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怒濤のような攻め、その一言に尽きた。
 ツクヨミの妖気に呼応するように大地は裂け、雷鳴は轟き、暴風が吹き荒ぶ。岩山が崩れては、その瓦礫が巨大な礫となって雨霰と降り注いでくる。
「ちぃぃぃっっっ!!」
 真狐は舌打ちをしながらも、その礫の中へと突っ込んでいく。さらに、相対速度を合わせるように“着地”しては、降り注ぐ大岩の中をびょんびょんとはね回る。
 そこへ、耳を劈く音を立てて稲妻が走った。咄嗟に真狐は大岩の影に入り、それを防ぐ。―――と、まるでそう避ける事を予期していたかのように四方から炎蛇が殺到して岩石群ごと真狐は爆発に巻き込まれた。……かに見えたが、
「ぷはあっ……!」
 間一髪、着弾の直前に岩石の影から離脱し、その爆煙の中から黒くすすけた顔を覗かせながら地面に着地する。ゴゴゴッ……と地面が揺れだしたのはその時だった。
 真狐はすぐにその場から飛び退く。刹那秒遅れて真狐の足があった場所に巨大な土色の手が生えてつかみかかっていた。さらにその後を追うように数体の土人形が雨後の竹の子のようににょきにょきと生え、一斉に真狐の方を向く。
「ッ……っったく、次から次に……!」
 現れた土人形は十数体。体躯はおよそ真狐の三倍。長い腕と短い足をコミカルに動かしながら、慌ただしく走り寄ってくる。その動きは決して素早いものでは無いが、囲まれると厄介だ。
「上っ……!」
 咄嗟に真狐は頭上を見た。数匹の炎蛇が音も立てずに飛来していた。それを転がるようにしてかわす―――炎蛇は土人形とぶつかって爆発、真狐が立ち上がったところを今度は暴風が襲った。それに紛れて不可視の刃がヒュンヒュンと飛来してくる。真空波―――鎌鼬だ。
 真狐は目に見えないそれを音だけでかわしながら、腰を屈めると縮地の術で一気に離脱した。その後を、燃えさかる岩石群が追い立てるようにして降り注ぐ。
 また、雷鳴。真狐は妖刀を空に向かって投げた。立て続けに七回、妖刀目掛けて稲妻が走る。ちっ……と舌打ちをしたのはツクヨミだ。
 イイィィィィィッ!―――ツクヨミの体から、甲高い音を立てて妖力が迸る。交差させた両腕を広げ、解き放たれたそれらは赤い光の束だった。無数の赤い光線が、ツクヨミの体から放射状に撃ち出される。
「ドコ狙って―――………ッ!」
 真狐が不可解そうな声を漏らした時だった。突然左腕に焼け付くような痛みが走った。ツクヨミの放った赤い光線がかすり、血が滲んでいた。
「っ……!」
 光線の軌道を見切り、完璧に避けた筈だった。その避けたはずの光線がまた戻って来た。その方向には―――
「氷っ……!」
 無数の氷塊が、真狐を囲むように飛び回っていた。それらが赤い光線を弾き、屈折させ、巧みに真狐を狙ってくる。
 左頬、右足の脹ら脛、左腕―――反射してくる光線のあまりの数、スピードに完全には避けきれず、真狐は手傷を負う。
「こ……ンのおォ!」
 真狐は光線を踊るようにしてかわしながら、両掌から炎の槍を放つ。氷塊の軌道を読んで撃ち出されたそれらは的確に目標を捕らえ、破壊する。最後のひとつを破壊しきった時、突然目の前にツクヨミが転移してきた。いっ……と、真狐が口を引きつらせる。
 ツクヨミの腰の辺りに赤い、妖力の塊があった。それが、刹那秒のうちに破裂し、赤い針のような光の束が散弾のように真狐に襲いかかる。
「くっ……ううぅッ!!」
 真狐は咄嗟に対妖術用の防御障壁を前面収束の形で展開。同時に地を蹴り、縮地で少しでもツクヨミから距離を取る―――が、その真狐の跳躍よりも赤い光線の方が何倍も速い。
 渾身の力を込めた防御障壁、それも前面のみに集中させたにもかかわらず、ツクヨミの攻撃の前には殆ど役には立たなかった。防御障壁はガラスが割れるような音を立ててあっという間に砕け散り、幾分威力は減衰されたものの、かなりの量の光線が真狐の体を捕らえ、着物を焦がした。
