2007年・愛知県武豊町
(Taketoyo-cho, Aichi, 2007)

−− 2007.02.07 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2008.05.10 改訂

 ■はじめに − 素朴なローカリズムに魅せられて

 愛知県武豊町 −正式には愛知県知多郡武豊町− を私は07年1月20日(土)07年11月17日(土)の2度訪ねて居ます。現地を訪ねる前は全く知らない土地だったのですが、そして訪ねる予定は無く時間が余ったのでその場で決めたのですが、実際に訪ねてみて好きな町の一つに成りました。
 何故だか自分でも解りませんが、地方のちっぽけな町で何かその素朴なローカリズムに引かれたのだろうと思います。例えば、競馬騎手を連想させるJR武豊駅、武雄神社の照葉樹林帯や弥五郎殿、町中に在った常滑焼の靴、名鉄河和線の「上ゲ駅」、フィリピン・レストランなどなどです。だから2度目に訪れた時はそういう目的意識を持って町を散策しました。そこには南セントレア市を作ろうとした”脳足りん”とは対極の感性が感じられます。
 本ページはそんな武豊町の小さな思い出を文章に纏めた、小さな旅行記です。

 ■「たけゆたか」では無いJR武豊駅


写真武豊:武豊町のマンホール蓋。 <07.01.20撮影>愛知県知多郡武豊町は町の花・山茶花(※14)です(左の写真)。
 07年1月20日に旅の時間が余った私は、知多半島の内陸を走るJR武豊線に初乗りすることを思い立ち、JR東海道線の大府駅で乗り換え終点の武豊駅(武豊町字金下)で下車しました。乗った列車は2輌編成のディーゼル・ワンマンカーでローカル線ですが、都会の隅っこを通る為に沿線風景は殺風景でした。
 ところで「武豊」の由来は後述しますが、「武豊」の読みは競馬騎手の「たけゆたか」では無いですゾ!、左下の写真に目を転じて下さい。
写真武豊駅:武豊駅の表札。写真武豊駅2:武豊駅の構内風景。 左は武豊駅の表札
  TAKETOYO
とローマ字表記して居ます(07年1月20日撮影)、つまり読みは「たけとよ」です。

 右は武豊駅の構内風景(07年1月20日撮影)で、ご覧の様に単線で引込線レールとの絡み具合に侘しさが漂って好ましく感じられます。背後には高層マンションが見え都会の一部であることが判ります。
 

 ■武雄神社の社叢

 私は駅の北西300m位の小高い場所に鎮座する武雄神社(武豊町字上ケ8)に向かいましたが、右上の写真は神社に行く途中の踏切からズームで撮ったものです。
写真武豊武雄:武雄神社の社叢。 神社境内は可なり広く社殿南側には石の鳥居が3つ在りました。鳥居を潜って行くと右の「武雄神社の社叢(しゃそう)」説明板(07年1月20日撮影)が立ち「社殿の北と東は常緑広葉樹照葉樹とも、※15、※15−1)に覆われて居る」旨が記されて居ます。
 これですね、マンホール蓋に描かれた山茶花も町の木であるも共に葉の表に光沢が有る照葉樹で、暖帯林(※15−2)は日本では西南部だけに見られる樹林で、説明板に「知多半島としては数少ない暖帯林と記して在るので、この辺りが北限なのでしょう。

 ところで、私は別の資料の佐々木高明氏の△1のp489の図1(下の図)に別の観点から非常に興味をそそられました。と言うのは照葉樹林文化(=常緑広葉樹林)の東縁フォッサマグナの断層(※x〜※x−1、△2のp171)と奇妙に、或いは正にと言うべきか、一致して居る事で、この図1は重要と考えて居ます。







