路線バスのドア配置
かつての路線バスには、様々なドア配置が見られました。特にワンマンカーが走り始めた1960年代以降、輸送量の増加とともにその傾向は顕著になります。ドアの数は1ヵ所から3ヵ所で、用途や輸送量によって選択されます。通常のワンマンカーは2ドアが基本となりますが、これも前中と前後という二種類の配置があり、地域ごとに或いはユーザーごとに分化していました。21世紀に入る頃、バリアフリーに対応する低床化によって、エンジンがあって床が高い後部へのドア設置が難しくなり、更にコストダウンのためメーカー側から仕様統一の提案がされるなど、ドア配置のバリエーションは急激に減ってきました。
ここでは、過去帳になりつつある様々なドア配置とその意味を、ここでまとめてみます。
なお、10-1 ドアの形状とは、一部の記述が重複する場合があります。
1ドア(中ドア)
全国的にワンマン化が進行する中で、中ドア車は1970年代以降ほとんど作られなくなりました。小豆島バスと伊那バス、中央アルプス観光は1980年代まで導入していた特殊事例です。
中ドア折り戸
千曲バス いすゞBA20(1968年式)
撮影:小諸駅(1980.7.31)
車掌が乗務していた時代には最も標準的だった中ドア折り戸車。折り戸は手動で開け閉めしやすいメリットがあります。
なお、写真の車両は中ドア前部にバックミラーがついています。車掌が中ドア下部の安全確認を行うためのものと思われます。
中ドア引き戸
仙台市交通局 日野RB10(1965年式)
撮影:東仙台営業所(1977.8.7)
ツーマン車の乗降性向上のため、中ドアに引き戸を採用した車両もユーザーによっては見られました。引き戸にすることによってドア幅が広がったほか、自動化も行われたため、車掌の労力軽減にも役立ちました。
中ドア次位には車掌台があり、その部分の「車掌台窓」は開け閉めしやすい引き違い窓になっています。
中ドア4枚折り戸
札幌市交通局 日産デ4R110
撮影:板橋不二男様(白石営業所)
ワンマン化直前の昭和40年前後に、ラッシュバスと呼ばれる長尺のツーマン車が作られ、その中には広幅の4枚折り戸を採り入れたケースもありました。これにより、乗車と降車を同時に行うことができ、停車時間の短縮に役立ったようです。
札幌市交通局や宮城バスなどに見られました。
1ドア(前ドア)
近距離路線にも前ドア車を中心に使用していた会社もあります。これは乗降が激しくない地域のワンマンカーに認められていた措置ですが、どの範囲に認めるかは地域による差があったようです。そのため、前ドアのワンマンカーというのは地域的な偏りが見られます。(注1)
低床化により姿を消していますが、岩手県北自動車や十和田観光電鉄などではかなり遅くまで導入を続けていました。
前ドア
東野交通 日野RE120
撮影:黒磯駅(1977.8.9)
バス窓時代の前ドア車というのは、珍しくはありませんでした。貸切バスとして作られた後、路線転用されたものもありますし、最初から長距離路線バスとして作られたものもありました。
写真の車両は、側面に方向幕がありますので、最初から路線バス用に作られたワンマンカーです。
前ドア
会津乗合自動車 日野KC-RR1JJAA(1996年式)
撮影:若松営業所(2018.8.5)
バリアフリー法により路線バスは2ドアが標準となりますが、当初貸切登録だった廃止代替バスには引き続き前ドア車を導入するケースもありました。
また、岩手県北自動車では、前ドアのワンステップバスを2001年まで導入しています。
2ドア(前中ドア)
首都圏の均一区間では前乗り中降りになりますが、地方の多区間運賃の場合は中乗り前降りになります。地域や時期によっては前乗り前降りで、中ドアを締め切り扱いする会社もありました。
1990年代終盤からのバリアフリー化による低床化の中で、前中ドアが路線バスの標準的な形態に統一されています。