「ッ……!」
 傷をかばいながらも、立つ。攻撃に応じてすぐに離脱できるように軽く腰を屈めている―――が、ツクヨミはそれ以上追い打ちはしてこなかった。
 地面から僅かに浮き、不敵な笑みを浮かべて真狐の方を見据えていた。
「……何よ、もう妖力切れ? 五本狐っていっても全然大したことないのね」
 突然攻撃を止めたツクヨミを挑発するように軽口を叩く。だが、当のツクヨミは先ほどの狼狽とはうってかわって余裕の笑みすら浮かべている。
「妖力の心配なら無用だ。まだ十分の一も消費してはいない」
 その言葉の通り、ツクヨミの体から溢れる紅い光の量は全く衰えるところを見せない。
 天変地異のようなツクヨミの攻撃。その殆どが、真狐の妖力では顕現不可能な程、大量の妖力を消費するものばかりだった。にもかかわらずまだまだ余力が在るというのはさすが五本狐の貫禄といったところか。
 かたや、真狐の方はといえば満身創痍も良いところだった。全身に手傷を負い、着物は破けたり、あるいは焦げたりでボロボロ、辛うじて原形をとどめているに過ぎない。
 呼吸も荒い。ツクヨミに気取られないようにと配慮はしても、どうしても乱れざるを得ない。体力の方もだいぶ消耗しているのだ。
 それでも、勝ち気な笑みを崩さない。自分が劣勢だと言うことも認めない。認めてしまえば、本当に負けてしまう。ツクヨミと戦うということは、そういうことでもあるのだ。
 傲慢とも言えるほどの勝ち気。そうでなければ、ツクヨミと言葉を交わしているだけで戦闘不能にされかねない。否、これは対ツクヨミ戦に限ったことではない。強大な妖力を持った敵と戦う時の一種の心構え、最低条件なのだ。そうでなければ戦わずして負けてしまうことを真狐は経験で知っている。
 だから、笑う。たとえ、空笑いでも。
「……それとも、ひょっとして“そろそろ尽きていて欲しかった”のか?」
 そんな真狐の姿を見て、己の実力を再確認したのか、ツクヨミは上機嫌だった。さも楽しそうにくつくつと、狐の笑みを浮かべる。
「たかが縮地でここまで避けきったのは見事、さすがは母上と褒めておこう」
「そーね。“たかが縮地”でここまで避けきれたのは私も初めてだわ」
 今度は真狐が、意味深な笑みを浮かべる。そしてどこか、口調に皮肉が匂っていた。
「アンタの術って見かけは派手だけど、全然威力が収束しきってないのよ。そして大がかりな分、発動も遅いから避けるのがホント楽だったわ」
 あからさまに挑発するような口調だった。先ほどまでのツクヨミなら、ここで烈火の如く怒り、牙を剥いて向かってくるはずだった。だが、ツクヨミは静かなままだった。
 だらりと両腕を伸ばした自然体とも言える立ち姿。一見無防備に見えるが、真狐が攻撃に転じようとすれば瞬時に防御ができる体勢である。だから、真狐は仕掛けない。ただでさえ縮地の使いすぎで妖力の残りは決して多くはないのだ。
 真狐は様子見に徹する。と、それまで静かに、ただ微笑を浮かべていたツクヨミが唐突に口を開いた。
「……母上、貴方は妾の父の事を憶えているか」
「あんたの親父?」
 真狐が不審そうな声を出す。何故そんなことを今更聞くのかと。
「そりゃあ憶えてるわよ。イモ揃いの陰陽師の中じゃ格別にいい男だったわ、名前は確か安倍――」
 そこまで声に出した時、突然真狐は全身に妙な圧迫感を感じた。ずっしりと、まるで背中に何者かが乗っかってきた様な感覚。真狐は咄嗟に振り返る――が、当然誰もいない。
「ツクヨミ、あんた……」 
 何をした――そう言いかけて、真狐は気がついた。ツクヨミは静かだった。それは、先ほどまで炎々と立ち上っていた赤い妖気の迸りの一切が消え失せていたからだ。
 ツクヨミが何らかの術を使えばすぐ察知が出来るはずだった。そのために、真狐は余裕の笑みを浮かべてはいても、常にツクヨミの妖気の挙動を探っていた。全感覚器官を妖力察知に特化させ、僅かな妖気の動きでも具に分かるように。