    {このフォッサマグナへのリンク及びフォッサマグナの図及び照葉樹林文化の領域の図は08年5月10日に追加}


 この問題をこれ以上ここでは追究しませんが、心に記して置きましょう。










写真武豊武雄2:武雄神社の社殿。 左が境内奥の武雄神社の社殿(07年1月20日撮影)です。一の鳥居手前の「武雄神社概要」説明板に拠ると、主祭神は須佐之男命(=素戔嗚尊、※16)で、それに大己貴命・少彦名命・弥五郎殿命を配して居ます。
 この中で変わった名の神様は弥五郎殿命「イマタネツグノミコト」と仮名を振って居ますがその説明は無いので後日宮司さんに電話で尋ねたら古文書にそう在るそうです。
 この弥五郎殿命は普通に読めば「やごろうどののみこと」で、弥五郎(やごろう)(※17)は素戔嗚尊を牛頭天王として祀る神社 −八坂神社や津島神社(※16−2)− には必ず登場し、熊襲や隼人の英雄とか武内宿禰であるとか、「実態が曖昧」な存在です。更には力持ちの巨人 −ダイダラボッチ(※17−1)の様な− とも言われ、祭では除疫神である牛頭天王(※16−1)の下で厄祓いの藁人形にされます。災厄を負わされる藁人形とは正にスケープゴート(※17−2)ですから弥五郎は先住民を象徴する蛮神と考えられます。暖帯林の北限とされるこの辺りに太古の昔「服(まつろ)わぬ民」が蟠踞して居たのかも知れません。


 ところで「神社概要」説明板に拠ると、当社の南東一帯は字(あざ、※18)の名称が「金下(かなげ)」(←JR武豊駅周辺)で、これは古代言葉の神奈備の下(もと)」という意味(※19)だそうで、「上ケ(あげ)」に位置する当社はそれ故に経緯の詳細は不明乍ら奈良時代又はそれ以前の創建と記し、朝廷より従三位の神階を授けられ広大な神域を領した大社で、中世には長尾城が築かれるとその守護社とされ以来武門に篤く信仰され、その後明治5(1872)年に村社に、皇紀2600(1940)年に郷社に、昭和30(1955)年に4級社に成り今に至ったと在ります。右の石柱に「武雄神社」「四級社 奮國幣社」と記されて居ます。

 この社殿の左には「武雄天神守」の扁額を掲げた社も在ります。毎年4月15日の例祭では山車(だし、※20)6台が境内に勢揃いしますが、その中には何と江戸時代に建造された山車も在ります。この山車祭は宝暦5(1755)年の地誌にも記されて居るそうえす。
写真武豊武雄3:武雄神社内の真紅の社。 二の鳥居近くには小さいが人目を引く真紅の社(やしろ)が在ります(左の写真、07年1月20日撮影)。写真武豊武雄4:武雄神社内の真紅の社。
 後日、宮司さんに拠ると、これは大峰講の修験者たちの社で年に一度大峰山に御参りに行くそうです。屋根瓦は十六花弁菊花紋 −これは皇室の紋です− (右の写真、07年1月20日撮影)ですが、その訳は宮司さんもご存知有りませんでした。

 神社由緒の中に長尾城という語が出て来たので調べると、尾張長尾城はこの辺りに岩田氏が戦国前期(=恐らく1500年前後)に築いた平山城で、武雄神社境内には岩田氏居館が置かれました。その後、織田信長配下の水野氏に攻められ降伏、桶狭間の戦(1560年)後に廃城と成って居ます。更に判ったことは武雄神社は「武豊」の地名の”片棒を担いで居る”のです。下をお読み下さい。

