●(19)2004年 2月23日
「クラシック音楽家」
この3週間くらいの間にクラシックの著名な音楽家が別々に2人来店されました。どちらの方も最近になって、京都市立芸大で教鞭を執られる事になったようです。クラシックの音楽家はあまりお付き合いがありませんので、その時はお名前を聞いても分からないままにいろいろ話をしているのですが、インターネットでお名前を検索してみますと、どちらも国際的なコンクールで数々の素晴らしい実績を残しておられ、何百もの検索結果が出てくる方でした。
お一人は女性ヴァイオリニストSさんで東京芸大卒業後、ドイツのフライブルグ音楽大学へ留学後、いろんな国際コンクールで大賞受賞、その後ケルン放送交響楽団で1990年から十年以上第一ヴァイオリンのコンサートミストレス(コンサートマスター)を勤められ、日本のオーケストラはもちろんのこと、世界中のオーケストラとソリストとして共演されている方でした。今年の6月25日には京都府立文化芸術会館で「無伴奏の夕べ」というソロコンサートをされます。
もうお一人はバリトンの声楽家Fさんでやはり東京芸大卒業後、国内、国外の数々の大賞を受賞。最近は二期会のオペラや第九のソリストとして日本中ひっぱりだこで、現在売れっ子の声楽家です。当店でも気楽に何曲か歌って頂きましたので、取りまきの皆さんは大喜びでした。またいろいろ話しておりますと、その取りまきの中に私の行っておりました府立大学の合唱団の後輩がおりまして、彼は府大卒業後、市立芸大に入り直して現在その先生のもとで声楽の勉強をしている4回生でした。府大ではもともと生活科学部というところで建築関係の勉強をしていたのですが、結局また音楽の道に進んでしまった変り種(?)です。うちの合唱団OBで卒業後も私のように音楽を仕事としている者は他にいないので、彼には是非頑張ってもらいたいものです。
最近、クラシックのコンサートにはなかなか行くことは少ないのですが、このようなかたちで著名な演奏家と知り合いになったりとか、ちょっとしたきっかけがあれば行ってみようと思うものです。
●(18)2004年 2月16日
「狂言の会」
私の店へ来られる京都の旦那さんたちはいろんな古典の芸事を習っておられます。小唄、長唄、清元、謡曲、仕舞、日本舞踊、狂言、三味線・・・・・など。京都にはそれぞれにいろんな流派があり、超一流の師匠がおられ、お稽古する場としては非常に恵まれています。また何十年、何百年といった長期にわたり各種の伝統芸能を守ってこられたのは、そういうお弟子さんたちというか京都の旦那衆の支えもあってのことです。
先日は店のお客さんも何人か出演されるということで観世会館で行われた「狂言の会」に行ってきました。茂山千五郎社中のお弟子さんの発表会で、入れ替わり立ち代り、二十題以上を演じられ、午前10時から夕方6時前までの長時間ですので、私共は知り合いが出られる時だけ見せてもらいます。その皆さんは既に十年以上もお稽古されているベテランですが、発表会では20〜30分くらいの演目を演じるわけですから、一年がかりでお稽古されています。まだ習い始めの頃は台詞を忘れられたり、間違われたりで、後見の先生方の助けを借りられ、本来の中身以外で笑わせて頂きましたが、最近は皆さん上手になられて本来の狂言の内容で笑わせて頂きます。それにしてもお師匠方は何百もある演目の振りと台詞を、何代にもわたって口伝され一字一句間違いなく覚えておられるのですから伝統文化のすごさを感じます。
茂山家は男系の家系で、このところ格好いい若手がたくさん成人され隆盛を極めています。お蔭で若い狂言ファンも増えたようですが、この日も人間国宝の千作さんから、NHKの連続ドラマにも出ておられた茂さんまでがゲスト出演されていました。
●(17)2004年 2月9日
「カラオケ同好会」
