅多なことでは人の世界にちょっかいなどは出さなくなる。……ごく希に、大人になってもちょっかいを出し続ける輩が居るが、それらは本当にごく希な変わり者なのである。
 しかし、そういった狐の里に変革が起きた。ツクヨミ一派の台頭である。同じ妖狐ではあるものの、各々の里で殆ど自治状態だったものを力ずくで統べ、一つの国としたのである。
 最低限の法を決め、それに伴う罰則も備えた。妖狐が人間と関わることを禁じたのもツクヨミの“政策”の一つだった。そしてその法に従い、一人の妖狐が見せしめとばかりに捕らわれ、封印されたが、これは後に脱走されることになった。
 妖狐という種族は基本的に個人主義である。自分が認めた主君に仕えることを至福とする犬狼族や、犬狼族ほど縦のつながりは重視しないが、“家族”というものを大事にする妖猫族とは違う。
 種族自体の傾向として、妖狐は群れることをあまり好まない。小規模の里が点在するだけで大規模な“都”とならないのはそのためだ。……ツクヨミが現れるまでは、少なくともそうだった。
 御那城山。古くは水無代山とも呼ばれるこの山は雨量に乏しく、木々の育ちにくい山だった。それを見かねた大妖狐の一人が己が鍛えた宝剣の一本を大地に埋め、それから水量豊かな山になったのだという。それ以降、水無代という文字は使われず、御那城―――名も名乗らずに消えた大妖狐に乗っ取って御名白と書く場合もある―――と書き広められる様になった。
 その御那城山こそ、妖狐の首領、ツクヨミの本拠地だった。山を丸ごと要塞化するような居城とその周りに広がる城下町は人の世界の戦国時代を彷彿とさせる。

 夜。
 既に空には上弦―――それよりも僅かに丸みを帯びた月が煌々と輝いている。雲が少々出ているのが、かえって風情がある。城下町でも所々、庭先に出ては月見を楽しんでいる妖狐が居るくらいである。
 妖狐は他の種族に比べて月には特別執着がある。それは形が綺麗とか、光が美しいといった理由とは別に、極めて現実的な理由があったからである。
 月の光と妖力には密接な関係がある。月の光を浴びれば妖力は回復、増幅されるし、妖となる素質を持った普通の獣が浴びれば、その覚醒を促進する働きもある。
 妖狐の武器は他の種族を圧倒する妖力と知恵、そしてそれらによって生み出される妖具である。他の種族に比べて戦力の大半を妖力に依存する妖狐にとって、月の満ち欠けは太古の昔より戦局を左右するほどの関心事だったのである。
 今でこそ、そういった血なまぐさい理由で月の満ち欠けを気にすることは無くなったが、それでも妖狐にとって月見という行為が他種族よりも尊ばれることにはかわりはない。そう、月見は平和の象徴。今宵もまた、何事もなく夜が明ける。御那城山の妖狐達は一人の例外もなくそう思っていたに違いない。ましてや、たった一人の妖狐の侵入を許したばかりに、一夜にして全滅の憂き目を見るとは、夢にも……。

 



「要するに―――」
 男の野太い声が室内に響いた。巨躯の男だ。鋼色の髪はのばし放題、ツンツンと癖のあるそれが腰まで垂れている。髪の合間から黒い獣耳がにょきにょきと一対生えており、上半身は裸である、腰と腕、膝から下のあたりに何の獣のものともしれぬ毛皮を巻いている以外は、衣類は殆ど何も身につけていない。ただ、両足の太股の辺りに戦斧を一対、革のベルトのようなもので固定している。
 男の背後には、二十数名の男達が跪いている。男に仕えている者達だ。男を含め、皆犬狼族に属する者達だった。
「俺達は用済み、金はやるからとっとと失せろってコトか?」
 不愉快を隠そうともせず、首領格の男が言う。野太い声を出す首は体格に相応しく太い。全身が赤黒く、筋骨隆々といった具合である。顔も角張っており、いかつい。眉は髪と同じく鋼色をしていて、太く、逆立っている。
