2日目午後寺町              
眼鏡橋 興福寺 崇福寺 亀山社中跡 新地中華街

  2日目、旅の行程からいったら、午前行った山手が先になるのですが、
時代の順番にしたくなったので午後の寺町を先にしました。
(へんなところにこだわるのは呉女の特性です。)

 江戸時代の鎖国下、長崎で貿易をしていたのはオランダだけではありません。もうひとつ、
中国(明、清)があります。その中国の面影を求めて寺町を歩きます。
  
  中国関連でもっとも著名なのは、この眼鏡橋でしょう。
賑橋(にぎわいばし)電停から町中を少し抜けると中島川のほ
とりに出ます。この中島川にはいくつもの石橋が架かってい
ますが、眼鏡橋はその中で唯一の二重橋。
 1634年これから訪ねる興福寺の住職、如定(にょじょう)が架けました。ア
ーチ式の橋を作る技術も長崎経由で輸入されたもので、九州各地にアーチ
式の橋が残っているそうですが、これはその最古のものです。昭和57年の
大水害で半壊しましたが、復元されました。
  眼鏡橋を渡って、山側の方へ歩くと、突き当たりの意外に小さな通りが寺町通りです。その
名とおり、この通りにはたくさんのお寺が並んでいます。
 そのうちの一つ、如定の興福寺……に行く前に、その途中にある料亭「一力」でランチです
料亭なんてリッチな、と思われるかもしれませんが、姫重卓袱(しっぽく)2500円とリーズナブルです。

 長崎の食を語る上ではずせない、卓袱料理は、今ではけっこう高価なごちそうとなっていますが、もともとは長崎が唯一の貿易港となった当初、日本人宅に下宿していた中国の商人たちが日本人に伝えた家庭料理に、長崎で和洋の要素が加わってアレンジされたもの。そのエッセンスをお重に詰めたのが、一力の姫重しっぽくなのです。
 また、この一力は創業1813年。高杉晋作ら、幕末の志士も遊びに来たという老舗だそうで、
雰囲気も味もなかなかです。姫重卓袱は限定数があって要予約です。

興福寺  お腹もいっぱいになったところで、寺町を少し
北へ歩いて興福寺(200円)です。奈良の大寺と同じ名前
ですね。寺町の中でも赤い門が目を引く唐寺です。

  唐寺とは貿易で長崎に来た中国人が、航海の安全を祈願するた
め、またキリシタンではないことを証明するために建てた寺です。その
中でもこの興福寺は1620年建立と最古のもの。本堂にあたる大雄→
宝殿は明治時代の再建ではありますが、純中国風の意匠が美しい
建築です。このアーチ型の天井など、見てみてください。
   山を控えて、それほど広い境内で
はないのですが、境内には旧唐人→
屋敷門と長崎聖堂門が移築されてい
ます
 唐人屋敷というのは、いわばオランダ人にと
っての出島と同じもの。長崎にはオランダ人よ
りはるかに多くの中国人がいましたが、輸入
が制限されたころ、唐人屋敷という区画が造ら
れ、そこからの出入りも制限されました。ただ
唐寺に参詣するためなら外に出られました。
唐人屋敷の広さは出島の2.5倍だそうですが、移築された門は意外なほどの小ささです。長崎聖堂(1711年創建)は
儒学などを教える長崎一の学問所だったそうです。

 この興福寺の二代目住職が眼鏡橋を造った如定。三代の逸然が中国の禅界の重鎮だった
隠元隆g(いんげんりゅうき)を長崎へ招きました。  
 隠元はインゲン豆を日本に伝えたことで知られる名僧ですね。隠元は一年ほどここで住職をした後、京都に出て
後水尾天皇の信望を得、宇治に万福寺を建てて、黄檗宗(おうばくしゅう)開きました。その後、興福寺をはじめ、長
崎の唐寺も黄檗宗になりました。


崇福寺  興福寺を出て寺町通りを戻り、10分ほど歩くと竜宮城のよう
な赤い三門が見えるのが、唐寺で最もメジャーな崇福寺(そうふくじ、300
円)です。
 唐寺はその出身地ごとに造ったのだそうで、興福寺は揚子江流域の三江出身者が建て
た寺。こちらの崇福寺は福建省出身者が1629年に故郷の僧超然を迎えて建てた寺です。

   三門を入って左の石段をのぼった所の第一峰門は1644年創建1696年
改築の国宝。軒下の組物がとっても凝っていて必見です。1646年創建
の大雄宝殿も国宝で、江戸初期の寛永文化として高校の教科書に載っていたりします。 その隣に媽姐堂(まそどう)があります。
 