今週はじめにライオンズクラブのカラオケ同好会(正式には歌唱同好会)の新曲のレッスンをさせて頂きました。数ヶ月ごとに新しい歌を覚える為に来られますが、もう15年以上続いていますので皆さん相当な数のレパートリーがあります。気楽なお稽古会で、来られたらまず料理屋さんからとった立派なお弁当とビールで食事をされてからのレッスンです。メンバーは40歳代から最高80歳代の方までおられますので、選曲にも気を使います。選曲は私の判断でこれから確実にヒットしそうな曲、又はヒットしているので覚えておくとお得だと思う曲の中から、歌い易いものをと心掛けています。このところ1時間30分程の間に2曲覚えて頂きますのでなかなか大変です。4〜8小節づつ、何回も繰り返し歌ってもらって、身体で覚えて頂くようにします。
今回の練習曲は五木ひろしの「逢えて・・・横浜」、夏川りみの「童神(わらびがみ)」でした。「逢えて・・」は五木ひろしの曲にしてはこぶしのない、あんまり演歌っぽくない、ちょっと前のムード歌謡といったようなものです。「童神」は夏川りみの昨年の大ヒット曲「涙そうそう(なだそうそう)」の次に出した曲です。最近は沖縄で作られた歌がよくヒットしていますが、これもその中のひとつです。もともとの沖縄の音楽は ド ミ ファ ソ シ ドという5音階でレとラがありません。楽器を使ってレとラを抜いて弾いてみるだけで沖縄風の音楽になります。でも最近作られるの沖縄音楽は三線を入れたりして沖縄の雰囲気を出しているだけですべての音階を使っています。この曲もシンプルできれいな作品ですが若い人にも人気がありますので、若い人とご一緒の席などで歌われる場合にもお役にたつだろうという事での推薦曲です。
先週末は「京都水雲会」という会で「金子みすゞ」のライブをさせて頂きました。全国のいろんな業種のリーダー的な立場の方々の集まりで、日本の歴史、文化、に恵まれた古都京都を中心に、四季折々の自然鑑賞や、茶道、華道、古寺巡礼、名庭巡り、史跡探訪を通して「日本文化」を見直し勉強をしようという会だそうです。
そのライブで新作の「弁天島」「日の光」(2004年1月26日版参照)を初演。「日の光」は私が若干失敗。
●(16)2004年 2月2日
「京都会議」
毎年1月の第3週頃の週末から日曜日にかけて社団法人日本青年会議所の全国大会(京都会議)が京都国際会館で行われます。夜はいろんな場所で懇親会が開かれます。先週は私共のところへも茨城県のかしま青年会議所が夜の懇親会(ロムナイト)で来て頂きました。一般的にはJC(JUNIOR CHAMBER)といわれている団体で、40歳までの企業家の集まりですが、その卒業メンバーの中からは現在も、国政の大臣や大企業の社長や文化人などいろんな著名人がおられます。新年会シーズンも終わり京都の街も一年の内でも最も静かな時期に、1万人ほどの方が全国から来られるのでホテル、旅館、飲食店を含め、多少は京都の経済にもプラスになっていると思います。土曜日の夜がピークで祇園街もJCメンバーであふれかえりますが、このところの景気の低迷のせいか、今年はこの何十年の中でも一番静かなようでした。
923自身も30年前、京都のJCのメンバーのご支援が原点になっています。当時のJCのパーティーの音楽の仕事のほとんどをさせて頂いていました関係です。メンバーの方々は40歳で卒業後、企業家として今もロータリークラブやライオンズクラブ、また政治家になられたりと、いろんなところでご活躍です。JCとのお付き合いのお蔭で京都のみならず全国中に貴重なお知り合いができたことはありがたい限りです。
私も既に57歳にもなってしまいますと、現役のJCの方は最年長でも40歳ですので、かなり年齢差を感じてしまいます。
●(15)2004年 1月26日
「日の光」
久しぶりに金子みすゞさんの作品の中から「弁天島」「日の光」という詩に曲をつけました。
「弁天島」はみすゞさんがふるさとの美しい風景の中から「花津浦」「祇園社」「王子山」・・・・など八ヶ所を仙崎八景として選んだなかのひとつですが、松と小さな祠(ほこら)をのせただけの小さなかわいい島のことをうたったものです。