 ――だが、それ故に、真狐は“別の力”が働き始めていることに気がつけなかった。
 ひゅっ……と風を切る音を立てて、四方から何かが飛んできた。避けようとしたが、まるで泥の中に埋まっているかのように動きが鈍い。たちまち、飛んできたものに手足を絡め取られてしまう。紫に輝く、帯のようなモノだった。同時に、全身を凄まじい気怠さ、脱力感が襲う。
 真狐が帯を振り払おうと藻掻くと、絡め取られている部分がジリジリと音を立てて燻り、火傷でもしたように痛んだ。
「これは……縛妖陣……!?」
 真狐が叫ぶ。あり得ない……そういう叫びだ。真狐のその様を見て、高らかに笑ったのはツクヨミだ。
「奥の手は隠すもの……そうであろう、母上?」
 戦闘の初歩の初歩だ――ツクヨミは嘲笑う。そのツクヨミを、真狐は睨むようにして凝視した。妖力を探るのではない、それとは相反するもう一つの“力”を見るために。
 案の定、ツクヨミの体からは“それ”が溢れんばかりに立ち上っていた。妖力の赤とは違う、紫色の光。本来ならばそれは、決して妖の者には扱えず、身につけることは出来ない力――妖力と対極の位置に在る霊力と呼ばれるものの光だった。
 見れば、足下にも無数の紫色の“線”が走っていた。それらは縦横無尽、バラバラに走っている様に見えて、一つの“陣”を描いていた。
「先ほどの攻撃はただの目眩まし、密かに敷いた陣の中央に貴様をおびき寄せるための布石だ」
 だからわざと発動の遅い、大仰な術を使ったのだと、ツクヨミは愉悦の笑みを浮かべて、付け加える。
 真狐は唇を噛みしめるが、身動きは取れない。霊力というのは本来ならば、真狐やツクヨミのように妖の者と戦う立場にある特殊な訓練、修行を積んだ人間にしか使えない力なのだ。
 それはつまり、妖を滅するために特化した力ということでもある。妖力とは本来、妖の者が生活の不便を補うために行使し始めたものがその源流であり、根底は必ずしも“対妖戦”を想定していない。
 だが、霊力は違う。人間に害を成す妖を葬るために培われた力なのだ。霊力は同じ人間に対しては殆ど何の攻撃効果も持たないが、こと“妖力”を持った者に対しては絶大な威力を誇る。
 そう、妖力と霊力は相容れない存在なのだ。水と油のようにただ混じらないというものではない。合わされば互いに反発し、あるいは打ち消し合う。妖力と霊力の関係は言うなれば物質と半物質のそれに近い。妖力をもつ妖にとっては霊力などというものはただ近くにあるだけで害であり、ましてや自分がその力を行使するなど出来るはずはないのだ。
 だが、その不可能が、目の前で可能にされていた。真狐は真っ先に幻術にかけられた可能性を疑ったが、すぐにその可能性を頭の中から消した。多少油断はしていたとはいえ、眼前の小娘ごときの幻術をまともに受けるほど耄碌しているとは思いたくはなく、またそれは霊力と妖力を同時に持つ事以上に信じがたい事だった。
 故に、真狐は眼前の光景を紛れもない真実であると認めざるを得ない。
「どうした、母上。随分と大人しいではないか。頭の良い貴方のことだ、この陣に捕らわれることも当然予測し、逃げ出す算段があるのであろう?」
 ツクヨミは浮揚を止め、大地に降り立つと、ゆっくりと真狐の方へと歩み寄ってくる。くつくつと、加虐的な笑みを浮かべながら。
 縛妖陣。
 読んで字の如く妖を縛る陣。これに一度捕らわれれば、よほどの実力差がある場合か、もしくは陣が不完全でない限りは決して脱出することは出来ない。
 ツクヨミの陣は完璧だった。そして、ツクヨミの霊力もまた、軽く真狐の妖力を上回っている。
 つまり、事実上真狐は絶対にツクヨミの敷いた陣から抜け出すことは出来ない。捕らわれている真狐にも、そして何より捕らえているツクヨミも、そのことは百も承知だった。そう、それを承知で、ツクヨミは嬲る。