    ++++ 「武豊」の地名由来 ++++
 明治11(1878)年に知多郡の長尾村(=武雄神社を氏神とする)と大足村(=豊石神社を氏神とする)が合併する事に成り、双方の氏神社から1字づつ取って誕生したのが武豊村で、更に昭和29(1954)年に富貴村を併合して現在の武豊町に成りました。それ故地元では今でも元の地域を「武豊町の長尾地区」などと呼んで居ます。
 武豊町の字(あざ)は、長尾地区・大足地区は2度の合併に際し昔の区画名を小字(こあざ)の儘残し、富貴地区のみ大字(おおあざ)を設定しました。武雄神社の現住所の「上ケ(あげ)」の名は高台に在る境内の尊称らしく、特に岩田氏居館が在った頃は今の「御上(おかみ)」と同様に使われて居た様です。
 そして武雄神社の北北西500m位の所に名鉄河和線の「上ゲ駅」(武豊町字下門)が在ります。駅名では読み易い様に「ゲ」の文字にして在ります。この駅の住所は字下門 −多分長尾城の門が在った為− にも拘わらず字上ケが隣接する為に「上ゲ駅」にして在る点に、この地域の人々の「上ケ(あげ)」に対する思い入れを感じます。この「上ゲ駅」の南隣が知多武豊駅でJR武豊駅とは僅か500m位の距離です。
    −−−−−−−−−−−−−−−−−−−


 因みに「武豊」の地名の”片棒を担いで居る”もう一方の豊石神社(武豊町字明神戸60)は武豊駅の南東400m位の地に在り、毎夏7月第3土・日には「蛇車」 −上に龍の絡繰人形が載った江戸時代の建造の山車− が出て、夜境内で手筒花火を振り回す「蛇の口花火」が知られて居ます。

 ■常滑焼の靴


写真武豊オブジェ:靴のオブジェ。 そして駅に帰る途中の黒い板張の家の脇で見付けたのが左の靴のオブジェ(07年1月20日撮影)です。赤い陶器は常滑焼(※21)の様な感じですが、そう言えば常滑市は同じ知多半島の西岸で、ここから北西に10km位に位置して居ます。現在常滑は中部国際空港(愛称:セントレア(Centrair)、※22)への玄関口です。
 常滑焼と言えば子供の頃に遊んだ大きな赤色土管を思い出しますが、私はこの赤さは八丁味噌(※23)を混ぜているからだ、と確信して居りますゾ、ブワッハッハッハッハ!!
 これは「名古屋の丸八」に次いで本ページ2番目の八丁味噌説でした。武豊町も合併で生まれた名称でしたが、セントレアと聞くと以前の合併騒動を思い出します。

 [ちょっと一言]方向指示(次) セントレアと言えば知多半島南端に位置する愛知県知多郡の美浜町南知多町の合併計画が持ち上がり危うく南セントレア市が誕生しそうに成りました。これも個性的な名古屋的感性なのか鈍感力(△3)を先取りして居たのか、或いは新空港と愛知万博で”舞い上がった”所為か解りませんが住民投票の結果、合併そのものが否決され”お騒がせ”で終了。結局07年4月現在、カタカナの市名は山梨県の南アルプス市だけです。
 05年という年は他にも新名称が話題に成った年で、千葉の方では太平洋市が物議を醸し結局は山武市に落ち着き、そのドサクサを縫って林屋こぶ平が大名跡の「正蔵」を襲名して仕舞いました、先代の林屋正蔵は人気・実力共にこぶ平などの比では無かった実子・林屋三平(=こぶ平の父)にさえ「正蔵」の名を継がせなかったのに、です。無理して背伸びした所為か、こぶ平は襲名時の御祝儀の申告漏れで07年春に国税から追徴課税されました。


 愛知県は八丁味噌ばかりが有名ですが、実はここ武豊町も味噌溜まり醤油(※24)の一大生産地です。そして嘗ての国鉄時代に武豊駅の先に武豊港駅が在ったのをご存知ですか?、ムッフッフ!





 ■結び − 




φ−− おしまい −−ψ

【脚注】


※14:山茶花(さざんか、sasanqua)は、(字音サンサクヮの転)ツバキ科の常緑小高木。四国・九州の暖地に自生。高さ約3m。葉は厚い。秋から冬に掛けて白花を開く。八重咲・一重咲、淡紅・濃紅など園芸品種が多く、庭園・生垣などに植栽。種子は大きく、油を採る。材は細工物にする。ヒメツバキ。漢名、茶梅。季語は冬。