「日の光」は、みすゞさんの作品の中ではほとんど最後のもので、ご主人から詩作と文通を禁じられ、童謡の筆を絶たれる前に雑誌に投稿されたものです。私も好きな詩で以前から曲を付けようと、何度か試みてはいたのですが、なかなか納得ゆくものが出来なくてそのままになっていた詩です。デュエットにしましたが少々音が取り難いところもあって、しっかり練習しないと来週のライブに間に合うかどうか分かりません。
詩は最初の2行だけ字数が違うパターンになっていますので、それを真ん中と最後にも使ってみました。次回からのライブで歌ってゆきますので、また何かの機会に聞いてみて下さい。
「弁 天 島」
「あまりかわいい島だから
ここには惜しい島だから、
貰ってゆくよ、綱つけて。」
北のお国の船乗りが、
ある日、笑っていいました。
うそだ、うそだと思っても、
夜が暗うて、気になって、
朝はお胸もどきどきと、
駈けて浜辺へゆきました。
弁天島は波のうえ、
金のひかりにつつまれて、
もとの緑でありました。
「日 の 光」
おてんと様のお使いが 揃って空をたちました。
みちで出逢ったみなみ風、(何しに、どこへ。)とききました。
一人は答えていいました。
(この「明るさ」を地に撒くの、みんながお仕事できるよう。)
一人はさもさも嬉しそう。
(私はお花を咲かせるの、世界をたのしくするために。)
一人はやさしく、おとなしく、
(私は清いたましいの、のぼる反り橋かけるのよ。)
残った一人はさみしそう。
(私は「影」をつくるため、やっぱり一しょにまいります。)
●(14)2004年 1月19日
「パズル、クイズ」
若い頃からパズルとかクイズとかは好きでよくやりました。いわゆるマッチ棒やコインをを並べ替えたりするものから、かなり高度なものもありました。最近は残念ながら日々の雑事に追われてそんなことに多くの時間をとることが出来ません。一時、多胡輝(たごあきら)さんという方の書かれた「頭の体操」という本のシリーズがベストセラーになってパズルがブームになっていた時期もありましたが、そんな頃よりもまだ前の、私がまだ二十代の半ばの話ですが、当時私の勤務先の社長が私のクイズ好きを知って結構難解なクイズを出題してくれました。そしてそれを3日以内に解ければ車を買ってあげようというものでした。多分仕事で車を使っているのにボロ車に乗っている私にましな物を買ってやろうという親心があったとも思っていますが、車はともかくクイズには意地になって数日間クイズ漬けで何とか期日までに正答する事が出来ました。その結果、新車ではなかったのですがブルーバードSSSレザートップの当時としてはなかなか立派なものを買ってもらった覚えがあります。
参考までにその問題を書いておきますのでお好きな方は挑戦してみて下さい。但し正解されても賞品はでません。
「12個の同じ形をしたコインがあります。
そのなかに1個だけ重さの違うものがあります。
3回だけ天秤ばかりを使ってそれを見つけなさい」
というもので設問自体はシンプルなものです。似たようなクイズはよくあるのですが、この問題の難しい点は重さの違うコインが、重いか軽いか分からないという事です。重いか軽いかが分かっていれば27個のコインの中からでも、3回の天秤ばかりで見つけ出すことが出来ます。
●(13)2004年 1月12日
「髭」