「……この口かッ」
 ぐいと、ツクヨミの指が真狐の顎先を掴み、顔を無理矢理上げさせる。
「偉そうに講釈を垂れ、説教をしたのはこの口かッ」
 声を荒げる。怒気を含んだ、罵声に近い声。だが、何処か悲壮さを感じさせる声だった。
「妾を馬鹿と嘲り、暗愚と罵り、落ち零れだと嘲笑ったのはこの口かッ!」
 罵声、そして、手拍子を打ったような音。肩で息をしながら、ツクヨミは右手の平に残る痺れに舌打ちをする。
 真狐の唇の端から、ツ……と赤い筋が走る。が、言葉は発しない。ただ、ジッと、その両目でツクヨミの顔を見続ける。
 その視線から逃げるように、ツクヨミが半歩後ずさる。唇を噛みながら、左腕を袖から出し、構える。
「終わりだ――」
 するりと伸びた腕、その先に紅い光が灯る。徐々に高密度に凝縮されていくそれは既に、一本狐一匹を葬るには十分すぎる威力を秘めた妖力の塊だった。が、ツクヨミはさらに力を込める。まるで、それを放ってしまうのを誰かに止められるのを待っているかのように。
 だが、ここは幻界。元より存在するのはツクヨミと真狐の二人だけ。その真狐が行動不能に陥っている以上、ツクヨミを止める者は居るはずがない。
「――…ッ!」
 左手にあるものを放てば戦いは終わる。であるのに、ツクヨミはそれが出来なかった。

 


   違和感。
 己の中に内在する“もう一つの力”に対してツクヨミが初めて抱いたものはそれだった。
 それは、本来ならば妖の者には決して扱えぬ力。妖を滅することにかけては妖力以上に長けた力。
 父である安倍某という陰陽師の血によって体に宿ったその力、本来ならば母から受け継いだ妖の血を害するだけの筈であったが、銀狐という才能はそれすらも併呑し、支配下に置いた。
 敵対する者がおよそ予想だにしない、有効な攻撃手段を奥の手というのならば、ツクヨミの霊力行使ほどその意外性という点で長けたものは無い。
 事実、真狐も見事にワナにかかった。だが―――

「…………くっ、くくくっく…」
 突然の、押し殺した様な笑み。今まさに妖力の塊をぶつけんとばかりに腕を振り上げていたツクヨミはぴたりとその動きを止めた。
「……何がおかしい」
 それとも狂ったか―――ツクヨミが苦々しげに言う。だが、どこか安堵したような顔つきだった。もちろん、ツクヨミ本人には自分の、そのような細やかな表情の変化の自覚は無い。
「……ふふふふふっ…笑いたくもなるじゃない。あの鼻タレがこうも……ふふふっ」
「……っ……! まだ、そのような口をッッッ……!」
 ツクヨミの体から凄まじいまでの霊力が迸る。同時に、真狐の手足を絡め取っている縛鎖がギリギリと締め付けた。
「ッ……どーやら、杞憂だったみたいね」
「杞憂……だとッ!?」
 真狐の軽口に、ツクヨミは怒り、声を荒げる。と、真狐はツクヨミのその反応を楽しむように微笑を絶やさない。
「さっき、父親の事を憶えているか――そう言ったわね」
 真狐が顔を上げ、その双眸をツクヨミへと向ける。言った、とはツクヨミは答えず、無言の内に真狐の顔を睨み返した。それがどうした、と言わんばかりに。
「あんたの親父はさぁ、」
 真狐はそこで言葉を切り、含み笑いをする。
「いい男だったし、あっちの方も達者だったけど、酒だけはめっぽう弱かったのよね。もー匂い嗅いだだけで真っ赤になってふらふらしてたわ」
 件の男が酩酊する様を思い出しているのか、真狐は笑い声を絶やさない。その笑みが、突然止まった。
「ねえ、ツクヨミ。……あんたはどうかしら?」
「何……っ」
 ぞくんっ。
 刹那、ツクヨミの背筋を何か冷たいものが駆け下りた。悪寒、と言っていい。五感を超えた何かが必死に警鐘を鳴らす。
 ツクヨミは、見た。拘束されている真狐の体、その右手が何かを握っており、指の先で弄ぶようにコロコロと転がしていた。それが、真狐が腰から下げている瓢箪の栓だと気づいた時、ツクヨミはその場を飛び退いていた――が、遅い。