 その巨躯の男と対峙しているのは、身長はその半分ほどしかない女だった。見た目には年若く、人でいう二十歳前くらいの容貌であろうか。鮮やかで、大仰な着物を重ね着しているのはまるで華奢な体を隠すためのようにも見える。髪の色は白とも銀ともつかない色をしている。眼前の男も銀と呼べなくもない色の髪をしているが、こちらは女の色にくらべてだいぶくすんでいる。対峙する二人を見ていると、まるで研ぎ上がったばかりの刀と、数十年使い込んで鉄さびと刃こぼれでボロボロになった鉈の輝きを比べているようだった。
 白銀の髪は長く、背中で一本にまとめられ、仄かに光を放っているようにも見える。癖のある男の髪とは違い、毛髪の一本一本が絹のようになめらかである。
 女には尻尾があった。白銀の髪と同じ色の尻尾である。それが、五本。
「貴様等の無能には目を瞑り、金は約束通り払おうというのだ。悪い話ではなかろう」
 無表情、否、薄く蔑みの笑みすら浮かべて、ぴしりと女が言い放つ。恐ろしく冷淡な、抑揚のない口調だった。聞く方にしてみれば、氷礫《こおりつぶて》を投げつけられるに等しい。事実、女は虫螻《むしけら》でも見るような目をしている。
「―――ン、だとっ」
 ざわっ……。
 野太い声に合わせて、室内の空気に殺気が混じる。まずは、巨躯の男。その体躯から汗でも噴き出すように、ギラついた殺気が溢れ出す。続いて、その背後に傅いている者達もまた、姿勢こそ変えないものの、俄に殺気を漏らし始める。
「女狐風情がァ、この鋼牙《コウガ》を愚弄するかっ」
「その“女狐”一匹捕らえられぬ者が随分と大層な口を利く。西国で少しは名の売れた豪傑だというから雇ってみたが、何のことはない。狼とは名ばかりの駄犬の郎党だったようだな」
 一触即発。全く物怖じせず、女は不敵に嗤う。それが、巨躯の男―――鋼牙は気に入らない。ますます怒りの色を濃くして、頭髪を逆立てる。
「第一、妾は“生け捕りにしろ”と命じた筈だ。しかし物見の報告によれば、貴様は手下共に首さえ持ち帰ればよい―――そう言っていたそうではないか」
「それがどうしたよ、どうせ捕まえたら殺すんだろうがッ!」
 ガァッ!と、男が大声を上げる。びりびりと、室内の壁を震わせるほどの声だった。
 対する女はさも迷惑そうに目を細め白い狐耳をパフンと伏せる。下手をすれば気迫だけで体を吹き飛ばされかねない鋼牙の雄叫びを前に、女がとった行動はそれだけだった。
「だいたいテメェ等で捕まえられねーから俺ン所に泣きついて来たんだろうが!」
 だったらいちいち口出しすンじゃねぇ!―――大口を開け牙をむき出しにして鋼牙は吠える。女は鬱陶しそうに目を細めながら、すっと胸元から扇子を取り出すと、さっと扇いで鋼牙が飛ばした唾をかわした。
「生憎、妾の部下も皆が皆、有能というわけではなくてな。たかが脱獄者一人に貴重な人材を奔らせるわけにもいかんのだ。が、しかし野放しにすれば法が乱れる。それ故、刺客を金で雇うことにしたのだが―――」
 女―――ツクヨミはそこで言葉を濁し、ふうと失意のため息を漏らした。あからさまな、目の前の男に見せつけるための芝居だ。そんな彼女の意を知ってか知らずか、男の顔がみるみるうちに紅潮していく。
 室内に充満していた殺気が、にわかに収束を始める。ただ、鋼牙とその部下の体から発散され、室内を漂い、ピリピリと肌をさすだけだったそれらが具体的に“相手”を持ったのだ。
 男達の鋭利な刃物のように収束された殺気を喉元につきつけられて尚、ツクヨミは“何もしない”。
 室内には、彼女と鋼牙、その郎党一味しか居ないのだ。このまま戦闘になれば、その人数差はそのまま彼女の不利へとつながる。
 であるのに、ツクヨミは助けを呼びもしない。逃げる素振りもみせない。ただ、五本ある尻尾だけが、揺れていた。さも楽しげに、ゆらゆらと。
「妾を殺すか。それもいいだろう」
 鼻で笑い、憎たらしい笑みを一つ。それで、ツクヨミの“臨戦態勢”は整った。
 イィィィィッ……!―――その体に、妖力の赤い光が灯る。満ちる。何らかの術を発動させようとしている―――それをむざむざ待つほど、眼前の巨躯は愚かしくなかった。
 一閃。
 いつ戦斧を手にしたか。それすらわからない。落雷のような斬撃だった。
 ザンッ!