元来ひげの濃い私は、仕事の前には必ず風呂に入り、カミソリでひげを剃ります。電気シェーバーではどんなに高級なものを使っても完全には剃りきれず、カミソリでの深剃りの爽快感には勝てません。今までにかって三度ほどひげを伸ばしたことがあります。剃らずにほっておきますとモミアゲからアゴひげにつながって、口のまわりにもぐるりと生えてそれこそ熊五郎のようになります。伸ばし始めの数日は無精ひげのようできたないので、ひげを伸ばすときは正月休暇とかお盆休みなどの長期休暇を利用して伸ばし始めます。1週間以上経ちますとそこそこ格好がつき、2〜3週間で整います。私の場合は鼻の下と唇のすぐ下のところだけを剃って顔のまわりをぐるりとひげが囲むような状態になりますので、顔の中には何もひげの無い状態で人相的にはあまり違和感がないと思います。顔の中にひげを伸ばしますと(特に鼻の下とか)かなり人相が変ってきます。今年の正月は伸ばしませんでしたが、去年の正月休みに伸ばした写真がありますので載せておきます。ちょっと白いものも目立ちますが1ヶ月も経てばこんな感じになります。これでも手入れが必要で、まわりのひげは伸びた所をハサミでカット、幅もあまり太くならないよう剃って整えます。口のまわり、顔の中ほどにも生えてきますのでそれも毎日剃らなくてはなりません。
●(12)2004年 1月5日
「還暦」
新年明けましておめでとうございます。 本年が皆様にとりまして素晴らしい年になりますよう心よりお祈り申し上げます。 正月中、ごろごろしておりましたので4日になりまして慌てて最初の日記を書き始めました。
毎年、還暦を迎えられる年齢の方々が、その年に同窓会を行われます。昨年は昭和18年(未年)生まれ、今年は19年(申年)生まれということで、私自身も信じられないのですがいよいよ、とうとう再来年に還暦の年を迎える事になるわけです。といっても私も12月が誕生日ですので,昨年末に57歳になったばかりなので全く実感はないのですけれど・・・・。
今年は十二支の申(さる)年なのはよくご存知でしょうが、甲(きのえ)の年てあるということにはあまり関心がありません。この十二支とは別に十干(じっかん)とよばれるものがあって、一年ごとに次のようにまわってゆきます。
甲(きのえ)、乙(きのと)、丙(ひのえ)、丁(ひのと)、戊(つちのえ)、己(つちのと)、
庚(かのえ)、辛(かのと)、壬(みずのえ)、癸(みずのと)
各語尾に「のえ」と「のと」がついていますが、もともとこの世の森羅万象を「木」「火」「土」「金(か)」「水」の五つに分類している「陰陽五行説」からきているもので(例 「木」→「
きのえ」「
きのと」、「火」→「
ひのえ」「
ひのと」)、最後尾の「え」と「と」が「干支(えと)」の語源だそうです。
今年は暦の上では甲申(きのえさる)の年で、丁度六十年ぶりに廻ってきたことになります。ちなみに来年は乙酉(きのととり)、再来年還暦になる私どもの生まれた昭和21年は丙戌(ひのえいぬ)でということになります。人生で自分の生まれた暦の年に二度巡り合うことはないわけですから、それぞれの方にとりまして還暦の年は貴重な記念の年なのでしょう。昔の還暦の人と比べると最近の還暦の人は随分若いように思いますが、外見上お洒落になっていて、みんな自分だけ若いと思っているだけなのかもしれせん。若い者から見るとやっぱり昔からと同じ年寄りに見られているのかもしれません。
●(11)2003年 12月29日
「普賢花」
全く知らない人からメールをもらいました。私どもが歌っている「金子みすゞ ころの世界」のCDを購入して聴いてよかったという内容のものでした。それも東本願寺前の法蔵館で購入したということが書いてありました。仏教関係の出版社である法蔵館で扱っているということをどこで調べられたのか、という事が不思議でメールでお尋ねしてみました。その方は九州の知人から大澤一恵さんという歌手がコンサートで「普賢花」という歌を唄っていてとてもよかったという話をきいて、その歌をCDからMP3データ(注:無断で録音してはいけません・・・)におとしてもらって聴かれたそうです。それでその歌を聴いてよかったので、その作曲者のことを調べようとインターネットで「藤山一男」を検索し、私の店のホームページから「金子みすゞ」のCDについてお知りになったようです。たまたまその方も京都在住で、長崎県の島原半島の国見町のご出身で私の店の名前をみて、私がきっと国見町の出身だと思っておられたみたいですが、残念ながらそれは違いました。