 媽姐というのは唐船にまつられる海上守護神の像で、長崎に滞在中はその像をこのお堂に安置したのです。興福寺にも媽姐堂はありますが、崇福寺の媽姐堂にはごていねいに門までついています。

  山の斜面に建てられた狭い境内ですが、中国盆のときには爆竹を鳴らしたりして、たいへんな賑わいになるのだそうです。
  
   さて、崇福寺から市電の走る繁華街、思案橋通りまではすぐです。15時前。ツアコンのオオ
アマさまいわく「夕食まではフリータイムでございます」。で、ここからはお義母さまとは別行動
に。呉女オオアマコンビは疲れた体に甘いものを補給しながらフリータイムの行き先を考えま
す。体力、時間から考えると候補の中から1個所を選ばねばりません。決心して市電に乗り、
諏訪神社前下車。
  次の場所は時代は開国後ですので次の「山手」に入れるべきなのですが、
崇福寺まで歩いてしまったので市電に乗ったまでで、戻った所は興福寺の近く、
場所として寺町に近いので、そのままここに入れます。
   
亀山社中跡   禅林寺と深崇寺の間の細い坂(実際には階段)が竜馬通り
です。ここを200mほどのぼった所に坂本竜馬が1864年に組織した貿易会社、
亀山社中があったからです。
 坂をのぼると寺の裏は広い墓地、そのすぐ上が住宅地。寺ができ、墓地が
でき、人が住んだ、という順番だったのでしょうか。長崎ではよくある風景なの
ですが、ちょっと異様な風情でもあります。
  ところで竜馬通りはけっこうきつい。それを励ましてくれるのが、途中にいくつ
もある「Welcome亀山社中まであと○○m 亀山社中ば活かす会」の看板。
それから「石段も竜馬思えばまた楽し」なんていう楽しい歌もいろいろ。心は温
まりつつ息はハアハアゼイゼイでたどりついたのが、住宅地の中の一見普通
の住宅。前に碑があります。今も住んでいる方がいらっしゃって、ご厚意で
土日祝のみ内部を公開してくださるそうです(なるべく要事前連絡)。この日は平日だったので場所を確認しただけで満足としました。
  
 亀山社中で輸入された武器などは、第二次長州征討(1865)において長州側で威力を発揮。倒幕への大きな力となりました。当初、竜馬は各地を奔走していて、あまり長崎にはいられなかったようですが、1867年薩長連合が実現すると亀山社中は「海援隊」と改称。ところが、間もなく竜馬は暗殺されてしまい、翌68年(明治元年)解散しました。


  ここのすぐそばの市街を見下ろせる場所に竜馬ぶーつ像があります。
のブーツに足を入れ、前にある
舵を握るとすっかり竜馬になっ
て日本の舵取りをする気分
のときの眺めがこれです。

正面に「長崎くんち」で有名な諏訪神社
が見えます。この祭も幕府のキリスト教
対策として発展したとか。長崎に意外
に寺が多いのも同じ理由なのでしょう。
それから、右の方面がオランダの医師シーボルトが1824年に鳴滝塾を開いたあたりになると思います。

  ところで、さらに坂をのぼると竜馬の像のある公園があるそうですが、体力不足につき、断念
しました。


 夕食は3人揃って新地中華街へ。築町電停下車。横
浜に比べると小さな中華街です。十字路に「新地蔵跡」の
碑。「しんじぞうあと」と読む人が後を絶たないそうですが、
「しんちくらあと」と読みます。

 ここはかつては海だった所。唐人屋敷はこの近くで、中国の商人たち
の蔵が火事で焼けてしまった後、今度は類焼しないようにと海に新しい
土地を造って蔵を建てたのがここ。つまりすぐ近くにある出島と同じような
島だったのですが、幕末に埋め立てられました。

  それはともかく長崎で中華といったら、ちゃんぽんと皿うどんですね。これは明治になって
中国人留学生のために安くて栄養のあるものを、と考案されたそうです。私たちは「江山楼」で
いただきましたが、意外にあっさり味で美味でした。

  夕食の帰り。ぜいたくにもタクシーに乗ってしまいました。すかざすここぞとばかりに質問を始
めます。呉女「こんなに坂の多い町で、お年寄りなどどうやって暮らしていらっしゃるんです
か?」。運転手さん「ハイ、皆さん、ひざの病院やら、腰の病院やらに通っていらっしゃいます」。
坂の町、長崎ならではのさまざまな福祉サービスが長崎のタクシー会社にはあるそうです。

東山手・南山手へ

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