 ひどく手応えのない、まるで豆腐でも切るような感触を鋼牙の手に残して、ツクヨミの体は無惨にも脳天からまっぷたつに切り開かれた。―――瞬間、その体の内側からどろりと、赤いモノが溢れた。
「ぬっ―――」
 それがただの臓腑の類ではないことは、鋼牙も即座に理解した。ツクヨミの体から溢れた“赫”は瞬く間に広がり、空間という空間を埋め尽くし、染め上げていく。 瞬き数回。気がつくと鋼牙とその郎党は“赫い世界”に立っていた。
 ツクヨミの居城の一室ではない。荒れ果てた荒野。見渡す限りの赤、赤、赤。
 土の色は赤。
 その埃を巻き上げる風も赤。
 遠くそびえる岩山も赤、そこにかかる雲、霧も赤。
 空の太陽―――否、月も赤く、夜空まで赤い。
 異様な世界の真ん中に、鋼牙とその郎等達は立ちつくしていた。
「か、頭ァ……こりゃあ、一体……」
「ビビッてンじゃねぇ! ただの幻術《めくらまし》だっ」
 さすがに鋼牙は動じない。狼狽え始める部下達を一喝し、不必要に動かせない。下手に動けば狐の思うつぼだと言わんばかりに。
 ふいに、女の笑い声が聞こえた。それも、すぐ近く。目の前の何もない空間から、だ。
「ッ……そこかッ!」
 鋼牙は右手に握っていた戦斧を思い切り振りかぶり、声のする方へと投げつける。戦斧は勢いよく回転しながら、凄まじい速度で空気を切り裂き、“音源”を通り過ぎ、そのまま遥か先の地面にざっくりと突き刺さった。
 目を眩ますだけの幻術で在れば、投げた斧は部屋の壁に突き刺さるか、壊す筈である。が、視覚はもとより聴覚まで狂わされているのか、鋼牙の耳には己の戦斧が壁を壊す音は聞こえなかった。
「―――愚かな」
 すうっ……と、唐突にツクヨミの姿が現れた。何もなかった空間、そう、鋼牙が戦斧を投げつけた場所―――ツクヨミの声が聞こえた場所だ。足が、浮いていた。
「我が幻界と下等妖狐の幻術《めくらまし》の区別もつかんとはな。“牙”の名を冠してはいるが、さては貴様、本当に犬であったか」
 先ほどとは違い、ツクヨミと鋼牙の目線はほぼ同じだ。身長差の分、ツクヨミは浮揚しているのだ。
 浮揚の術。得意とするのは天狗、妖鳥の類である。無論妖狐も使えぬ訳ではないが、決して楽な術ではない。
 まず、妖力の消費が尋常ではない。一本狐ならばそもそも浮くことすらできない。ましてや、浮揚しながら他の術を使用する等は以ての外、妖術の複数同時発動は場合によっては各々の術を一つずつ発動させた時の数倍の妖力を消費することになるからだ。
 それを、ツクヨミはやっている。鋼牙達が見ている景色が彼女の幻術ならば、ツクヨミは幻術と浮揚の術を同時に使っていることになる。否、そもそも浮いている様に見えるツクヨミの姿自体も幻術の一部なのか―――。
 鋼牙はぐうと呻きながらも、もう一本の戦斧を手にする。その手が僅かに震えていた。否、震えを隠すために、何かを握りしめたかったのかもしれない。
 犬、とツクヨミは言った。犬狼族とは、妖狼と妖犬を一括りにした呼び名だ。だが実際には、同じ眷属ではあるが、犬と狼には大きな壁がある。実力という、大きな壁が。
 犬狼族にとって“牙”という文字は特別な意味を持つ。狼の、それも類い希な実力を持った逸材、勇者、英雄―――にしか与えられない文字だ。鋼牙もそれを知っている。だからこそ吹いた。自分は妖狼、その傑物であると。
「う―――」
 うるせぇ!―――そう叫びたかった。が、声が出ない。脂汗が滲む。ギリギリと歯が鳴る。鋼牙は押されていた。眼前の、華奢な小娘一匹に恐れを抱き始めていた。
「どうした犬公。かかって来ぬのか」
 ゴウッ……!と、鋼牙は体を押された。ツクヨミが唇を開き、言葉を放つ。たったそれだけのことで、得体の知れぬ風に全身を煽られたような錯覚を憶える。否、風は本当に吹いたのかもしれない。鋼牙には、わからない。