「普賢花」は1991年6月3日の火砕流災害のあと、わたしの知り合いの文筆家が被災地の復興支援のボランティア活動をされていてその方が書かれた詩です。救援活動中に火砕流で亡くなられた消防団の方がおられましたが、その時すでに身ごもっておられた奥さんのことを書かれた歌です。実際には普賢花という花は存在しません。日本クラウンより発売されているCDシングルには「島原慕情」という演歌の曲がカップリングで入っていますが,これも私の曲です。「島原慕情」には”♪〜おろろん、おろろん、おろろんばい♪〜〜”で有名な「島原の子守唄」が挿入されています。CDは1992年に大澤一恵さんが歌われたものが発売され、翌1993年には長田悠希さんという神戸出身の歌手が新たにCDを発売されて、全国コンサートをされていました。
当時は私も微力ながらボランティアのお手伝いとして3回ほど島原へ寄せていただき、島原市民会館で行われた復興支援コンサートででも歌わせていただきました。
こんな形で一つの曲から私を探し出して、また私のCDを買っていただくなんていうことは、作曲をしている者にとりまして誠に光栄な事です。
●(10)2003年 12月22日
「クエ鍋」
先週、お客さんのお宅へよばれて十数人でクエ鍋をいただきました。クエというのは本州中部以南に棲む「クエ科」の海水魚で別名モロコというのだそうです。少し違う種類の良く似た魚でアラというのも一般的にクエといっていますが厳密にいうと少し違う種類で、ハタ科の「メロウ」をクエとして販売している所もあるそうですがこれも違うものだそうです。クエの魚体の全長は1m以上、体重20Kg〜100Kgで、とりあえず本物のクエは一般的にはあまり手に入れにくい高級食材です。
クエ鍋は私を含めてその日そこへ来られていた方全員が、初めての経験でした。てっちりと同じようにポン酢でいただくのですが、味はフグなんかに比べるとあっさりしていて、どちらかというと身はとタラに近いかんじでした。同時に横にフグも用意していただいたのですが、やっぱりフグの方が美味しいでしょうか。鍋をした後の雑炊は最高でした。
甘くみていました先週からの風邪がなかなか良くならないようですが、これで治りそうな気がしています。
●(9)2003年 12月15日
「忘年会」
先週はj毎年恒例の仕事で、ある病院の忘年会パーティーへ行きました。800〜900名程の大きなパーティーで、さすがに着席スタイルでその規模の宴会となりますと京都では「ウェスティン都ホテル」(旧 都ホテル)くらいしかするところがありません。私共が仕事でよせていただくパーティーとしては最も大きなものです。その忘年会へはもう20年以上行かせてもらっていますが、20年前は医師と職員さん200名位の規模だったのですが、年々職員さんの数が増え今や2000名以上の人がおられます。ということでこの忘年会は今回が半分で再来週ににもう一度同規模の忘年会があり、また行かせてもらう事になります。この病院のここ数年の伸び方はまた特に著しく、毎年200人以上づつのスタッフが増えているように思います。そろそろ忘年会を3回にしなくてはならないかと考えておられるような状態です。いまどきは病院経営も大変な時代なのですが、この時期にどんどん大きくなっているというこの病院経営の素晴らしさには感服しています。
あれほど気をつけていたのに風邪をひいてしまいました。養生していますのでこの4〜5日で良くなりそうですが・・・・。丁度ライブの仕事のない時でよかったです。
●(8)2003年 12月8日
「紅葉」
今年の紅葉は夏の冷夏と秋の冷え込み不足で色づきが良くなかったようです。近くの山々も11月の終わりから12月になってやっと色づいたようですが、色づく前にたくさん散ってしまったようにです。12月になってもこの暖かさは地球全体の温暖化の影響なのでしょうか。