※15:常緑広葉樹(じょうりょくこうようじゅ、evergreen broadleaf tree)とは、一年中緑色をして居る広葉樹。シイ(椎)/カシ(樫)/クスノキ(樟・楠)/アオキ(青木)/サカキ(榊/賢木)/ツバキ(椿)/チャ(茶)/コーヒー(珈琲)/月桂樹/ニッケイ(肉桂)/ビンロウ(檳榔)/オリーブ/ヒイラギ(柊・疼木)など。葉の表面に光沢が有るものを照葉樹とも言う。
※15−1:照葉樹林(しょうようじゅりん、laurel forest)とは、亜熱帯から暖温帯に掛けて見られる常緑広葉樹を主とする樹林。一般に、葉は深緑色で革質・無毛、表面にクチクラ層が発達し光沢が有るので、こう名付ける。西南日本、アジアの東南部、北アメリカのフロリダ半島、南アメリカの中部などに見られる。常緑広葉樹林。
※15−2:暖帯林(だんたいりん、warm temperate forest)とは、暖温帯に良く発達する森林帯。熱帯林と温帯林との中間に在り、常緑の広葉高木林で、日本では沖縄・九州・四国などに分布。カシ・シイなど常緑広葉樹を主とし、クヌギ・コナラ・マツなども含む。カシ帯。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>










※x:フォッサマグナ/フォッサ・マグナ(Fossa Magna[ラ])とは、(大きな溝の意)中部地方で本州を横断する新第三系 −新第三紀(約2300万年前〜180万年前迄)に形成された地層− の地帯。日本の地質構造上、東日本西日本を分ける重要な地帯ナウマンの命名糸魚川静岡構造線はこの地帯の西縁を限る断層で、東縁は不明。
※x−1:糸魚川静岡構造線(いといがわしずおかこうぞうせん、Itoigawa-Shizuoka Tectonic Line)とは、糸魚川から松本平・甲府盆地の西を通り、早川に沿って静岡に至る断層線で、プレートの境界と考えられて居る。フォッサマグナの西縁を成す。矢部長克(ひさかつ)(1878〜1969)の命名。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
















※16:素戔嗚尊・須佐之男命(すさのおのみこと)は、日本神話で、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の子。天照大神の弟。「すさ」は「荒(すさ)ぶ」に通じ凶暴で、天の岩屋戸の事件を起した結果、高天原から追放される。反面、出雲国では八岐大蛇(やまたのおろち)を斬って天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)を得、天照大神に献じ国を守った。又、新羅に渡って、船材の樹木を持ち帰り、植林の道を教えたと言う。本地垂迹説では、牛頭天王の垂迹とされる。出雲系の祖神(おやがみ)。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※16−1:牛頭天王(ごずてんのう)とは、〔仏〕元インドの祇園精舎の守護神とも、薬師如来の化身とも、素戔嗚尊に垂迹(すいじゃく)したともされる(本地垂迹説)。除疫神として、京都祇園社(八坂神社)などに祀る。頭上に牛の頭を持つ忿怒相に表される。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※16−2:津島神社(つしまじんじゃ)は、愛知県津島市に在る。主祭神は建速須佐之男命(=素戔嗚尊)で旧は津島牛頭天王社と呼ばれた。全国3千余りの津島社の総本社。

※17:弥五郎(やごろう)とは、厄を負わせて送り出したり、焼き捨てたりする藁人形(或いは葦人形)の一種。九州では大男とされ「弥五郎どん」と呼ばれる。
※17−1:だいだらぼっち/大太法師(だいだぼうし)は、巨人伝説の一。東日本に広く分布。絶大な怪力を有し、富士山や琵琶湖を1夜で作った、榛名山に腰掛け利根川で脛を洗った、大きな足跡が池沼や窪地に成った、などの伝承が各地に在る。元来は国造りの地方的英雄だったが、時代と共に法師や入道姿に変わって行った。だいだら坊、だいだら坊主。他に方言多数
※17−2:スケープゴート(scapegoat)とは、(元意は「贖罪の山羊」で、古代ユダヤで贖罪の日に人の罪を負わせ荒野に放したヤギを指す)他人の罪を負わされる人。民衆の不平や憎悪を他に逸らす為の身代り・犠牲。社会統合や責任転嫁の政治技術で、多くは社会的弱者や政治的小集団が排除や抑圧の対象に選ばれる。

