1日目出島周辺

出島オランダ商館跡 南蛮船来航の波止場跡 イエズス会・奉行所・海軍伝習所跡
二十六聖人殉教地

 長崎駅に集合した3人がまず向かったのは出島。駅前から市電に乗れば、三つ目が「出
島」電停です。

出島オランダ商館跡 そもそも、拠点となる港を求めていたポルトガル人がここに天然の良港をみとめ、それ
まで一寒村に過ぎなかった長崎に港を開いたのが1570年のこと。
  江戸時代に入って、幕府は町人たちに出島を築かせ(1636年)、そこにポルトガル人を移住させました。島原の乱
の後、キリスト教をおそれてポルトガル人の来航を禁止する(1639年)といったん出島は空になりましたが、1641年平
戸にあったオランダ商館を出島に移しました。以後いわゆる鎖国の状態になり、貿易は幕府によって独占されること
になります。 
  出島は明治時代に埋め立てられたので、、今は陸の
一部ですが、現在、かつての出島を復元する長期計画が
進行中。まず、出島電停近くに数棟の蔵などの建物が復
元され、その雰囲気が味わえるようになっています。そも
そも出島を復元してほしい、と長崎市に申し入れたのは
オランダ政府なんだとか。
復元建物手前の穴を覗き込むと、発掘された荷揚場
の石垣跡なのだそうです。

  出島内には史料館が三つ(全部で300円)あり、ゆっくり見るとかなり時間がかかります(私た
ちは閉館ぎりぎりまでいました)。江戸時代の出島の様子がよくわかります。
  
出島の北側を横から見ると往時の扇形をしのぶことが
できます。こんな感じです。ただ川幅を広げるために出島
側の陸地を削ってしまったたのだそうで、このラインもか
つてのものではないのが残念。南側は完全に陸続きで、
それはそれで妙な感じ。

 出島での貿易は、増加する輸入額をおさえるため、幕府が1685年に
輸入額を制限したので次第に衰退しましたが、その後も出島は西洋文
明の流入口としての役割を果たし続けたのです。

  
  出島を出て、すぐ北側の丘にに上がります。坂道のふもとには、意外にも重厚な店構えのかの文明堂の本店があるんですよ。坂の途中、こんな石碑があります。南蛮船来航の波止場跡

かつての海岸線は今より内側にありました(長崎駅のあたりは海だった)。あの天正少年遣欧使節団の4人の少年もこの波止場からローマに旅立ち(1582年)、ここへ帰ってきたのです。

  坂をのぼって長崎県庁の敷地内に入るとすぐ右に、こんな欲張りな碑があります。イエズス会本部 奉行所西役所 海軍伝習所跡↓
  
 長崎に港が開いて、町ができました。そして各地からキリシタンが移住してきて、この丘に教会
が建ちましたが、1614年キリスト教の弾圧で破壊されました。その後、幕府の天領である長崎の
奉行所がここに移されてきました。この丘の上から真下の出島を監視していた、ということでしょう
か。「西役所」というのは、奉行所の機構が拡張されて、北の方にできた立山奉行所(2002年7月
現在発掘調査中。将来復元予定だそうです)と分離したからです。
 港が近いので、幕末には来航する外国人の接待などに使われたようです。その西役所内に、開
国後の1855年海軍伝習所が設立されます。勝海舟や榎本武揚らがここで学び、オランダからは
観光丸が寄贈され、やがて太平洋を渡る新造船、咸臨丸もやってきました。  

これはハウステンボスにある復元された咸臨丸です。
航海していることが多いそうで、見られるとは限らないとのこと。
なお、ハウステンボスでは観光丸も復元されていて、
大村湾クルージングを楽しむことができます。
1600年にウィリアム・アダムスらをのせて漂着し
オランダとの交流のきっかけとなった
デ・リーフデ号の復元もありますよ。


  さて、再び坂をおりて、そのまま港の方へ歩くと、そ
 こは出島ワーフという、ウォーターフロントエリア
で、若者向き飲食店や雑貨店が並びます。木製のデ
ッキがあったり、いかにも最近はやりの……といった
感じではありますが、この港を往来した異国船と、そ
の周辺のドラマを思うと、ここでいただく一杯のコーヒ
ーもまた格別なものに感じられるじゃないですか……


   長崎駅に戻って、駅のはす向いにあるNHK横の急な坂道をのぼると西坂公園があります。

実際は3日目の早朝に行ったのですが、ここに入れます。

二十六聖人殉教地  ここ西坂公園は1597年に6名のスペイン系宣教師と20名の日本人信徒がはりつけの刑に処せられた地です。
その等身大の記念碑と記念館(250円私たちは早朝で入れませんでした)があります。

 長崎がイエズス会に寄進されていたことを知った秀吉は1587年にバテレン追放令を出しますが、一方で貿易は奨
励していたので追放令は不徹底で、教会も教徒も増えていたのです。ところが1596年のサンフェリペ号が土佐に漂
着。スペインの領土的野心に疑いをもって、この26人を捕らえ、いわばスケープゴートにした、ということのようです。
26人は京都や大阪の人たちでしたが、わざわざ長崎まで連れてきて処刑したのは、長崎にキリシタンが多かったか
ら「転ばせる(改宗させる)」手段としたのでしょう。しかもこの西坂の丘は当時、海に突き出た岬で、長崎の町中から
見上げる舞台みたいなものだったと思います。 この後も西坂は殉教の地となり、天正遣欧使節の一人、中浦ジュリ
アンもこの地で殉教したとも聞きます。

  早朝の冷たい風が、清らかにも厳しくも感じられた、西坂の地です。


寺町へ

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