11月の9日に母親を連れてモミジで有名な紅葉の名所、永観堂(禅林寺)へ行って来ました。永観堂の場所は銀閣寺から続いている哲学の道の終点あたりから、南禅寺方面へぬける途中にあります。ご本尊の阿弥陀様が横を向いておられるという「みかえり阿弥陀如来」で有名な浄土宗のお寺ですが、紅葉狩りの人はあふれていましたが、ほとんど紅葉はしていませんでした。三人で行きますと拝観料が一人千円で、駐車料が千円で、計四千円はちょっと高い気がします。
11月中旬からは京都市内のいろんな寺院で夜の拝観が行われますが、祇園に近い東山沿いの各寺院(清水寺、高台寺、知恩院、青蓮院など)でも夜間拝観をします。11月の京都は一年のうちでももっとも観光客が来られるようで、この時期ホテルの予約をとるのは大変です。今年は週末ごとに結構雨が降り、せっかく観光に来られた方にも気の毒でした。この東山沿いの夜間拝観の中ではでは、高台寺が照明のなかによく映え、私個人としては一番のお勧めです。私の店にバイトで来ている、女子大生が高台寺にもアルバイトに行っているのですが、一日に拝観者が5千人もあるそうで、一人600円として・・・・と思わず計算してしまいます。なお清水寺なんかはそれこそ毎日1万人以上の拝観者があるそうですのであれのあれ・・・?です。
この時期、夜間拝観の影響で東山通りは夕方から夜にかけて観光客で大混雑になります。私どものように日常的に祇園へ仕事に行く者にとりましては通常よりもかなり通勤時間がかかりますので、この混雑は結構迷惑なものです。
●(7)2003年 12月1日
「歌声喫茶 炎」
11月17日に「中山隆さんを偲ぶ会」というのが京都パークホテルでありまして、160名位の方々にお越しいただきました。中山隆さんというのは、昭和40年代全盛でありました四条河原町にありました歌声ホール「炎」のリーダーで、それこそ京都の歌声喫茶のスターでした。そしてそのあと、木屋町で山小屋風のスナック「炎」を経営されていたのですが、残念ながら今年の2月に病気で倒れられ、9月10日に72歳でお亡くなりになりました。私も中山さんのもとで学生時代に歌声のリーダーとしてアルバイトをしておりましたのでこの「偲ぶ会」の呼びかけ人の一人として名前を連ねさせていただきました。当日は出席者の献花のあと、ご遺族のご希望で私たち夫婦で「百万本のバラ」を献歌させて頂き、その後は当時の歌声のリーダーOBと共に歌声のファンも次々にステージに上がり、みんなでロシア民謡、ラジオ歌謡、童謡、歌曲などを歌い大いに盛り上がりました。
歌声喫茶を今の若い人に説明してもなかなか分かってもらえないのですが、歌声のリーダーのもとで、歌集を見ながらみんなで同じ歌を唄うライブハウスですとか言って説明しています。もともと昭和30年代は労働運動なんかが原点で始まったようですが、私の大学時代には新しいポップス、若者の歌謡曲も沢山入っていて思想的なものは全くない時代でした。当時が歌声の全盛期だったのでしょう、東京には「ともしび」、大阪には「こだま」、そして京都には「炎」という歌声喫茶がありました。「炎」の従業員のほとんどが大学生で、私も大学の1回生から4回生までリーダーとしてアルバイトをしておりました。「炎」はノンアルコールでジュース類とコーヒーしかなく、高校生でも来れる健全な店でしたので、京都在住の人はもちろん、連日、全国各地から修学旅行生が押し寄せ大いに賑わったものです。今思うと口下手の私がよく歌声のリーダーをしていたなと思うのですが、若いという勢いだけで何とか出来ていたのでしょう。当時は丁度フォークソングのはやり始めた時代で、私も「炎」で新しくフォークのコーナーを作ってもらって担当させてもらっていました。