※18:字(あざ)は、町村内の区画の名。大字と小字とが在り、普通前者は区画名の前に「大字」と付し、後者を単に「字」と付す。

※19:神奈備(かんなび、かむなび)とは、神の鎮座する山や森。神社の森。三諸(みもろ)。神名備・神南備・甘南備。祝詞、神賀詞「大三輪の―」。神奈備山とは、神の鎮座する山の意。

※20:山車(だし、float, festival car)は、(ダシは「出し物」の意で、神の依代(よりしろ)として突き出した飾りに由来すると言う)祭礼の時、種々の飾り物など −鉾(ほこ)・人形・山などに依り山形・屋台・船車形などの形式が在る− をして引き出す車。屋台。季語は夏。「―を引く」。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
 補足すると、呼称東京を始め関東圏では山車(だし)や屋台が多く、関西では檀尻(だんじり)(←楽車・山車の字も当てる)、京都では山鉾(やまぼこ)、博多では山笠(やまがさ)などと言い、どれも同類。

※21:常滑焼(とこなめやき)は、常滑市付近から産出する陶器。創業は平安末期で鎌倉時代に隆盛。b器質で、自然釉が掛かり、質は粗であるが堅い。又、江戸時代には朱泥の陶器でも知られる。主に(かめ)を製したが、後に土管タイル・瓶・急須・茶碗・皿・鉢などを作る。とこなべやき。
※21−1:b器(せっき、stoneware)とは、(明治40年頃の造語。「b」は国字)素地が良く焼き締り、吸水性の無い焼物。焼成の火度が磁器よりも弱く、多くは有色で不透明。気孔性の無い点で陶器と区別する。土管・瓶・井戸側・火鉢などの大形物に用いる。常滑焼備前焼信楽焼はこれに属する。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※22:中部国際空港(ちゅうぶこくさいくうこう)は、愛知県名古屋市から南に約35km、常滑市沖の伊勢湾上に在る中部地方の国際空港。成田・関空に次ぐ我が国3番目の国際空港として、愛知万博の開催に合わせ2005(平成17)年2月に開港した。愛称「セントレア(Centrair)」は中部(Central)と、空港や航空をイメージする(Air)を組み合わせた和製の造語。<出典:一部「Microsoft エンカルタ総合大百科」より>

※23:八丁味噌(はっちょうみそ)は、愛知県岡崎市八丁(現、八帖町)から産出され始めた味噌。大豆だけを原料とした赤褐色の堅い辛味噌(からみそ)で、旨味と渋味に特徴が有る。岡崎味噌。三州味噌。

※24:溜まり醤油(たまりじょうゆ)は、醤油の一種。原料の大豆の割合を多くし、食塩水を少なくして醸造したもの。醤油より濃厚愛知・三重・岐阜などの特産。溜まり。好色五人女2「醤油の―をまいらば」。























    (以上、出典は主に広辞苑です)

【参考文献】
△1:『歴史読本・特別増刊 日本人の起源を探る』(新人物往来社編・発行)。

△2:『県別日本人気質』(河出書房新社編・発行)。

△3:『鈍感力』(渡辺淳一著、集英社)。「鈍感力」という語は07年前半に流行語化


●関連リンク
参照ページ(Reference-Page):照葉樹林文化圏の図とフォッサマグナ▼
資料−照葉樹林文化とフォッサマグナ
(Laurel forest culture and Fossa Magna)



補完ページ(Complementary):フォッサマグナについて▼
東西三都物語(The 3-cities of east and west)

八丁味噌の本場の岡崎市▼
日本、珍にして奇なる光景(The RARE and STRANGE scene, Japan)




総合目次に戻ります。Go to Main-menu 上位画面に戻ります。Back to Category-menu