「愚鈍《のろま》な奴だ。そら、後ろの連中は焦れに焦れて燃えだしたぞ」
 はははっ!―――ツクヨミが嗤う。ほぼ同時に、ひぃいっ、という悲鳴が、鋼牙の背後から聞こえた。
「か、頭ァっッ!」
 鋼牙の手下は二十名強、それらが一斉に悲鳴を上げ、ばたばたと駆け回る。振り向いた鋼牙の眼に入ってきたのは、赤い炎に体を焼かれる手下達の姿だった。
 焼かれている場所は様々だった。両足を焼かれ地面を転がっている者も居れば、片腕に火がつき、残った腕でそれを払おうとしている者も居る。他にも頭が燃えている者、既に全身が燃えている者、とにかく皆が皆、体の何処かを炎に焼かれていた。
「ひぃいいっっ!」
「炎がっっ……や、焼けるっっ……熱ぃっ、熱ぃいッ!」
「き、消えねぇっっ! 水っっ、水をっっ…!」
 手下達を焼いている炎はみるみるうちに膨れあがり、ぶすぶすと黒煙をまき散らしながら全身に広がっていく。
 嫌な匂いが、鋼牙の鼻にもついた。そう、肉が焼け、肉汁が沸騰し、焦げ付く。その匂いだ。
 助ける暇も無かった。一分と経たずに、二十名以上居た手下は皆、炭屑に変わってしまった。
 はははっ―――燗に障る笑い声が背後で聞こえた。
「テ、メ、エッッ―――」
 一瞬、鋼牙はツクヨミに対する怖れを忘れた。戦斧を持つ左手の筋肉が膨れあがる。みしみしと、戦斧の柄のほうが軋む程の怪力だ。
 振り返る。ツクヨミはくつくつと嗤っている。一歩踏み出し、間合いを詰めながら、一閃。ツクヨミの体を唐竹割りに斬りつける。
 ―――が、やはり手応えはまるでない。否、前回は豆腐を切るような手応えであったのが、今回は全く無かったのだ。事実、鋼牙の戦斧は空気を二つに裂いただけでツクヨミには届いて無かった。
「これは良い涼風。斧かと思ったが鉄製の団扇であったか。が、団扇を縦にして使うとは所詮犬公。道具の使い方を知らぬとみえる」
「ッ、ル、セ、ェ!!」
 咆哮を上げながら、鋼牙は再び踏み込み、戦斧を震う。が、そのいずれもツクヨミの体には届かない。
 ツクヨミは避ける素振りすらみせない。ただその場にジッとしているだけに見える。それともそう見えて、鋼牙が気づかぬ速度で後退しているのか。否、そんな遅い速度で後退しても、鋼牙の踏み込みの方がずっと早い。斧の刃が届かぬのは、別の理由なのだ。
「オ、オ、オ、オ、オ、オッ!」
 獣じみた咆哮を上げ、鋼牙が突進する。戦斧を縦横無尽に振り回すその様は、さながら小さな竜巻だ。が、その悉くが当たらない。避けられているのではなく、届かないのだ。
「やれやれ、団扇は横にして使うものだというに。解らぬ奴よ……」
 佇むだけだったツクヨミが、微かにため息のようなものをついた。構わず、鋼牙は戦斧を振るう。が、突然その手応えが変わった。戦斧が“重くなった”のだ。
「ぬっ……!?」
 鋼牙はすかさず、己の戦斧を見た。ツクヨミに向かって振り下ろされる己の腕、その先の斧は“横”になっていた。
 戦斧は当然のようにツクヨミには届かない。が、風を起こした。煽られて、ツクヨミの髪がふわりと浮く。
「それで良い。やれば出来るではないか犬公」
 ツクヨミが眼を細め、くつくつと笑みを零す。反対に、鋼牙は全身を凍り付かせていた。斧を握りなおした覚えはない。それなのに、斧は刃を横に向ける形になっている。
 汗だ。汗で滑り、たまたまズレただけだ。―――そう思おうとした。事実、鋼牙の全身は水でも被せられたかのように汗に濡れていた。嫌な感触の脂汗だ。否、それは横になった戦斧を見てから、戦慄して吹き出た汗だった。
「どうした、もう動かぬのか。……まあ無理もない。足がそれではな」
 ツクヨミが笑みを零す。鋼牙は全身から汗を噴き出しながら、ツクヨミの言葉を吟味していた。
 足……足だと、足がどうしたというのだ。足は、ちゃんと動く―――鋼牙は一歩踏みだそうとした、だが、足は持ち上がらない。
