学童期を正常に過ごせなかった場合、将来に深刻な影響をもたらします。
しかしアスペルガーにとっては「自分の何が異常なのか」を理解することができません。
理解できるのは、卒業して何年も経過してからのことが少なくないのです。
それで責任が自分にあるとか、「怠けた報いを受けているのだ」などといわれても困ります。
知能が高く口も達者なアスペルガーだとしても、健常者の常識は少しも当てはまらないのです。
何でもかんでも健常者を基準に考えることこそが、誤った常識なのですから。
アスペルガーの本当の努力は、誰からも評価の対象とならないことがあります。
もともと純粋な感覚の持ち主ですから、人から「君は努力をしていないね」などと言われると、
それを真に受けてしまい、努力をできない、だめな人間だと思うこともあるほどです。
それは誤解です。
アスペルガーの努力を理解することは難しいのです。
私の努力もそうです。
たとえば絵を描くとき、努力はしていないのでしょうか?
努力をしても絵を描けない人がいるのに、私がそのようにできると考えるのは、おかしいですね。
いつも描いている絵をまとめました。 |
20年前といえば私が小学校で不快な思いをしていたころ…。
当時は「自閉症」がどのようなものであるか知らず、私がそれに含まれることを露ほども知られていませんでした。
それが今は、小学校へ入る段階で適切な対応を取ることも可能になっています。
なんだかうらやましく感じます。
しかし父兄や学校の先生の協力だけでは、不十分といわれています。
そこで私が小学生だったころの経験が役立つというのです。
同じ発達障害を持っているので、共通したものが数多くあるということです。
ところで……20年前と今の小学校は変わっているのでしょうか。
それは私にはわかりません。
少なくとも、私の「主観」ではなんともいえないのです。
しかし私の「経験」が役に立つのであれば、文章に起こせば十分であるから、
教育の現場そのものは「お呼びでない」ということになるでしょう。
つまり実質、私に何か特別な任務が与えられることにはならず、
ただ無償でこうしてウェブサイトやブログを更新することしかできないのです。
もし、どなたかご要望があれば、喜んで駆けつけますが……
自閉症・アスペルガー症候群は「生まれながらの民主主義者」などと形容される場合があります。
私は物心ついたころから「適材適所」という概念をよく理解していたつもりで、
「自分にはできないこと」や「自分には適切ではないこと」を避け、適材適所に役割を持たせるべきだと考えていました。
たとえばここに「新鮮な寿司ネタ」があるとします。
私はそのネタを仕入れることができるのですが、実際に調理するのはへたくそなのです。
私が寿司を握っても、そのネタは台無しになってしまいます。
そこでどうするのかというと、
寿司を握るのが上手い人にネタを譲る。
別に、私が利益を得る義務はないと、ずっと思っていました。
私のネタを使うことでその人が出世するなら、それでいいと思っているのです。
あとから何か請求するつもりはさらさらありません。
私はそれで何の問題もないのに、どうしても人間の一般社会はそうではない、といいます。
どうしても調和しません。
適材適所の何がいけないのか……
唐突に更新してみました。
クイズやパズルの雑誌などに「迷路」の問題がありますよね。
瞬間的〜短期的の記憶に障害があると、この迷路を解くことが非常に難しくなります。なぜでしょうか。
迷路にペンで書き込みをするならともかく、「目」で追っていくだけでは「どこまで進んだか」を忘れてしまうからです。
自分の経路を見失うので、どこからやり直せばいいのかもわからなくなり、その結果、迷路を解けなくなるのです。
うちにはネコが4匹います。
もちろん見分けることはできます。
しかし短期記憶に問題があると、ネコがその場を移動したり、自分で抱いて移動させたりしたことを“忘れてしまう”ので、
そこにはいないのにネコの名前を呼んでしまう(^o^)/オーイ……という変なことが起こるのです。
私は数を数えることが苦手です。
数字がわからないということではありません。
1から順番に数えていると、12345678910…と1の位はスムーズにいくのですが、
20、30と10の位が上がっていくと、どこまで数えたのかを忘れてしまうからです。
指を折るなり、何かに書き留めるなりしなければ、100まで数えることさえままなりません。
覚えることが苦手というより、「現在進行形で忘れていっている」と表現したほうが適切なくらいです。
ほかにも暗算ができなかったり、鉛筆や消しゴムをちょっと手放しただけでどこに置いたかわからなくなってしまったり、
電話番号を暗記できずに何度も見直したりするようになっています。