2日目午前東山手・南山手

鉄道発祥の地  東山手洋風住宅群  孔子廟  大浦天主堂  グラバー園

  2日目午前のコース東山手、南山手は開国後の長崎がテーマです。

東山手

  長崎駅からは直通の市電はないので、築町で乗り継ぎ市民病院前で下車します。

  1858年の日米修好通商条約で外国人居留地がつくられることになると、この海岸通りあたり、東山手の丘の下
の部分は埋め立てられ、東山手、南山手、そして後には出島のあたりまで、外国の領事館や商社や住宅などが
次々と建ち、異国情緒の漂う長崎、を形づくったのです。

  電停からいわゆるオランダ坂までの間に鉄道発祥の地
の碑があります。
 鉄道発祥は新橋横浜間では、と思うかもしれませんが、それに先立つ
1865年イギリス商人グラバーがこの通りに軌道を敷き、蒸気機関車アイア
ン・デューク号を走らせたのです。まあ、デモンストレーションでしょうが。

  いっしょにある運上所跡は税関のことですね。この並びに
は1804年に通商を求めて来たロシアのレザノフの仮館跡の看
板もあります。
 レンガ色のホテルの角を曲がると、いよいよオランダ坂。坂の途中で振り返ったのがこの写真。オランダ坂というのは居留地の坂道の総称なのですが、この石畳の道はその代表的風景です。
 坂の突き当たりに元は領事館だった東山手十二番館があります。この周辺には活水女子大など、宣教師らによってさまざまな私立学校が創設されましたが、内部はその資料館になっています。東山手の今昔を比べた写真など、とても面白いです。
 
  丘の斜面に東山手洋風住宅群があります。明治期の外人向けアパートですが、その中の1
件が町並み保存センターになっています。その中で旧居留地に関するビデオをのんびり見て
いた3人。案内の方の「グラバー園までまわると時間かかりますよー」という言葉にあわてて飛
び出しました。

 これは住宅群の中の、古写
真資料館になっている棟の軒
下です。この逆さギボシの
意匠。崇福寺大雄宝殿のもの
ととても似ているのです。マネ
したんでしょうか?
↑崇福寺の逆さギボシ
   洋風住宅群の前から桜の木を通して見える赤い建物は、明治期(1893年)創建の孔子廟(525円)です。
  徳川幕府は儒学を奨励しましたから、孔子をまつる孔子廟は各地にあります(東京の湯島聖堂など)が、中国政府(清朝)の協力でできた中国人による本格的な孔子廟は本国以外ではここだけなのだそうです

 洋館群のそばに真っ赤な中国建築は異質な感じですが、故宮博物館提供の文物が展示されている中国歴代博物館が併設され、見ごたえあります。          
  
  洋風住宅群に隣接するレンガ壁のあるこの坂もフォトスポットとして押
さえておきたいオランダ坂のひとつ(と、さっき見たビデオが教えてくれまし
た)。このあたりまでが東山手地区です。

南山手

  孔子廟に寄ってから、丘の間の谷にあたる市電の走る通りを渡ると南山
手地区。急に観光客の数も多くなり華やかな雰囲気になります。お土産屋さ
んなどが並ぶ下り松オランダ坂をのぼり切ると、突き当たりが大浦天主堂です。

大浦天主堂   居留地ができた当時、まだ日本ではキリスト教は禁じられていましたが、居
留地の外国人のために建てられた1864年に完成の現存する最古の天主堂で、国宝です。二十六聖人の殉教を顕彰するということで、西坂の方を向いて建っています。
  中に入ると(250円)、全体としてはシックなながら、美しいステンドグラスと豪華な祭壇。厳かな気持ちで説明のテープに耳を傾けます。

 外人向け、にもかかわらず、日本語で「天主堂」と掲げたのは、フランス人プチジャン神父が日本にもまだ信徒がいることを信じたからだそうです。実際、浦上村の信徒がやってきて、250年ぶりの「信徒発見」となるエピソードは有名で、そのレリーフが天主堂の手前左の一角
 にあります。正面の白いマリア像も信徒発見のお祝いにフランスから贈られたものなのだ
そうですが、この発見が後に「浦上四番崩れ」(1869)とよばれ、村のほとんどが配流となっ
た最後の大弾圧を招くことになります。隣の神学校の建物の中にその史料が展示されて
います。日本のキリスト教解禁は1873年。この神学校は1875年にプチジャン神父が日本人
神父養成のために建てたものです。


 この神学校の裏へ回るとグラバー園(600円)にすぐ入ることができます。

グラバー園  長崎観光のハイライト、グラバー園は南山手の斜面にあるイギリス商人グラバ
ーの旧邸宅を中心に、市内にあった洋館を移築してつくった、いわば「明治村」です。
 入場してすぐ動く歩道(急斜面です)に乗ってのぼっていくと、長崎市内が見下ろせて、とてもいい気分。特に一番高台にある旧三菱第2ドックハウスの2階バルコニーからは港全体、長崎駅の方まで見渡せて、華やかな絶景です。

正面、湾の向こうに三菱長崎造船所が見えています。日本の高度成長期を支えたこの造船所の基礎をつくったのは、土佐藩出身の明治の政商、岩崎弥太郎。三菱財閥の創設者です。
  グラバー園の中で、呉女のお気に入りは、この旧ウォ→
ーカー邸。掃除が嫌いで、広い家には住みたくない呉女に
は、このこじんまりしたまとまり方が素晴らしいのです。

  ティールームになっている、最古の西洋料理店との説も
ある旧自由亭でコーヒーとカステラをいただきながら、窓の
外を眺めると桜と港とグラバー邸の屋根。長崎気分が高ま
ります。天井やじゅうたんもレトロでいい雰囲気です。

 さて、いよいよ旧グラバー邸。花いっぱいのサンルームが付いた現存する最古(1863年建造)の木造洋館です。

  鉄道発祥のところに登場したグラバーは開国まもない1859年に21才の若さで来日、お茶の輸出などで頭角を現しました。その他にも日本初の近代的造船所やビール会社(キリンビールの前身)をつくるなど、さまざまな業績がありますが、彼がただの商人とちょっと違うのは、ある種の政治的信念を持っていたらしいこと。志士たちを援助して伊藤博文らを留学させたり、亀山社中に武器を売っていたのも彼です。後に彼自身が「徳川幕
府への最も大きな反逆人だった」と言っているそうです。グラバー邸には
志士たちが集まり、天井裏には隠し部屋もあったとか。ところが、皮肉にも
幕府が倒れたことで、武器は売れなくなる、旧藩主への借金は不良債権に
なる、でグラバー商会は倒産してしまいます。その後東京に出た彼を、長崎
で面倒をみてもらった政府高官たちが世話をしたそうです。
  グラバー邸は今もって多くの観光客を長崎に呼び込んでいるわけですか
ら、グラバーの貢献度というのは、すごいものがありますね。
  
 ところで、グラバーがこの邸を去った後、作家のジョン・ルー
サー・キングがここを訪れ、そのイマジネーションで書いたの
 が、プッチーニのオペラで有名な「蝶々夫人」です。園内には蝶々夫人を演じたオペラ歌手三
浦環の記念像があります。

  グラバー園以外にも南山手には歴史を感じさせる洋館がいくつもあるそうですが、お昼ごは
んの予約をしてあったので、昼過ぎに大浦天主堂下電停から市電に乗って、町中へ向かいま
した。時間的にはこのあとが寺町めぐりになります。

寺町へ

夜の観光バスへ

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