「“酒よ――”」
 真狐が、声高に叫ぶ。
「“出ろぉッ!”」
「なっ――ッッッ!」
 水しぶき、否、一見水のように見えるそれは酒だった。真狐が叫ぶと同時に腰の瓢箪から凄まじい勢いで酒が噴出する。
 絶対に攻撃を仕掛けられないと油断していた事もあり、ツクヨミは物理的な干渉を遮断する障壁を張り損ねた。瞬時の判断でその場から飛び退きはしたものの、全身にたっぷりと酒を浴びてしまった。
「うっ……」
 と、慌てて口を被う。息をするのも憚られるほどに、辺りには濃厚な酒気に満ちていた。それは、ツクヨミに術の施行を怠らせるには十分すぎるものだった。
 気のせいか、酒の噴出する音に混じって悲鳴のような声が僅かにツクヨミの耳を擽った。が、しかし辺りにはもとよりツクヨミと真狐しか居ない。
「ぷっ…………はははははははッ!」
 ツクヨミが怯んだ隙に真狐は高らかに笑い声を上げると手足を拘束している帯をいとも簡単に振り払い、その場から離脱する。自由になった右手で再び瓢箪に栓をすると、噴水のように溢れていた酒と、悲鳴のようなものが同時に途絶えた。
「くっっっ……きさ、ま……よくも、よくもッッ!」
 ツクヨミは口を押さえながらも真狐を睨み付ける。その着物はたっぷりと酒を含み、濃厚な酒気を放って止まない。ツクヨミは余程酒に不慣れなのか、その白い頬を早速桜色に染めている。ツクヨミのその様を見て、真狐はざまあみろ、と毒づいた。
「ふふ、春菜の蔵からくすねてきた極上の妖酒よ。……効くでしょう?」
 真狐はくつくつ笑いながら瓢箪の紐を指に引っかけ、くるくると回す。如何に完璧に敷かれた縛妖陣といえど、肝心要の術者が酩酊状態とあってはその効力は完全にはほど遠い。
「だ、黙れッ……陣の一つや二つ……すぐにまた……………ッ!」
 ツクヨミの体から紫色の光が俄に迸る。その足下から紫色の線が網の目のように広がり、地面に一つの“陣”を描いていく。真狐を囲むように敷かれたその陣からは紫色の帯が生え、まるでそれ自体が触手となって獲物を求めるかのような動きで襲いかかってくる。だが―――
「くっ………!」
 聞こえてくるのはツクヨミの舌打ちの声ばかり。紫色の帯は確かに真狐を捕らえようと伸びはする、が、その悉くが明後日の方向にそれてしまって届かない。かりにもう少しで真狐の腕を捕らえるという所までいっても、真狐がひょいと半歩歩くだけで軽くかわされてしまう。
 コントロールが皆無といって良かった。言わずもがな、酒のせいだ。
「おのれッ……たかが、酒で……こんなッ………!」
 ツクヨミは声を荒げながらも右手を掲げ、渦巻く炎のような炎蛇を作り出し、真狐の方へと差し向ける。だが、本来標的を自動追尾するはずのそれすら見当違いの方向へと飛び去り、遠く離れた地面とぶつかって爆発を起こした。
 術が巧くいかないのは何も攻撃に限った事ではなかった。真狐が自由になった事を警戒して先ほどから再び浮き上がろうと試みてはいるものの、悉く失敗した。十数センチ浮き上がったかと思えばすぐに地につくといった具合なのだ。
 ツクヨミのそんな様を見て、真狐はさも愉快そうに笑う。
「酒は飲んでも飲まれるなってね。ツクヨミ、今のアンタにはそんな大層な術は使えないわよ」
「っ……!」
 歯をならす、が、真狐の言うことが全くの嘘でも無いことはツクヨミも自覚していた。立ちこめる酒の匂いのせいで集中力はかき乱され、偏頭痛は起こり、視界はグニャグニャと歪んで真狐の姿が5つに増えたり10に増えたりという始末なのだ。
 一方、真狐の方はといえば立ちこめる濃厚な酒気をものともせず平然と腰に手を当てて立っている。それがツクヨミに対するはったりでも何でもなく、素の態度であることは一目瞭然だった。
 何より、ツクヨミ自身が幼少の頃の経験として母親の酒の強さは十二分に知っていた。酒樽を一気飲みでもしたのならともかく、たかだか匂いを嗅いだくらいで酔っぱらう女ではない。