下の写真は先月11月11日の京都新聞に載った当時の歌声喫茶「炎」の写真ですが、左端が故人の中山隆さん、正面のマイクの左で中央を向いて立っているのが20歳頃の私です。(ちなみに当時のメンバーをご存知の方のために、私の右隣が去年まで京都パークホテルで支配人をしていた山田さん、その隣が北海道へ帰ったシーちゃん、次が寺の息子で現在九州でオペラ歌手をしている蓮井君、右端が通称クロと呼ばれていた福井さんです)
京都の「歌声ホール炎」中山隆さんを偲ぶ会のサイト
http://music3.2ch.net/test/read.cgi/music/1066309914/l50
●(6)2003年 11月24日
「風邪」
私ども仕事がら、絶対に風邪をひくことが出来ません。コンサートがない時はひいてしまっても、店で歌えないというだけで何とか許してもらえるのですが、コンサートの時は声が出ないでは許していただけません。いつも結構気をつけているのですが、いくら注意をしていてもやっぱりスーパーマンではないわけで、風邪をひいてしまう事はあります。妻の場合は風邪をひいても比較的声はでるし、薬を飲むと1〜2日で良くなるようでうらやましい限りですが、私の場合はいったんひいてしまうと声は出ないし、なかなか治らないというたちの悪い風邪です。最近は風邪のひきはじめを微妙に感じる事が出来るようになりまして、その時点でおとなしくしていると、4日から一週間くらいで良くなるようです。いつもどこへ行くときも必ず永年愛用の風邪薬”ジキニン”を持ち歩いていて、少しでも怪しい兆候を感じると飲むようにしています。その点、風邪薬も錠剤にしておきますと普通3錠のところ4〜5錠にしたり1〜2錠にしたりと融通がききますので便利です。のどスプレー、クララ、のど飴も必需品です。
●(5)2003年 11月17日
「先週のコンサートライブ」
先週は2度「金子みすゞ」コンサートをさせて頂きました。3日(文化の日)にはお寺の法要でのイベントで寄せていただいたのですが日蓮宗のお寺は初めてでした。宗祖日蓮の報恩法要でお会式(おえしき)と言うのだそうです。日蓮宗のお経は鳴り物が多く賑やかでした。当日は久々の土砂降りの雨で機材を運ぶのにもガレージから本堂まで距離があり大変でした。イベントで出していただいたうどんがとても美味しかったです。
その後、8日に学校のイベントに呼んでいただきました。小学校へ入ったのは何年ぶりでしょう。校長室へ入ったのはそれこそ小学校の時に叱られたとき以来です。地域の小、中学校のPTAの方々の集まりだったのですが、朝が早く9時からの演奏でしたので5時半起き、6時半出発とちょっと辛かったです。
大体、次の日が早い時間帯のコンサートとか、遠方へ行かなければいけないという時に限って、前の日に店が忙しく、寝る時間が遅くなてしまうという事が多いように思います。この前日7日の日も最近には珍しく忙しい日で、最後には遅がけから高校の同級生が久しぶりに金沢から来るというような状況でやっぱり早く寝させてはもらえませんでした。コンサートが終わって昼過ぎに帰宅、また夜は団体の予約を訊いていましたので、ひと寝入りして夕方に出勤、夜中まで働きました。店ではちょっと飲みすぎで翌日は二日酔い。
●(4)2003年 11月9日
「インターネット」
このところのパソコンによる情報のやりとりは本当にすごいものがありますが、情報の検索技術の進んでいるのにもにも驚かされます。たまたま、あるミュージシャンの経歴を調べるのにYaHoo!から検索をしていたのですが、一度自分の名前「藤山一男」で検索してみると何か出てくるかとやってみましたところ、923、金子みすゞ関連、大学のクラブのOB会(合一会)、歌声喫茶「炎」、京都新聞の記事、などなど15件ほど出てきましたのでびっくりしてしまいました。それこそ星の数ほどあるホームページの情報の中からどのように検索してくるのだろうと我々、昔の人間は不思議に思ってしまいます。(後日記;活動が少ないと検索の件数も減ってきます。現在は多少減っています。今はnifty,ocn,biglobeなどが検索し易い)
