演目解説

【狂言】靭猿

 長く都に逗留の大名は、気晴らしに太郎冠者と狩りに出かけると、そこで毛並みの良い猿を連れた猿曳に出会う。大名は、自身の持つ靭(うつぼ=矢を入れる筒)を猿の皮で飾ろうと思いつき、目の前の猿を寄越せと猿曳に言う。弓矢で脅してくる大名に、猿曳はやむなく自分で猿を殺すことに決め、いざ杖を振り上げると猿はその杖を取って舟をこぐ物真似の芸を始める。あまりのいじらしさにこの上は自分も共に殺してくれと大泣きする猿曳に、大名も遂にはもらい泣きし、猿の命を助けることにする。喜んだ猿曳は助命の礼にめでたい猿歌をうたって猿を舞わせ、大名も上機嫌でともにはしゃいで見せる。


【能】安達原

 山伏・阿闍梨祐慶(ワキ)と供の山伏(ワキツレ)は、旅修行の途中、陸奥の安達原に辿り着く。折からの夕闇に足止めを喰らい途方に暮れていると、ふと原野の真中に小さな明かりを見つける。そこには一人の女(シテ)が寂しく暮らしていた。一夜の宿を求める山伏。老婆は一度は断るが、あまりに山伏が懇願するので結局は中に招き入れる。粗末な造りの庵。その部屋の片隅には「枠桛輪(わくかせわ)」と呼ばれる糸車が置いてある。興味をもつ山伏に老婆は、せめてもの持てなしにと、糸尽くしの歌を歌いながら糸繰る様を見せる。
夜も更け、いよいよ寒くなる庵の中。ひと時の暖をとるため老婆は、山へ薪を採りに行こうとするが急に足を止め「その閨(ねや)の中は決して見るな」と言い残し、山へ消えて行く。
それを聞いた山伏の次男坊(アイ)は、主人の言うことを聞かずに祐慶たちが寝静まったのを見届け閨の内を覗いてしまう。果たしてそこには、かの老婆に殺されたと思われる無数の惨殺死体が、天井に届かんばかりに積み重なっていた。驚く山伏たちは、足に任せて逃げていく。そこへ、先刻の女が山伏たちの裏切りに怒りの鬼女(後シテ)となって現れ、凄まじい勢いで襲い掛かるが、結局は山伏に祈り伏せられ、闇の中へと消えて行く。

 男の裏切りによって女が鬼と化す能は、他に「道成寺」などがある。本曲同様、『般若』の面をつけるあたりも、共通点の一つと言えるが、始終、女の持つ凄まじい恋の情念の描写に一貫される『道成寺』に比べ、『安達原』は、むしろ仏教哲学的な面白さがあると言える。しかしそれだけに、物語の背景にある数々の事象が、悉くベールに包まれているのも、特徴の一つと言えよう。
 寂寞の荒野に暮らす一人の女。果たして、彼女は何のためにここに身を置くのか。何故に人を取り殺し、喰らうのか。なぜ鬼になったのか、一切が謎である。それだけに、能以外の戯曲や物語に於て、この荒野の鬼女に関しては実に様々な解釈が為されている。
 昔話風なストーリー。もの寂びた風情。凄惨な死骸の描写。全般を通してホラー的な要素を持つ能であるが、その背景には、人間の持つ生々しい罪業の深さを表現している曲と言える。禁じられたものを見てしまう欲望。罪と知りながらも人を喰らい続ける鬼女の心理。女のひた隠す閨に積み置かれた死体のように、生きていく上で重ねられていく人間の宿業を描いた異色の能である。