「だが、それがどうしたッ! 酒はじきに抜ける、その時まで妾は防御に徹せば良いまでの事!」
「防御に徹する?」
 鼻で笑ったのは真狐だ。その右手にはいつのまに拾ったのか、先ほど落雷を防いだ際に放り投げた短刀が握られていた。その短い刃が、しゅるりと伸びる。否、刃そのものが伸びたのでは無い、透明に透き通ったそれは形こそ固体だが、表面が僅かに揺蕩う水だった。
「無闇に術を乱発したのは失策だったわね。お陰でたっぷりとアンタの妖気を吸わせる事が出来たわ。浮揚できなくなった体で何処までかわしきれるかしら」
 すっ……と、流れるような動作で真狐が水の刀を構える。ツクヨミの知る限りでは真狐は剣術の心得は無かった筈であるが、ただ斬りかかるだけであれば素人でも出来ることだ。
 そう、この時点で“防御に徹する”という策は無意味になった。防御用の障壁に回す妖力を増大させて一切の術を防ぐことは出来る。だがそれは、あくまで真狐が一本狐の攻撃力しか持ち得なかった場合の話なのだ。妖刀がツクヨミの妖力を吸い、五本狐の攻撃力をもって剣撃を振るうのであれば、他の術よろしく行使が怪しくなった防御障壁で何処まで防ぎきれるかは賭の要素が大きい。
 避けに徹するという選択肢もある。が、しかしツクヨミ自身、酒気の影響でどこまで動けるかは未知数であった。ひょっとしたら意外に身軽に動けるかも知れない。が、一歩足を上げただけで無様に転んでしまうかもしれない。
 どちらにせよ、絶対の勝利が約束された策ではないことは確かだ。――それならば、多少消耗が激しいものの、必ず勝てる道を選ぶのがツクヨミのやり方だった。
「さあ、どうする? 今すぐ地べたに這い蹲って詫びれば許してあげないことも無いわよ」
 真狐は妖刀を上げ、ツクヨミに突きつけるようにして挑発する。縛妖陣を抜けたとはいえ、まだ二人の妖力差は歴然たるものであるというのに、この余裕はさすが、と言わざるを得ない。もっとも、先ほどと違ってツクヨミはまともに妖術が使えず、空も飛べず、反対に真狐の方には一撃必殺もなし得るかも知れない妖刀が握られているのだ。この余裕もあながちハッタリではない。
 だが、ツクヨミは―――
「……初めに言った筈だ。母上、詫びるのは貴方の方だと」
 しっかりと真狐を見据えると、脱力するように両手をだらりと降ろした。その体に、再び溢れんばかりの紅い光が灯り、迸る。
「ふん、性懲りもなく。アンタ、今の自分に使える術と使えない術の区別も付かないの?」
 その体から溢れる妖力量から察するに、ツクヨミが使おうとしている術は先ほどの天変地異かそれ以上の術であることは明白だった。そして、今のツクヨミがそのような大がかりな術を行使しようとしても、複雑難解な術式の最中で必ず失敗するであろう事も。
「母上、心配は無用だ。何故なら……」
 微笑。
 ツクヨミが唇をゆっくりと歪ませると同時に、ゴウと凄まじい音を立ててその体が炎に包まれた。青白い、高温の炎だった。
「妾が使う術は、“狐火”。生まれて十日の子狐でも使える術だ!」
 ゴォォォッ!!――ツクヨミを包み込んでいる炎がますます燃えさかる。青白い炎はツクヨミから溢れる妖力を燃料にしてみるみるうちに膨れあがり、そのあまりの熱気に真狐は数歩後ずさった。
「ツクヨミ、あんた……ッ……」
 まさか――と、真狐はまた後ずさりする。こめかみを伝う汗は、熱気によるものだけでは無かった。
「さすがに察しが良いな、母上。もはや、貴方に逃げる術はない!」
 ツクヨミを包む炎は周囲に灼熱をまき散らしながらどんどん膨れあがっていく。それはさながら、地上に落ちた太陽のようであった。
 術式は単純明快。ツクヨミが言った通り、子狐でも使えるただの“狐火”。だが、それもツクヨミが使えば、これほどまでになる。
「幻界を全て、妾の炎で満たす! だが母上、貴方の事だ。それだけでは……万が一、何らかの方法で凌ぎきるかもしれない――」