前中折り戸
東野交通 いすゞBU05(1971年式)
撮影:黒磯駅(1977.8.9)
地方では、中ドアが折り戸のままでワンマンカーを増備し続けたユーザーも多く見られます。
特に初期には車掌が乗務することを想定した「ワンツーマン車」という兼用車もあり、1980年代に入るまで車掌台をつけた車両を導入していた会社もあります。
前中引き戸
京王帝都電鉄 いすゞBU10(1978年式)
撮影:武蔵小金井駅(1980.7)
ワンマンカーとしては比較的多く見られた前中引き戸。首都圏ではこのドア配置が主力でした。
引き戸はドアの幅を広く取ることができるメリットがあります。手動では開け閉めに力が要りますが、自動ドアになったワンマンカーでは導入が進みました。
前中4枚折り戸
西日本鉄道 日産デU20L(1977年式)
撮影:板橋不二男様(北九州市)
中ドアに4枚折り戸を導入したのは、1972年の西日本鉄道で、1980年代には首都圏などでも見られるようになります。中ドアの幅を最大に確保できるドア形態で、乗車または下車を2列で行うことができるメリットがあります。
低床化が進む1990年代にはワンステップバスにも導入されたものの、2000年代初めには再び引き戸に取って代わられました。
2ドア(前後ドア)
1951年に大阪市交通局が日本で初めて運行したワンマンカーがボンネットバスの前後ドアでした。その後、センターアンダーフロアエンジンバスでも最後部にドアを配置した前後ドア車が、リアエンジンバスではエンジンの前に最後部ドアを配置した前後ドア車が製造されています。車内を広く使用でき、乗客が均一に分散するといったメリットもあります。後ろドアの安全性とも関わるため、導入会社に偏りがあるのだと思われます。(注2)
バリアフリーと標準設計化の流れの中で、前中ドアに統一され、姿を消す運命にあります。
前後折り戸
大阪市交通局 日野BT11(1964年式)
撮影:酉島車庫(2005.3.22)
初期の前後ドア車で「電車型バス」と呼ばれた前後同一プレス。後部にエンジンのないセンターアンダーフロアエンジン車のメリットを生かし、後ろドアを最後部に配置したため、床面すべてを活用できるメリットがあります。
前後折り戸
京福電気鉄道 日野RE120(1976年式)
撮影:福井駅(1982.3.28)
中部地方では、前後ドアの採用例が多い地域が見られます。後ろドアが折り戸の一例。地方都市のバス事業者で多く見られました。
前後引き戸
京都市交通局 日野RE100(1974年式)
撮影:京都駅(19811.11.15)
関西では標準的なワンマンカーのドア配置だった前後ドア。都市部では後ろドア引き戸が多かったようです。
1980〜90年代には、これらの中古車が地方に譲渡され、折り戸だった事業者に、引き戸車両が増加するという現象も起きています。
3ドア
バリアフリーと標準設計化の中で、前後ドア車と同様に姿を消しました。
3扉(中ドア引き戸・後ろドア折り戸)
関東バス 日産デU20L(1974年式)
撮影:吉祥寺駅(1977)
中ドアが引き戸で後ろドアが折り戸の例。関東バスでは前後ドアが標準でしたが、終点駅での降車時間短縮のため、3ドア車に切り替える際、引き戸の中ドアを新設しました。導入は1964年で、日本初の3扉車だったそうです(注3)。
その後関東バスでは後ろドアを引き戸に変更していますが、名古屋市交通局、東武鉄道では後ろドア折り戸のまま1990年代まで製造されています。
3扉(中ドア・後ろドア引き戸)
京王帝都電鉄 日野RE140(1974年式)
撮影:中野車庫(1983.8.10)
後ろドアも引き戸の例。京王帝都電鉄では、ラッシュ対応のため、長尺で3扉のバスを1970年代〜80年代前半にかけて大量に導入しています。前中ドアの車両も並行導入されており、3扉車も通常は降車に中ドアを使用、終点などでは後ろドアも開放します。