インターネットやメールをを使う事で、わざわざ会わなくても情報のやりとりは非常に速く、便利になったようですが、本当に心が通じるという部分では実際どうなのでしょう。やっぱり会って話すのが一番のように思うのですが・・・・。
●(3)2003年 11月2日
「パソコン」
パソコンをやり始めてからもう何年経つのでしょう。多分25年くらい前にビデオとパソコンのどちらを買うかというところで妻に私の説得が勝って、シャープのMZ-80とかいう機種を買ったのが最初だとおもいます。パソコンの価格は今の最新機種と同じくらいでしたので、当時としては結構高価なものでした。ソフトも何もなく自分でプログラムを作るか、雑誌に載っているゲームのブログラムを入れて動かすというような時代でした。麻雀ゲームなんかを動かそうとすると、打ち込みに何日もかかりましたしそのデータを保存するのにもカセットテープを使っていたようなことでした。その後はNECのPC-80シリーズが大流行でPCにしておけばよかったなぁと反省していたように思っています。そのパソコンは見かけの大きさは今のと変らないのですが、640KBくらいの容量しかなく、今の電話帳カードにも負けてしまうようなお粗末なものでした。その後、結局NECのPCシリーズで、主に顧客管理のデータベースを使っていたのですが、千件位上もある顧客リストをMS-DOSからWindowsへ移し変えることが面倒で、遅ればせながら5年ほど前にやっとWindowsを使い始めたようなことです。
Windowsになってからはあまりの器械の進歩についてゆけなく、半年ほどパソコン教室で基礎だけ勉強しましたが、未だに分からないことが次々と出てきては困っています。
●(2)2003年 10月30日
「9月23日コンサート 続」
コンサートでは東京からアサヒビールの会長、星由里子さん、綾部の市長、武田病院グループの会長、京都文教学園の理事長他、小、中、高,大学の先生方、京都の各企業の社長などなど、日頃ステージの上でしゃべっておられるような方々が、客席で聞いておられるというような、著名人のたくさん来られた演奏会でした。
金子みすゞ作品の発掘者、矢崎節夫さんの講演も大変好評でした。矢崎さんも今までに全国で千回以上の講演をされていますが、個人の店で呼んでもらったのは初めてだとおっしゃっていました。
飲み屋の三十周年の記念イベントとしては「講演と、童謡を歌う」という非常に地味な内容で、ホテルでパーティーでもする方がたくさん来て頂けたかも分かりませんが、お越しいただいた方には金子みすゞさんの詩の素晴らしさを知っていただき、喜こんで頂けたようです。
あれから一ヶ月がすみましたがあの後、右京区ふれあい文化会館、中舞鶴総合会館で「金子みすゞ こころの世界」をさせて頂きました。
●(1)2003年 10月25日
「9月23日コンサート」
9月23日の
923三十周年記念コンサートから一ヶ月経ちました。あの後いろんな方からご感想を頂きましたが、結構喜んで下さったようなので安心しています。
あの日はいつも一緒にライブをしています名ギターリストの古川忠義さんが別の仕事で都合がつかなく、初めてシンセサイザーとヴァイオリンに入っていただきました。シンセの林秀茂さんは大阪では結構ご活躍の有名なオールラウンドなプレイヤーです。ヴァイオリンの長野昭子さんはクラシックでもかなりの音楽賞の受賞実績のある方でその上美人でとても素敵な方でした。また次の何かの機会に是非ご一緒したいと思っています。
私はもともと自分でギターを弾いて好き勝手に歌っていることがほとんどですので、他の方と一緒にする時は非常に気を遣います。歌だけをとるとコンサート後の録音を聞いてみても、自分で一人でやっている時の方が気を遣わない分、随分リラックスしているように思います。でもあのヴァイオリンの音色には泣かされましたね。
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