「犬公の癖に器用なことをする。―――足だけを根にするとはな」
「な―――に」
 反射的に、見てはいけないと思った。見たら、本当に足が根になってしまう―――だが、鋼牙は視線を落とした。
「ひっ―――」
 咄嗟に女のような悲鳴が漏れた。丸太のように太い両足が、その膝下から木の根となり、赤茶けた大地にしっかりと食い込んでいたのだ。動けるはずがない―――。
「その腕にも感心する。それでよく金物など握っていられるものだ」
 ツクヨミが嗤う。鋼牙は反射的に耳を伏せた。
 言うなっ、聞きたくない、聞けば、また―――。
「―――そら、貴様にも解るだろう。己の腕が腐っておるのが」
 ボトッ……。
 嫌な音が聞こえた。恐る恐る見る―――腕が落ちていた。真っ黒く変色し、爛《ただ》れた腕が、戦斧を握りしめたまま。
 ボトッ……。
 反対側の腕も落ちる。同じく腐り、爛れ、地面に落ちた衝撃で肉が崩れて骨が見えていた。
 鋼牙は、咆哮《ひめい》を上げた。が―――
「声は出せぬ―――」
 口を開き天を仰いだ瞬間、ツクヨミが先手を打つように呟いた。ツクヨミの言うとおりだった。鋼牙は声が出せない。にやりと、ツクヨミが口の端をつり上げる。
「―――代わりに、虫が溢れる」
 楽しんでいるような口調だった。途端、ごほっ…と鋼牙は噎せ、虫を吐いた。真っ黒い、それでいて巨大な芥虫《ゴキブリ》だった。それがわらわらと、堰を切ったように溢れ出す。
 ごほっ、ごほっ…!―――鋼牙は幾度となく咳をする。その都度、ぼろぼろと黒い虫が溢れ、地面に落ちたそれらはしばし右往左往した後、再び鋼牙の体を登ってくる。
 かさかさ。
 かさかさ。
 虫の這う音以外は何も聞こえない。その中、鋼牙の眼が、見た。ツクヨミの唇が動くのを。

 ―――囓られる。

 声は聞こえなかった。が、ツクヨミは確かに言った。同時に、虫らが鋼牙の体を囓り始めた。
 外側から、内側から。吐いた虫が体を這い登り、腕が腐り落ちたその肩から肉を貪る。喉から溢れる虫は逆に下り、胃を囓る。大きな犬耳からも侵入してくる。ひたひたと、頭蓋骨の内側を虫が這い回る―――!
「―――ッ!!!!」
 鋼牙は声にならない悲鳴を上げ、そして意識を失した。

 



「……愚かな。大人しく金を受け取って去れば良かったものを」
 醜悪至極なオブジェと化した鋼牙を見ながら、ツクヨミは吐き捨てる。ついとその手に扇子を開くと、ぴっ……と水平に薙いだ。
「粗首だが、詫びの足しにはなろう」
 ツクヨミは己の髪の毛を一本引き抜くと掌に載せ、ふうと吹く。と、ポンと煙を吹いてそれが膨れあがり、見事な首桶に代わる。すると鋼牙の首がひとりでに浮き、その桶の中にすとんと収まり、勝手に蓋が閉まってしまう。残った死体に向けてツクヨミが掌を向けると凄まじい勢いで炎が迸り、たちまち死体は炭に変わった。
「……わざわざ幻界へ招くまでもなかったか」
 くつくつと笑うと、まるでそれが合図であったかのように赤い世界が消え始める。大地も、空も、岩山も、初めから何もなかったかのように消え失せていく。
 幻界の終局。
 ツクヨミの妖力によって作り上げられた偽りの世界がはげ落ちると、そこは元の部屋。ツクヨミと、鋼牙とその郎党が居た部屋だ。だが今、部屋の中に居るのはツクヨミ、そして桶に入った鋼牙の首だけである。
「つ、ツクヨミさまぁーーーー! ただ今お茶を―――」
 ばたんっ、と倒れ込むようにしてドアを開け、突然一人の狐娘が部屋に入ってきた。和服に割烹着という、いかにも給仕という服装をしており、両手で一つの盆を持っている。が、ドアを開けると同時に前のめりに転んだ為、その上に乗っていた二人分の湯飲みと急須が一斉にツクヨミ目掛けてぶちまけられる。
「あわわわわっっ……も、申し訳ありませんッッ!!」