千葉県内の京成グループでも同様の例が見られます。
(参考掲載)過渡期改造車
静岡鉄道 日野RB10
撮影:静岡市(2011.8.28)
こちらも3扉車ですが、ワンマンカー黎明期に前中ドアと前後ドアの選択過程で生じたと思われる3扉車。後扉の折り戸が固定されていますので、当初前後ドアだった車両に中ドアを増設し、後ろドアを閉鎖したものだと思われます。従って、3つのドアを同時に使用したことはないものと思われます。
似たような例は、小田急バスや広島電鉄などにもありました。(注4)
非常口
非常口は、事故や災害などの際に車両から脱出するための扉です。バスの場合、通常の乗降口は左側にありますが、何らかの事情で左側からの脱出が不可能になった場合のため、非常口は後部または右側に設置されるわけです。
1951年というのは、国鉄の桜木町駅で電車火災が起き、多数の死者が出た桜木町事故が発生した年で、鉄道車両では非常ドアコックの明示などが義務づけられました。バスにおいても、神奈川県でトレーラーバスの車内で乗客の荷物から出火し、多くの犠牲者が出た事故があり(注5)、その教訓から乗客自らが脱出できる機構が必要となったもの。左側の乗降扉にはドアコックが赤枠で明示されますが、右側の非常口はドアハンドルで操作するようになっています。
後ろ面
中伊豆東海バス いすゞBXD30(1964年式)
撮影:昭和の森会館(2006.6.4)
ボンネットバスやキャブオーバーバス、センターアンダーフロアエンジンバスなど、後部にエンジンのない車両は、後面に非常口が付けられます。
1950〜60年代の、後面が丸形のバスは、大体は非常口設置を前提にした窓配置になっていました。
右側面(後輪前)
立川バス いすゞBA30(1969年式)
撮影:国立営業所(1981.10.10)
後部にエンジンのあるリアエンジンバスでは、右側面が非常口の設置位置になります。
1960年代までは、右側面のほぼ中央部(後輪の前側)に設置する例が多かったようです。その理由は定かではありませんが、エンジンが縦置きであったり大型であったりで、後輪より後ろへの設置が難しかったのかも知れません。
右側面(後輪うしろ)
立川バス 日産デ4R94(1969年式)
撮影:拝島営業所(1983.1.5)
1965年頃から、側面の非常口の位置を、後輪の後ろとすることが多くなります。
左側面の客用扉が前か中央には必ずあるため、非常口を後ろ側に配置することは理に適っています。
写真の日産ディーゼル4R94は1965年に登場した型式で、非常口は後ろの方に配置されました。上の写真のいすゞBA30は同じボディスタイルですが、1963年の登場なので、非常口の位置が異なっているという好例です。
右側面(後輪前)(川崎車体の前後ドア車)
八戸市交通部 いすゞK-CLM470(1981年式)
撮影:牧場主様(南部町 2008.5.5)
川崎車体でも1965年のモデルチェンジで、非常口をそれまでの中央部から後ろ側に変えましたが、前後ドア車の場合のみ中央部に付きます。
左側の客用扉の位置とずらすという考え方は、やはり理に適っています。
なお、八戸市交通部では、富士重工製ボディでも、前後ドア車では非常口を中央部に設置するというユーザー仕様を採り入れていました。
非常口の位置の考え方(川崎車体の例)
非常口の位置が、右後方と定められている理由は、左図のように、客用扉が通常前部か中央部のどちらかには必ずあるため、袋小路となる後部の乗客の避難路を確保するという理由もあると思われます。
そういう観点に立てば、前後ドア車の場合、右図のように非常口を中央部に配置すれば、中央部の乗客は避難しやすくなります。川崎車体の1965〜83年の間のボディの基本設計は、そういう趣旨であると思われます。