 だから、とツクヨミは言葉を続ける。
「幻界の全てを燃やし尽くした後、幻界そのものも消滅させるッ。……なに、難しい事ではない、幻界を包み込む炎と同等の霊力を解き放って反応させてやれば良いまでの事だ」
 さも造作のないことのように、ツクヨミはくつくつと笑みを零す。が、さすがに真狐はつられて笑うわけにはいかない。
 ツクヨミがやろうとしていることは、極端な話、鼠一匹を殺すために世界全体を核の炎で包み、それでも生き延びているかも知れないからと地球そのものまで破壊しつくしてしまおうと言うことなのだ。
 当然、それだけの事をやればツクヨミ自身もかなりの消耗を強いられる事になるであろう。だが、それだけだ。消耗するというだけで死にはしない。かたや、真狐には絶対に逃れられぬ死が待っているのである。
「命乞いをしろ、母上ッ、今すぐ這い蹲って許しを請えばよしんば妾の気も変わるやもしれぬぞ?」
 ツクヨミはわざと真狐の言葉を真似て哄笑し、憎悪の籠もった目で真狐を睨み付ける。親子の情などといったものは皆無。言うとおりにしなければ宣告通り焼き殺すと、揺るぎない意志が籠もっていた。
 そこには、先ほどのような逡巡は微塵も無い。酒気を浴びて平常心を失ったのか。否、躊躇ったが故に脱出の機会を与えてしまったという後悔がツクヨミの決意を揺るぎないものにしたのか。どちらにせよ、ツクヨミは“本気”だった。
 真狐はボロボロになった袖で汗を拭うと、小さく舌打ちをした。
「……ツクヨミ、アンタ……そーまでしてあたしを殺したいわけ?」
 この親不孝者、と真狐は苦笑しながら呟く。だが、真狐のこの言葉にツクヨミは文字通り烈火の如く怒った。
「母上、貴方に……分かるかッ。貴方の子であるというだけで蔑まれ、陰口を叩かれ続けた妾の気持ちがッ。ただ、貴方の子であると言うだけで……妾はッ!!」
「アンタが虐められたのはあたしの子だったからじゃなくて、銀狐のくせに里一番の落ち零れだったからでしょ?」
 責任転嫁も甚だしいとばかりに真狐は鼻で笑う。
「何だとッ……よくも、そのような口が利ける……貴方が“枷”さえしなければ、妾はッッ」
 枷。
 その言葉に、真狐はぴくりと眉を動かした。
「妾が永遠に気づかないとでも思ったかッ! お守りと称して渡された龍の髭の首飾りはその実、強力無比な妖力封じ。至極、まともな術など使える筈が無いッ!」
 ツクヨミは懐から古びたそれを取り出し、真狐の方へと投げつける。真狐は事も無げにそれを受け取ると、意地悪な笑みを一つ零した。
「……ふふ、いくらアンタが馬鹿でもいつまでもダマされちゃくれないか」
 確信犯的な呟きに、ツクヨミはギリギリと歯を鳴らす。何だと…、とでも言いたげな顔だった。
「なかなか楽しい見せ物だったわよ? 才能溢れる銀狐様が簡単な術すら使えずに泣きじゃくってる様は。こんな粗末な首飾りなんて後生大事につけてるから、いつまでも無能扱いされるのよ」
「なっ……貴、様ッッ!」
 激怒、というのも生やさしい怒りだった。
 何か、納得のいく答えを期待したわけではなかった。ただ、それでも、ひょっとしたら、何か理由があったのではないかと。心の何処かで、ツクヨミ自身も自覚していない所で信じていた。――それが、真狐の嘲笑で一気に消し飛んだ。
「きッ――」
 震える唇を動かし、言葉を絞り出す。酒気を帯びながらも、集中は増し、かつてないほどに妖力が猛り、迸り、収束する。
「消えろォォォォオオオオオッッッ!!!!」
 咆哮。
 ツクヨミが両手を広げると同時に、その体から一気に炎が溢れ出し、暴風のように大地という大地、空という空を飲み尽くしてゆく。
「……誰がッ――!」
 目の前に迫り来る炎の壁。真狐は勝ち気な笑みを一つ残し、跳躍した。


 


 


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