 娘は歯の根の合わない声を出しながら慌てて立ち上がり、深々と頭を下げた。真っ白い髪と同じように白い尻尾をびんっ、と怯えるように立てて、ガタガタと震えている。
「モモか。相変わらずそそっかしいな」
 苦笑する様なツクヨミの声。怒りを感じさせないその優しげな声に、モモと呼ばれた娘は恐る恐る顔を上げる。と、盆から離れた湯飲みと急須はツクヨミの手前の空間でふわふわと浮いていた。
「折角だが茶は要らぬ。見ての通り、客は居なくなってしまったからな」
 ツクヨミがついと指を動かすと、ふわふわと浮いていた急須と湯飲みがモモの手元の盆の上へと戻る。白髪の狐娘はしばし呆然と惚けた後、
「さすがですっ、ツクヨミ様!」
 と、無邪気な子供のように歓声を上げた。逆にツクヨミの方はといえば、どことなく照れるような、それでいてばつが悪いような顔をする。
「……あれ、ツクヨミ様……その桶は」
 くるんっ、ぴんっ。と尻尾を振って興味津々に覗き込もうとするモモを制し、
「なに、土産だ」
 とツクヨミは手も触れずに桶を持ち上げると、ぽむと消してしまう。
「件の郎党の一派が事もあろうに桜舜院殿の屋敷に侵入してな。詫びに行かねばならぬ」
「ほえぇ……ひょっとして、今からですか!?」
 上等な手品のようにも見えるツクヨミの手際を、モモは目を丸くしながら見上げている。
「いや、今宵はさすがに更けた。明日にでも手空きの者に詫び状を持たせて向かわせることにしよう」
「じゃ、じゃあっ……今夜はもう……お休みになられるんですよね?」
 語尾に行くほど、声が小さくなる。まるで、そうであって欲しくない……とでも言いたげに。
「うん?」
「ええと……その……」
 躊躇いながらちらちらとツクヨミの顔を見上げては、そのまま窓の外を見るような仕草を繰り返す。ツクヨミがつられて窓の外を見ると、そこには黄色い月が煌々と光り輝いていた。
「ふむ。茶を嗜みながらの月見というのも、悪くないな」
 ぽつりとツクヨミが呟くと、途端にモモが満面の笑みを浮かべてこくこくと頷いた。白い尻尾を犬のように、ちぎれんばかりに振っている。
 そんなモモの喜びように、ツクヨミはくすりと小さく笑みを漏らすと、その右手を盆を持つモモの右手の甲の辺りに当てた。
 静かな音を立てて、ツクヨミの体から妖力の光が迸る。―――刹那のうちに、室内から二人の姿がフッ……と消えた。
「わっ―――!」
 盆を持った給仕娘は突然目の前に現れた景色に思わず仰け反り、また盆を落としてしまいそうになる。室内から煙のように消えた二人が現れたその場所は、城の天守閣付近、ツクヨミの寝室のテラスだった。
「どうした、月見をするのではないのか?」
 驚くモモの様子を見て意地悪く微笑みながら、ツクヨミは一足先にテラスに備え付けてある豪奢なテーブル、その傍らの椅子に腰掛ける。
「も、もうっ! ツクヨミ様、跳ぶなら跳ぶって先に仰ってください!」
 白狐の給仕はぷりぷり怒りながら盆をテーブルの上に置く。そう、先ほどの部屋からこのテラスまで移動したのは他ならぬツクヨミの術だった。
 俗に瞬間移動と呼ばれる現象、それを自在に操る術。同じ移動妖術でも縮地の術とは消費妖力、難易度共に天と地ほどの開きがある。本来ならば、おいそれと使えるような術ではないのだが、当のツクヨミはけろりとしている。
「いや、すまぬ。どうせなら茶が冷めぬうちにと思ってな」
 かんらかんらと笑う主を余所に、モモは頬を膨らませた仏頂面でとぽとぽと茶を注ぎ、自らも椅子に腰を下ろす。
 二人が居るテラスは御那城山、その上に建てられた城のさらに頂上付近。その眺めは雄大、遠くに連なる山々が丸く撓んで見える程である。一応、テラスには木製の柵が設けられてはいるが、女性の腰の高さほどもない。それもその筈、このテラスのある部屋の主が“落下”することはあり得ないからだ。
「私たちはツクヨミ様みたいに空間を跳んだり宙に浮いたりは出来ないんですから、あんまり驚かせないでください」
 目の前の悪戯好きな主に抗議をしながら、モモは湯飲みを手に取り、唇をつける。ツクヨミもまた、くすりと静かな笑みを零してそれに習う。
「ん……?」
 咄嗟に、眉が動く。主の不審そうな顔に、モモが首を傾げる。
「ツクヨミ様?」
「いや……モモ、今日はいつもの茶ではないのか?」
「えっ……多分同じだと……味、変ですか?」
 モモは慌てて、くんくんと鼻を鳴らしたり、茶を口に含んでみたりする。ツクヨミもまた、訝しそうに湯飲みの中の茶を凝視し、その黄金色の瞳で細やかに“分析”する。
 茶そのものには異常はない、ならば水か―――そう思ったとき、ゴトリと何かが落ちる音が聞こえた。モモが、手に持っていた湯飲みを落とした音だった。
「つ、く……よみ、さまっ……」
 眼前の白尾の娘は焦点の合わない目を揺蕩わせた後、ふらりとテーブルに伏せるようにして倒れ込んだ。
「モモッ……!?」
 慌ててその体を抱え上げる。ぐったりとしたその体はまだ体温こそ保っているものの、脈は弱く呼吸は荒い。何らかの毒か―――そう思って、即座に解毒の術式を組み上げ、仄かに光る掌をそっとモモの胸の辺りに押し当てる。―――が、効果はない。
「馬鹿な……毒ではないというのか」
 ツクヨミは舌打ちし、そして気づいた。城が……否、城を中心とした城下町全体が不自然な霧に包まれつつあるのを。そして、今の今まで庭先で月見をしていた妖狐達が皆一様に倒れ伏しているのを。
「これは……」
 しばしの間、絶句する。一体何が起きたのか全く分からなかった。誰かが、何らかの術を行使したのか。否、少なくとも己の配下にはこのような術を使う者は居ない。だとすれば、敵の襲来か。しかしそれならば、気づく筈なのだ。御那城山を中心とした城下町全体はツクヨミの結界の中にある。もし、何者かが侵入しようとすれば、それは必ずツクヨミ自身が感知できる筈なのだ。……余程、特殊な術でも使っていない限りは。
「……まさか、幻界の発動中に―――」
 そうとしか考えられなかった。鋼牙一派を幻界へと誘っていた僅かな時間、その間に侵入されたのだ。一時的にせよ、ツクヨミという存在が妖界から隔離されたその瞬間。侵入者が入り込んだとすればその時しか考えられなかった。
「―――っっ………!!」
 ならば―――と、ツクヨミはその体から妖力を迸らせ、全方位に向かって妖力の波を撃ち出す。撃ち出された妖力波は結界の切れ目で再び折り返して来、丁度潜水艦のソナーのように結界内の“異物”を調べ上げ、ツクヨミに伝える。
「上かッ……!」
 辺り一帯に異常を及ぼしているその元凶。それが“居る”のは大胆不敵にも程がある、天守閣のさらに上、城の頂上とも言える場所だった。ツクヨミは睨み付けるようにして天を仰ぎ、そして“跳ぶ”。
 柔らかい月の光に照らされた屋根瓦、そこに、“侵入者”は腰掛け、白い霧に包まれた城下町を見下ろしていた。そのすぐ傍に、ツクヨミが現れる。
「遅かったわね」
 侵入者はツクヨミを一瞥するなり、鼻で笑ってみせた。
「アンタまでどっかでぶっ倒れてんじゃないかって心配したわ」
 よっこらしょ、という具合にさも気怠そうに腰を上げ、屋根瓦の上に立つ。左手を腰に、余裕綽々とばかりにツクヨミを見下ろしてくる。 その右手に、蒼く光る短刀が握られていた。
 ギリギリと奥歯を鳴らしながら、ツクヨミは不遜極まりない侵入者を睨み返す。敵意と言うのも憚られる、殺意の籠もった目だった。震える唇が、漸く動いた。
「これは貴方の仕業か、……母上ッ!」


 


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